第69話 ルツィアとエーレン:レゾン・デートル Ⅱ
「ルツィア!」
反射的に私はクラーラを振り上げる。ルツィアに向かって。
この距離なら確実にルツィアの首は落とせたはず!
なのにクラーラの刃先は宙を掻き、ルツィアはそのまま笑っている。
そして私の腕にはなんの手ごたえも伝わってこなかった。
「私はおまえの姉よ。ルツィアなどと平民のように呼ばれる謂れはないわ」
あ、あのときと同じ言葉。
私がいつか初めてルツィアを呼び捨てにしたときと。
でもあのときみたいにルツィアの目は怒りに燃えていない。
それはぞっとするほど静かな菫色のまま。
「ほら、いつものように姉さんと呼んで頂戴な、エーレン?」
それと同時にルツィアの口角がくいっと上がる。
真っ白な歯がぞろりと見える、綺麗だけれど噛み殺すような笑顔……そこには、歴史書の中の肖像画と同じ、赤い悪神、イハがいるように見えた。
「これは私の影。本物の私はお前の知らない場所にいるわ。だからこんな簡単に、無防備に、おまえの前にいられるの。
いくらおまえの剣でも影はどうにもできなくてよ」
優しく微笑んだルツィアの目元の底知れない邪悪。
思わず私は問いかける。
「あなたはルツィア?それともイハなの?」
「さあ。でも今まで通り姉さんと呼んでくれてよくってよ。私はどちらでもあるしどちらでもないんだもの。
そうね……でもルツィアの方がいいかしら」
そう言いながらルツィアが無邪気な少女のようにその場でくるりとターンをする。
レースの重なったドレスの裾がふんわりと舞い上がり、ゆっくりと元の位置へ揺れ落ちた。
「私は幸福になるために帰ってきたのよ、エーレン」
「ふざけないで!この国を手に入れるのが姉さんの目的なんでしょう?そのために私を殺そうとして、サキをあんなにして……!
幸せになんか勝手になりなさいよ!世界の果てにでも行って!」
「そうね。はじめはそうだった」
ルツィアの浮かべる笑みが深くなる。
でもそれとは反するようにルツィアの虹彩はきゅっと小さくなり、瞳孔は大きく開いた。
毒蛇。
私の頭を横切ったのはその単語だった。
美しいのに背筋が冷えるほど禍々しい、真紅の蛇の目……。
「ねえ、エーレン、本当におまえはまだ思い出していないの?
この国を手に入れても世界を手に入れても、おまえがいる限り私は幸福になんかなれない。あの屈辱を私は忘れない。永遠の呪詛、永遠の願い。
……
「意味がわかんないわよ!姉さんはこの国が欲しかっただけなんでしょう?
だから私を殺してカタリナと戦って……」
「あら、やっぱり少しは思い出しているんじゃないの」
ほほ、と口元に手を当ててルツィアが笑う。
宮廷の舞踏会でするときとまるで同じ仕草だった。
その余裕が、私は無性に悔しかった。
「でももうそれだけじゃないわ。
繰り返される言葉とともに、ルツィアの瞳が赤く染まる。
まるで溶けた鉄のように。
「まずはおまえの可愛い王子を奪ってやるわ。そうよ!奪われる痛みを一度その身で知りなさいな!
私からすべてを奪ったおまえが!!」
ルツィアから叩きつけられる、私には意味の分からない叫び。
何言ってんのよ。
ゲームではあっさり私を殺したくせに!
私なんか本当は『白薔薇の帝国』では何もできないモブだったんだから!!
何より、そんなわけのわからない理由でサキを傷つけさせたりするもんか!!
「黙れ!あの花を刈り取ればサキはきっと助かる!」
「まあ、勘のいいこと。でも、無理よ」
ルツィアがにんまりと目を細めた。
でももういい。
こんなのシカト!
ここにいるルツィアに私の剣が効かないなら、まずはサキを苦しめるものから___!!
「黙れって言ってんでしょ!!」
私は赤い花の群れへ何度もクラーラを振り下ろす。
なのに、どうして。
さっきルツィアの体を斬ろうとしたときと同じ、頼りのない手ごたえ、風圧にはなびくくせに刃には刈り取られない花びら……。
「言ったでしょう……無理なのよ……!」
勝ち誇るようなルツィアの声。
うるさい!うるさい!うるさい!
伝令が間に合ったみたいで侯爵の弓兵も矢を射かけてくれているけれど、花はその風にそよぐばかり……。
本当に無理なの?
私にはサキを助けられないの?
『クラーラをちょうだい』
不意に、耳元であの少女の声が聞こえた。
『クラーラがあれば古き剣は磨き直され新しい光になる。運命を戻す光に』
私はもうその声を疑うことはなかった。
誰かも、なにかもわからないけれど……初めて声を聞いたときの懐かしさ、ここまで導いてくれたこと、それは嘘ではないと思ったから。
私はアトロポスを抜き、クラーラの刀身へと斜めに組み合わせるようにする。
これでいいのかな……?
『ありがとう……』
少女の声とともにまばゆく光るアトロポスの柄の宝石、指先に走る快い衝撃、激しい光___。
「エーレン?!おまえ、なにを!!」
ルツィアがなんかわめいてるけど、私だって知らないよ、そんなの!
……そして、そのすべてが終わったとき、私の手元には一本の剣が残されていた。
少し無骨な柄にはヨンナという古代文字とともに嵌め込まれた宝石、けれど刀身は薄く、輝くほど練り上げられ……。
クラーラとアトロポスが一つになった?!
光輝剣クラーラと運命を断ち切る剣が?!
『運命を戻す光』
少女の声は確かにそう告げていた。
なら、もしかしたら!『これ』ならできるかもしれない!
私は思いっ切りクラーラと一体化したアトロポスを花へと振り下ろす!
……さっきまでの手ごたえのなさが嘘みたいだった。
細かくちぎれた真っ赤な花びらは四散し、灰のように崩れていく。
「くっ!」
背後から聞こえたルツィアのうめき声。
振り向いてみると、ルツィアの頬には一筋の傷が刻まれていた。
影だから私の剣でもどうにもできないと言い放ったその頬に。
「姉さんを騙すなんて悪い妹ね……思い出していないふりをするなんて!!
そんなところが憎いのよ、エーレン!!」
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