クロレ=アンダーグラン

 運命というのは残酷である。この世に神などは当然いない。私はあの後に忌まわしき国から逃げ出し、そしてとある穏やかな国で生活を始めた。焼いてみたかったパンに挑戦したり、夜空を見ながら葡萄酒を傾けてみたりした。あの二人に満足いくまでこの美しさに語ってやろうと意気込んだが、胸の空虚さは埋まらず、そうして半年が過ぎた。


 半年の間にもいろいろとあった。例えば隣人のロータスは可憐な少女でアイリスの幼少期を思い出させるものがあった。きっとアイリスが殺し屋として生まれなければきっとこのようであったのかもしれないと考えると、その残酷さを思わずにはいられなかったが、彼女に愛を注ぐことに重きを置いている。いくら恨んでも仕方がないからだ。


 お節介焼きのパン屋、ジニーにはよくお世話になっている。彼の焼くパンは絶品でその作り方を教えてくれというと、彼は部外者であった私に優しくパンを食べさせながら、いろいろなことを教えてくれた。彼のパンは懐かしくなる味だ。どうしてもあの二人と過ごした日々を思い返さずにはいられない。


 この国の公務員であるというヘレナには本当に世話になった。行き倒れていた私に食と宿を与えてくれ、事情を説明すると親身になって私の力になってくれた。彼女の気高さをどうしてもミュルと重ねてしまうのだが、彼女のように下品ではなく、そこが少し寂しい。


 あの忌まわしき国は今では人権がなんだとか騒いでいる。今までそんな発想とは真逆のことをしてきたくせにとも思った。私たちは恐らくそれに伴い、国の暗部として葬られようと、いや葬られたのだった。アンダーグラン三姉妹は今ではどこにもいないのだから。


 今、私は元の名を捨て、クロエ=セイントベルとして生きている。クロレの名がもしあの国にでも知れ渡ったらとんでもないことになるだろう。だからこそ、今はこの名前で生きることにしている。


 半年の間にいろいろあったし、人間のあたたかさというのは私はよく知った。この街の夜も静寂が美しく、私は何度もここに躍り出ている。


 だが。


 私はとある知り合いを通じてある場所へと来ていた。あの街の夜とは正反対な鬱屈した闇に佇むこの世の墓場のようなバー。どんよりとした空気が少々懐かしく感じていた。


 私はつくづく思っていたことがある。私は殺しから逃れられるものであるのか。果たして私は殺しにそれほど正常な感情を抱いていたのかと。今思えば笑ってしまう。


 テーブル席には腕を組んで微動だにしない男が一人。それだけだった。ああ、この人だろう。私はその向かいに座った。


「……クロレ=アンダーグラン、殺し屋です」


 そう喋った自分の口元がひどく歪んでいるのが分かった。そう、私はアンダーグラン三姉妹の一人であったのだ。


 あの二人には悪いとも思うが、どうやらもうしばらく殺しから逃れられないようだ。

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アンダーグラン 時雨逅太郎 @sigurejikusi

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