沈黙と狂奔
空気が張りつめていた。軍人たちはかのアンダーグランの三姉妹を殺さねばならなかった。それが国の命令であった。通信でアイリス=アンダーグランの殺害に成功したとの連絡はあったが、彼らは依然として安心できない。アイリス=アンダーグランは狙撃手であったし、複数人で取り囲めば制圧可能であることは予想していた。それでも二十もの犠牲者が出たというのだからいよいよ油断はできない。
最も油断ができないのはミュル=アンダーグランである。高い身体能力だけを武器に何人もの人間を屠ってきた彼女の名を、軍の中で知らぬものはいなかった。こう言った噂は尾ひれがついて現実よりも誇張されるということがしばしばある。実際、そう思って自分を安心させようとする兵士もいた。しかし、ミュル=アンダーグランという殺し屋はいくら誇張しても誇張しすぎない存在であった。
建物の二枚扉が開け放たれ、兵士は皆銃口を向けた。しかしそこには誰もいなかった。急いで周囲を確認しようとしたとき、兵士のヘルメットを貫いてナイフが眉間に刺さっていた。窓の割れる音がしている。ミュルは二階の窓を破りながら兵士二人をいとも容易く仕留めたのだ。狙われれば簡単に食い殺される。その恐怖から兵士らが立ち直った時には、既にミュルは着地をしており、ゆらりと立ち上がった。その横でカンカンカンッと次々に何かが落下する。スモークグレネードだ。
ミュルは立ち上がると同時に濃い煙の中に包まれたが、消える前の彼女の姿を見逃すものは一人もなかった。血にまみれた純白の髪と肌。鉤爪のように湛えられたナイフ。そして、怒り狂う獣の眼。
狩りが始まったのだ。誰もにぞっとするような悪寒が走った。
煙の中から突風のようにミュルが駆け出す。そのスピードは狼と比しても遜色はなく、いや、むしろ速い。サイトを合わせようとしてもその姿を捉えること自体がまず不可能だったのだ。ミュルは即座に部隊との距離を詰め切った。その時、確かに撃ち抜けるはずだった兵士たちは喉元にナイフがさくりと突き刺さった。投げたナイフを追い越して、ミュルは距離を詰め切ったのだ。
彼女を最早、怪物としか見れないのは当然であった。
「――――――――!!!!」
ミュルは狂った咆哮を上げた。彼女を自然界の獣と比べようとする試みは全て愚行である。その行為は野蛮であれども、その力、その咆哮は独立した一種の生命体だった。
見開いた目には何人の兵士が映っていただろうか。その目には幾ばくの怒りが浮いていただろうか。ミュルはナイフを逆手持ちにすると頭へと突き刺し、その力は頭を潰した。そして、彼女は高く高く跳躍する。彼女にとって二階ほどの高さまで跳ぶことは造作もない。狂える猛獣は着地をすると、大分離れた部隊を眺めながら三つほどの安全ピンを放り捨てた。
兵士の死体が爆発を起こした。ミュルは兵士の持っていた手榴弾を利用したのだ。ミュルは爆炎を見、ふっと軽く息を吐いた。ミュルが力を入れるのにはこの程度の呼吸で十分であった。
爆炎を掻き消しながら、ミュルが再び兵士の前に現れた。アイリスの舞のような美しさはない。破壊、蹂躙。その言葉が正に当てはまる動きであった。近くにある頭を握りつぶし、心臓を抉り抜き、喉笛を噛み切る。戦略の一つも考えられない暴力であった。
これを茂みの陰に隠れて見ていた狙撃兵は衝撃のあまりその光景を何処かの映画のように眺めていたが、やがて気を取り戻した。狙撃兵の仕事はサポートを行うこと。この遠距離ならばあの化け物にも一発は撃ち込めるはずだ。
息を吸い、照準を合わせる。しかし、引き金を引くには至らなかった。彼の背後からアンダーグラン家の三姉妹が一人、クロレ=アンダーグランがナイフを突き立てたからだ。
クロレはミュルが派手な演出でスモークを焚いた後に、堂々と一階の入り口から出て、そして硝煙反応や血液反応をたどり、この狙撃手の場所まで至ったのだ。クロレに硝煙反応をたどるなどということは赤子の手を捻る以上に簡単で、アイリスの作業とも似た具合であった。硝煙反応がある以上、必ずそこに人はいる。
クロレはナイフを抜き、辺りを観察する。ミュルの目につくものに関しては問題がないが、ミュルの目の届かぬ場所に関しては、銃弾の”気配”を察知できるにしても、部隊の中で暴れているミュルには危険だ。ここは偵察に長けたクロレが他部隊を暗殺することが求められる。それは元々クロレが得意とする業だった。
ミュルが派手に暴れる裏でクロレが静かに一人ずつ仕留めていく。一見無茶苦茶な作戦だが、それが二人の力によって罷り通っていたのだ。
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