違和感

 エントランスの扉を開けると、既に車は停められていた。二人して乗り込む。ここからは私の集中の時間だ。お喋りをしている余裕などはない。二人にはきっと話す余裕があるのだろうが、私の事を理解している故、この時間を沈黙で満たしてくれている。


 命の賭場へ向かうのだ。人間寄りの私には、これくらいの時間は欲しい。いくら、何度も人をこの手で殺めようと、容赦なく拷問にかけようと、私は未だ人間であるのだ。その事実に変わりがない限り、こういった営みは欠かせない。


 集中は正に刃だ。これがなまくらであっては救いようがない。人一人殺せぬ意志に今は用などない。邪念を砥石で鋤いて捨てる。この鋭利な刀こそ、真に相手を刈り取る凶器。


 殺意だ。


 殺意は研がねば鈍る。一撃で、遠慮なく命を奪う意志がなければ死ぬ。私はそう言った人間を何度も見てきた。何度も殺してきた。私自身の意志で、だ。研ぎ澄まされたこの殺意の前に逃す者は一人といない。


「時間だぜ、クロレ」


 目をすっと開けると、裏路地だった。この街の地図は頭に入っている。ここは蒸気街の一角、行くべき場所へ二十メートルと離れていない。車内にすでにアイリスの姿はなかった。


「いい目をするねえ、クロレ」


「妙なお世辞はいいから。アイリスはどうしました?」


「もう潜入を開始してるさ。通信も繋がってるぞ」


 ミュルが私の耳元の通信機を小突く。かなり小型化されたもので、いくら国との繋がりがあるアンダーグラン家と言えどもこの機器は一対しか所有できていない。それに加えて一方通信しかできない、つまり伝言は可能だが会話は不可能という不便な代物だ。


 これを使うときは正に諜報で得た戦略的な情報を与える必要があるとき、正に今である。だがこれが役立つときが今回来るとは思えない。右耳でホワイトノイズを聞き流しながら、私は車から降り、目的地点に向かった。


 今回の任務は要人の殺害。手段は問わないと言われたし、要人についている用心棒も二人と数は多くない。特にこの蒸気街に関しては部外者の立ち入りが極力禁じられており、アイリスの潜入も保険中の保険だ。正面切って向かい合われたらごまかしようもない。


 そんな中アイリスがポツリと喋った。


「おかしいです。お聞きくださいませ、クロレお姉様」


 目的地に潜入した時だった。私はアイリスの通信に耳を傾け、ミュルに少し待つようにサインを送った。ミュルは黙って頷く。


「ここには要人がおりません。いえ、来ない。しかし……」


 そこまで言って、アイリスが押し黙る。どうしたの、と聞きたい気持ちを抑えた。ここで声を出して誰かに聞かれたら堪ったものじゃない。


「……なにもかも、なくなる? いえ、あり得ません。私は、全てが“ある”ことを分かるはず……この世界が全て消えてしまうなど……」


 再びの沈黙。戸惑っているのは私の方であった。アイリスが戸惑っていたことなど、これまで一度もなかった。疑問ならその解決策をすぐに出し、仕方がないものなら即座に切り捨てる。もういっそのこと直接会いに行って話したい気分だった。一方的に何かを聞くというのがこんなにもきついとは。


 アイリスは、また呟くようにこう言った。


「クロレお姉様、分かりました。なにもかもなくなる、意味が」


「意味……?」


 私は思わず呟いてしまった。一体アイリスが何を見て、そして何を話しているのか全く分からなかった。しかし彼女は構わず続ける。


「私は、現に“ある”ところが分かります。しかし、その全てを失うときが私には来るのです」


 私はアイリスの力のことを理解できていないし、それが示すところもきっと分かりようがない。だが、彼女が次に紡いだ言葉、その意味だけははっきりと分かった。


「私はここで死ぬのです」


 言葉を失った。


 何故なのか。まずその疑問が頭に浮かんだ。ここでアイリスが死ぬ? あまりにも突拍子のない話であった。


 それに私はこうも考えていた。アイリスは無敵ではないのか。誰がどこに来るかを全部理解している彼女がどうやったら死ぬのだろうか。私には理解ができなかった。


「おい、クロレ……アイリスは?」


 私の様子に痺れを切らしたのか、ミュルが小声で、しかし急かすように聞いてくる。私はありのままを伝えた。


「自分はここで死んでしまう……そう言っています」


 ミュルは眉をひそめた。彼女はその可能性をきっと理解しているのだろう。その瞳には諦念すら浮かんでいるように感じた。


「いえ、私だけでは御座いません。私達三姉妹は……国から消されようとしています」

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