③

「こんなにわかりやすいヒントがあったのにねえ」


 オカルト先生こと、斎藤晴彦先生が呻くように言った。5台あるパソコンのモニターには一様に一枚の手紙の画像が表示されている。


「これを読んでやっと気付いたんだから」


「あのー」


 僕は内心ビクビクしながら切り出した。


「この“道通みちとおる様”っていうのはなんですか」


道通どうつう様は岡山で信仰されている蛇の神だ。トウビョウ、ドビン、トンボガミなどとも呼ばれる」


 先生は短く答えた。顔は青白く憔悴しきっているように見える。


 佐々木るみ先輩由来で斎藤先生の調査協力要請のメールが届いたのは四日前のことだった。突然のメール自体は全く珍しくなかった。先生はよく突発的に調査という名目で各地を巡り、そこにランダムに選んだ学生を連れていくのが好きだった。彼は気前も良く、気さくな人柄なので旅行中の金銭的な不安やストレスは全くなかったし、行くだけで単位を認定してくれることもあって「オカルト先生の小旅行に行く権利」を獲得した学生は皆から羨望の眼差しで見られた。しかし問題は内容だ。いつものような小旅行の知らせではない。

「お爺様にアポイントメントを取りたい」というのだ。

 困惑しながらも家族に事情を話した。そして突然その二日後に、斎藤先生ではなく佐々木るみ先輩が家に訪問してきたのだ。

 ポーリク青葉教会。これが僕の実家である。アイルランド人の牧師が日本にキリスト教を広めるために建てた教会だ。そのアイルランド人が僕の曽祖父にあたる。ポーリク青葉教会はこの時代に悪魔祓いをやっているということで一部の人間の間では知名度が高い。大学に入学してすぐ斎藤先生からポーリク教会の子だよね、と声をかけられたほどだ。

 悪魔祓いの儀式は主にカトリックの教会が行っている儀式である。昔は広く行われていたかもしれないが、20世紀を迎えてからのキリスト教の悪魔祓いに対する態度はやや懐疑的である。しかし今でも悪魔祓いを行う聖職者は少なからずいる。

 有名なところだとかの教皇ヨハネ・パウロ二世である。彼は教皇在任中に少なくとも3回の悪魔祓いを行ったとされている。

 2000年のことだが、サンピエトロ広場で行われた教皇の一般謁見に参列した少女がいた。少女は19歳だというのに老婆のように腰が曲がり歩くのもやっとだった。

 教皇が現れると、彼女は激しく身悶えしながら卑猥な言葉を喚き散らしたため、少女をバチカン内の私室に連れて行き悪魔祓いをしたという。だが、この悪魔祓いは失敗に終わった。他のエクソシストが翌日その少女の治療にあたったが、彼女はドスの利いた声で「教皇さえも俺を倒すことは出来ない」と嘲り笑ったという。

 教皇はこの少女について「悪魔との戦いは今なお続いている」と発表した。

 また2013年、教皇フランシスコが悪魔祓いをしたという映像がネットに出回ったことがある。彼は、サンピエトロ広場でミサを行ったあと車いすの男性の額に手を当てた。男性は体を震わせ大きく口を開けたあと、がくりと首を落とした。もっとも、この動画に関してローマ法王庁は悪魔祓いではないと否定しているが。

 そして2014年、ローマ法王庁聖職者省が「国際エクソシスト協会」をカトリック団体として公認すると発表した。同教会には、30カ国から約300人のエクソシストが所属しているという。

 カトリック教会の公式見解では、悪魔祓いにおいては依頼してきた人物が精神疾患を抱えていないかどうか確認することが必要となる。そして、医学的に説明がつかないと医師に診断された場合、悪魔祓いが行われることになる。

 そもそもポーリク青葉教会はカトリック教会ではないため、亡くなった曾祖父も、現在牧師である祖父も公認のエクソシストというわけではない。しかし悪魔祓いの流れとしてはかねがねカトリックのそれと同じで、まずは依頼してきた人物のカウンセリングから始める。

 だいたいは精神疾患か、家庭や職場など日常生活の悩みを抱えている人で、医療機関への紹介や親身に相談に乗ることで解決してしまう。

 だが稀に、ホンモノもいる。

 その証拠と言ってはなんだが、僕は幼い頃ホンモノを見たことがある。

 その日は雲一つない晴天だった。いつもは僕を猫かわいがりしていた祖父だが、僕を見るなり、


「教誨室に近付いてはいけないよ」


 と低い声で言った。しかし子供と言うのはやるなと言われたことは余計やりたくなるものである。

 こっそりと教誨室の小窓に顔を押し付け、中の様子を窺った。

 若い女性――のように見える。両脇を男性に抱えられて入ってくる。思わず叫び声を上げそうなほど醜悪な顔。歯を剥き出しにして、首をぐるぐると回転させている。そしてその度に彼女の口からぐぐぐ、というくぐもった低い声が漏れる。まるで老人のような。祖父が近付くと彼女は――いや、は激しく暴れだす。男性二人が手際よくロープで手足を縛り、顔に白い布を被せた。

 祖父が小瓶から聖水を散布して、儀式は始まった。


 ――くれどいんでむぱとれむおむにぽてんてむ


 祖父が唱えるのはラテン語の信徒信条だ。女性はよりいっそうもがき苦しむ。それがもがくたびすさまじい悪臭は強くなり、小窓の隙間を通って僕の鼻をついた。鼻がもげそうだ。

 その間も祖父はひるまず呪文を唱える。


 ――えくそしざますてぃおみにすいむんどぅすむすぴりたすおむにさたにかぽてんてぃすおむにいんくるしおいんふぇるなりすあべれべるさりいおむにれでぃおおむにこんぐれがてぃおておせくたでぃあぼりか


 突風が吹き、両脇にいた男性が壁に吹き飛ばされた。祖父の呪文が一瞬途絶える。白い布が落ち、その顔が露わになる。

 痣だらけの肌、白濁した二つの眼球。口は耳まで裂け、そこから耳障りな笑い声が漏れる。さきほどとは全く違う姿がそこにはあった。

 突如日が陰り、にわかに雨が降ってきた。教誨室の蝋燭が醜く変わり果てた女性の顔を照らしている。体が濡れて不快なのに、こんなに恐ろしいのに、何故か目が離せない。


“Táim i gcónaí ag faire ort.”


 流暢なアイルランド語だった。今悪魔祓いを受けている女性は完全なる日本人のはずだ。アイルランド語など話せるはずもない。それなのに。十字架を持つ祖父の手が小刻みに震えている。それに気付いたかのようにそれは大きな声で喚き続けた。


「汚らしい淫売の混ぜ物、愚かな人の子、お前の人生は無駄だ、無駄ばかりだ」


 女性の口から吐瀉物が吹きこぼれ、祖父の聖衣が緑色に染まる。それにひるまず祖父はその顔に聖水を振りかけた。

 すさまじい悲鳴と共にその顔がじゅうと音を立てて焼ける。もがくそれに再び白い布をかけ、儀式が再開した。


 ――えくそしざますてぃおみにすいんどぅすむすぴりたすあんくあにまむれっどいんてぐら


 あああああああああああああああああ

 声が激しく大きくなり、小窓が揺れる。


 ――れすとらんす!れすとらんす!


 祖父が高らかに宣言すると悪魔の首がガクリと崩れ落ち、動かなくなる。

 壁に打ち付けられた男性二人が立ち上がりぐったりとした女性の体を外へ運び出していった。

 雨が止み、灼けつくような日差しが首を焦がしてもその場から動けないでいた。悪魔は言ったのだ、『Táim i gcónaí ag faire ort(お前をいつも見ている)』と。それには、もしかして僕も。


「幸喜」


 呼ばれて後ろを振り返ると、祖父が顔を顰めて仁王立ちしていた。その後こってりと絞られた挙句、僕も悪魔祓いの儀式を受けさせられることになった。

 祖父が言うには悪魔は、INFESTATION出没OPPRESSION攻撃POSSESSION憑依、の三段階に分けて徐々に人間を追い詰めるのだという。

 なぜこのようなまどろっこしいやり方をするかというと、人間の魂というのは元々強固に肉体と結びついており、悪魔が取り入ろうにも健康に日常生活を送っている者にはまるで隙がない。存在を認知させ、攻撃して弱らせてからやっと取り憑くことができるのだという。そして三段階目になってからやっと訪れる人が多いため、救うことができない場合の方が多いそうだ。

 悪魔は常に憑依する肉体を探しているため、悪魔祓いの最中の体力を消耗したエクソシスト側もかなり危険なのだ。そういった力もなく幼い僕は悪魔の格好の標的で、悪魔祓いを見るだけでも危険が及ぶ可能性がある。そのため祖父は近付くな、と言ったのだった。

 幸いにも僕には何事もなかったが、女性を救うことは未だできないでいる。彼女は今も教会に通い続けているのだ。

 この出来事は僕に悪魔の存在を信じさせるのには十分だった。

 手も使わずに吹き飛ばされる大の男。人相が変わってしまった女性。本人が全く知らないはずのアイルランド語を流暢に操るそれは、まぎれもなく悪魔である。


 斎藤晴彦先生が出演しているようなホラー特番の悪魔祓いは、なんだかインチキ臭いよなと僕も思う。スタジオの芸能人だってキャーなんて言っているけど心の中ではバカにしているだろう。

 彼が悪魔祓いをお爺様に依頼してくれ、勿論報酬は言い値でお支払いしたい、なんていうメールを送ってきたことは非常に意外だった。あの手の番組に関わる人間は全員悪魔祓いなどバカにしていると思っていた。ことのあらましも書いてあったが、にわかには信じられない内容だった。しかし書いてあることが本当だとすれば緊急事態だ。なるべく早く返事が欲しいという気持ちも分かった。高齢のため最近はほぼ現場に立つことのない祖父にかいつまんで説明すると、暗い顔をして断りなさい、と言われた。面白半分で扱われてはかなわない。テレビに出ている人間は信用ができない。祖父が言うことは尤もだった。僕も実家のことでカルトだとかインチキだとか口さがなく言われ、いじめられたことがある。

 しかし断ろうと電話をしてすぐ、佐々木るみ先輩が訪ねて来たのである。

 佐々木るみ先輩は大学院博士課程の女性で、非常に優秀だったが、優秀さよりもむしろ変わり者として有名だった。斎藤先生と話しているときは完全に二人の世界が出来上がっている感じで話しかけづらく、また彼女の漫画にでも出てきそうな芝居がかった口調もあって、ほとんどコミュニケーションを取ったことはなかった。

 聖堂の隣にある談話室に通すと、佐々木るみ先輩は挨拶をする僕を無視して、


「あれから逃げるのですか」


 と祖父に言った。

 祖父はため息をついて、


「お嬢さん、神秘主義者はなんにでもゴーストやデーモンのせいにして騒ぎ立てる。その方が面白いからね。でもそれは私の最も軽蔑するものだ。悪魔祓いは遊びや不安の解消でやるべきものではない。迷信じみた儀式はどんなものであれ避けるべきだ」


 穏やかな祖父がここまではっきりとした口調で話すことは珍しかった。あの暑い日の悪魔祓いを思い出す。


「これをご覧ください」


 先輩が取り出した一枚の写真には、へし折られた十字架が写っていた。先輩は次々と写真を取り出す。


「ことの発端になった男子の家の前にいくつか置いてみたのですよ。次の日にはこの通りです。木製と言っても大きなものです。ここまで壊すのは人間の力では不可能と思われますが」


「はあっ?!」


 僕は十字架がへし折られたことよりも先輩の大胆すぎる行動に驚いてしまった。彼女は本当に正気なのだろうか。何人か死んでいるのに、悪魔の仕業と信じているならなおさらわざわざ自分から挑発するような真似をして。怖いものがないのだろうか。


「お嬢さんは憑りつかれた人間の特徴の話をしているんだね」


 祖父は写真に目を落として極めて冷静な口調で続けた。


「人智を超えた力を発揮する、聖なるシンボルに嫌悪を感じる――確かにそれは広く知られた悪魔憑きの特徴だ。しかし、こんなものは科学的に説明することができる。極度のストレスや不安を抱えた人体から分泌されたアドレナリンは一時的に爆発的な力を生み出すことがある。それに聖なるシンボルの忌避は悪魔憑きを装う最も簡単な方法だ」


「『見ずに信じる者は幸いです』でしたかな。弟子のトマスがイエスの復活を信じなかったときイエスが彼に言った言葉です。あなたの前で聖書から引用など釈迦に説法でしょうが、こうするしかないのでしょうな」


 先輩はおもむろにリュックサックのジッパーを降ろした。中に入っていたゴミ袋のようなものから取り出したのは――乱雑に羽根を毟られた鶏。まだなのか、ピンク色の肉がつやつやと光沢を放っている。

 先輩は鶏の死骸を三匹並べ、周りに小石を置いていく。

 あっけにとられて見ていた祖父がようやく立ち上がって先輩の手を掴み、


「お嬢さん、一体何を」


 ぞくり、と首を悪寒が駆け上がる。誰かに見られている。それも、悪意を持った何かに。


「もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンになれと命じてごらんなさい」


 先輩が朗々と呟く。

 ――ドンドンドン

 扉を三回叩く音がした。何かがここに入ろうとしている。


「これらの国々の権威と栄華とを全てあなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのです。 もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」


 扉を叩く音は勢いを増している。開けてはいけない。後ろを振り向いてはいけない。

 コップが震えて、水が零れる。盆の上の菓子は机に散乱する。


「もしあなたが神の子であるなら、ここから下へ飛びおりてごらんなさい。 『神はあなたのために、御使たちに命じてあなたを守らせるであろう』とあり、また、『あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』とも書いてあります」


 唸り声が聞こえる。女とも男ともつかない、悲痛な、怨みに満ちた獣のような咆哮が聞こえる。

 十字架に貼り付けられた木製のイエスキリストがゆっくりと逆さまに方向を変えていく。

 祈りの言葉が、出てこない――


「やめなさい」


 祖父が手を強く打った。空気を切り裂くような破裂音とともに、体を這い回る蛇のような視線を感じなくなった。

 大きく深呼吸すると膝がじっとりと湿っている。それらが自分から流れ落ちた涎と涙だと気付くのに時間がかかった。

 異様な悪臭の先に目を向けると、先ほどの小石に囲まれた鶏がぐずぐずに腐っていた。


「こういうわけですよ、ファーザー。これであなたも最早第三者ではないのです」


「私はFATHER《神父》ではない、REVEREND《牧師》だ」


 祖父は立ち上がり、鶏の周りに置いてある小石を蹴飛ばす。ふっと部屋の空気が軽くなったように感じられた。


「教会の力を借りることはできない。私だけで準備をしなければならない」


「助太刀感謝いたす」


 先輩は笑顔でそう言って、床を掃除し始めた。

 祖父は未だ苦々しい顔で腰を下ろし、


「お嬢さんは軽く考えているようだ。みだりに神の言葉を使い、悪魔を挑発する、そのやり方も受け入れられないが、悪魔と判明したところで――通常悪魔祓いは対象者にカウンセリングを行う。それだけではない。祈祷、断食、告解、聖体拝領――あらゆる方向で悪魔を祓う、打ち勝つというモチベーションを与えるんだ。複数のアシスタントや対象者の家族、友人、様々な人物の協力を得て礼拝堂で行う。今言ったものの全てが今回はない。本来有り得ないことだ、こんな状況で成功するはずがない」


「それでもやるしかないでしょう。もう認識されてしまった。ワシ、安全圏から石を投げるの得意なんです。あれは美しいものが大好きのようなので……ワシは標的になり得ない。次はあなた、いえ、あなたのお孫さんの番ですね」


 先輩は僕を見て大層楽しそうに笑っている。

 困惑して祖父の方に目をやると、白内障でやや濁った青い瞳で先輩を睨みつけ、巻き込まれた、どちらが悪魔か分からない、と吐き捨てた。



 そして祖父が「準備」を終えた今日、教室に来てみると、テレビなどで先生と共演しているタレント霊能者の笠嶋功がいる。やはりこれはテレビの企画なのだろうか、と不安になって尋ねるとそうではないという。祖父も笠嶋がいることは了承済だというのだ。

 何も知らないのは僕だけだ、と呟くと斎藤先生にモニターに映るこの手紙を読まされた。



「青山くんにもある程度は把握してもらいたいと思っているよ。それより、おじい様は」


「ええ……午後には手筈どおり現地に向かうと。それで斎藤先生、すいませんよく読んでも分からなくて。この手紙と悪魔祓いがどう関係あるんですか」


 斎藤先生はぐるぐると歩き回りながら呟いた。


「三連続のノック、分かるかい悪魔は三という数字に拘る。三位一体を冒涜しているんだ。そして星のシンボル、これは君の方が詳しいんじゃないか。もちろんあれだ、ルシフ……いややめておこう言うのは。私たちはまんまと騙されていたんだよ」


 斎藤先生は誰に聞かせるでもなく話し続けている。良く分からないので黙ることにした。


「道通様を通した爺さんの声やったんやな、あの『おえん』ちゅうのは」


 笠嶋が困惑する僕を見かねて口を挟む。


「ああ、そうだね。岡山弁だったこともこれで説明がつく。本当に何故分からなかったんだろう、悔しくて仕方が無いよ。そしたら奈緒ちゃんも」


「分からなかったことを悔やんでも仕方ないでござるよ。とにかくやりませんと、ね。青山殿もボーッとしている場合ではないでござるよ」


 佐々木るみ先輩がうすく笑った。


「このメンツではオシャレ雑誌の記者設定は無理があるゆえ、青山殿に協力していただきたく」


 僕はふたたびおろおろと戸惑うほかなかった。



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