夏の日はぼくの憂鬱(半透明の祈1)

くろかわ

半透明の祈り(1)

 こつこつと窓を叩く音を耳がとらえる。薄目を開けて毛布から外の世界を覗きこむ。外は雨のようだ。鈍い空から悲しげな滴が下界へと追いやられ、あまり掃除していないガラスでできた板にぶつかってその加速度を失う。私はといえば、眠りを妨げられたやるせなさと空腹を抱え、人生になんの影響も与えない水の粒に少しだけ同情した。彼らの飛翔はここで終わり、あとは蒸発による緩慢な死と、そして雨雲に至り次なる加速度を得て再びの停滞へと疾走するしかないのだ。それはまるで人生のようで、しかし私達人間とは全く異なる営みだ、と思う。加速を得れば、最後には失速するしかない。停滞は、冷却は、奪われた熱は、死そのものだ。多分、きっと。

 友人の葬式はどうしても億劫で、我ながらあまりに冷淡だと自嘲せざるを得なかった。高校に入ってから約三ヶ月の付き合いだというのに、だ。どうしても腰が重たい。青空を覆いつくし、世界から太陽を奪い去った雨雲を恨みがましく睨み付ける。雨だから行きたくないというのは言い訳の一つに過ぎないとしても、原因の一端であることに変わりはない。そう思うことにした。

 目覚ましの音が鳴る。予定通りなら、みんなで集まって遊びに出掛けることになっていた。今日は珍しくあいつも来るからと、普段より早めにセットしておいた時計のアラーム。結果的に無駄にはならなかったとはいえ、こんなのはあんまりだ。多分、みんな悲しい顔をするだろう。私だって悲しい。

 ため息をついてリボンの位置を調整する。夏服はラフ過ぎるだろうか。喪服は黒だ。白い私は大層目立つだろうか。それとも、他の友人も来るだろうか。彼女は人気者だったから、きっと独りじゃないはず。

 何の悩みもなさそうだった彼女。

 いつも楽しそうにしていた彼女。

 誰も自殺の理由をしらない彼女。

 ため息しか出ない。

 友人の葬式に出ること以上に、あいつの、彼の表情のない顔を見るのが、そんな貌を作るほどに強い感情を誰かに抱いていた彼を見るのが、億劫だった。



 式場の前には川があって、それは昔よく遊んだ場所だった。遊んだ、というよりは馬鹿をやった、というべきか。俺は馬鹿だった、否、馬鹿だ。今も。何故って、友人の葬式が始まろうというときにぼんやりと、雨の中傘もささずに川を見つめている。これが馬鹿者でなくて一体何者だというのか。水を吸って重たくなった制服が肌に張り付く。冷たさはさほど気にならないが、次第に重くなっていく体は気になった。ちょうど、壺になった気分だった。口の空いた空虚の中に水が溜まっていって、気付いた頃には持ち上げるのも一苦労な重さに到達している。

 ぼうっと川底のコンクリートを見つめて、気付かなかった自分の愚かさから目を背けている。彼女がまだ暖かかった頃に抱いていた思いには触れられなかったから、冷えきった彼女の体に近づこうと雨で体を冷やしている。

 彼女ときちんと喋ったのは、一学期も半ばを過ぎた頃だ。たまたま図書館でばったり出会った時のこと。手を伸ばして高い位置にある本を取ろうとした小坂に、その本を手渡してやるという、なんともありがちな状況で。親交が始まったのはその時からだった。ただ、本の話で盛り上がることは少なかった。そもそも読む本が違い過ぎたし、俺は彼女のように趣味で読書しているわけでも、図書館に入り浸っているわけでもない。本当にただの偶然だったからだ。

 今にして思えば、もっと彼女について聞いておけばよかったと痛感する。俺は小坂についてほとんど何も知らない。あの時取った本のタイトルも覚えていない。印象にあるのは、彼女が楽しそうに話す眩しげな姿と、些細なこと・・・・・・例えば、宿題をやっていないだとか、英語の訳文が作れないだとか・・・・・・で困る俺に手をさしのべてくれた輝かしい笑顔と。そのくらいだ。そしてそれは俺だけでなく、誰にでもそうだった。男女問わず。誰にでも手をさしのべるお節介な女だった。

 だから、小坂が自殺したなんて話を聞いたとき、初めは耳を疑った。あれだけスクールカーストにおいて上位に位置し、それでいてほとんどの人間からやっかまれずに生きている彼女が、何故。

 結局、誰も小坂祈の死の理由を知っている人間はいないようだった。

 そもそも、だ。小坂は誰かに何かを吐露するような人間だっただろうか。自分は気付けなかった、というのは、ただの傲慢ではないのか。親しければ悩みの一つも打ち明けられていたのかもしれないなんて、そんな。そんな馬鹿な話が、あっただろうか。

 俺が駄目でも他の誰かに内心を吐露していたかもしれない。そう考えもした。けど、多分それはないだろう。あの小坂祈が、誰かに弱味を見せるとは思えない。だがそれは当時に、小坂祈の孤立を現している。いた。だから、彼女は死んだ。そうだと、思いたかった。

 それはきっと違うのだろうけれど。俺では辿りつかなかった彼女の内面に誰かが辿り着いて、それを抉り出していったとは考えたくなかった。小坂祈は、ただただ高潔で慈愛に満ちた孤独の内に死んだのだと、そう思いたかった。

 小坂が誰かに近付いた形跡なんて、見たくなかった。


 

 エンジンの音が車の中に響く。雨粒は小さく、水煙がフロントガラスを濡らす。赤信号にブレーキを踏み、滑るタイヤが停止線をはみ出たことにいらつきを隠せなかった。ハンドルを叩く人差し指。左腕の時計はまだ時間に余裕があると示しているが、遺族への挨拶を考えればそんな余裕も吹き飛んでしまうだろう。一刻も早く、この件を終わらせたい。そんな気持ちとは裏腹に、赤いランプが緑色になるには更にワイパー八往復ぶんの時間を浪費した。

 生徒の死、それも自殺という大事件は、一瞬にして学校全体を揺るがした。

 かくいう私・・・・・・教師生活十二年、校内では頼りになる中堅と評価される人間にも、そのショックは大きかったようだ。なにしろ、訃報を聞いてまず口から漏れ出た言葉は「そんなはずは」という情けのない、間抜けたものだった。それも仕方のないことだ。担当しているクラスの生徒が突如亡くなったのだから。

 死亡した小坂祈は素行にも成績にも家庭環境にも人間関係にも、何の問題の見当たらない、ごく普通の生徒だった。確かに在学期間は短い。高々三ヶ月だ。だが、高校生活初めての夏休みを前に、これといった問題のない生徒が自殺するはずはない。

 まず疑ったのは事故だ。複数の目撃情報から、屋上から落下したらしい、ということが分かっていた。何故、下校時間を過ぎた頃に彼女があんな場所に居たのかは不明だが、金網をよじ登り足を滑らせたのならば事故ということになる。

 しかし。金網の向こう側、屋上の外側、コンクリート製の校舎と何もない空間との間に、きちんと揃えられた靴が発見された。網を登るために脱いだのか、という推論も出たが、登りきったあとに靴を脱ぐ意味が判らない。困ったことになったのではないか、と皆が思っていた。

 では、もし事故でないとしたら一体なんなのか。私たち教師一同が額を付き合わせて議論している最中、いじめでは? と声を上げた若い教師もいた。

 もし仮にそうだったのなら、教育委員会やPTA、引いてはマスコミなどのうるさがた・・・・・・もとい、良識ある人々が黙ってはいない。だから当然、そうあってはならない。

 雨の中、車を再び飛ばす。葬儀には恐らく、揃えられた靴と一緒にあったノートを持っている少年が来るはずだ。その子からノートを受け取らなくては。

 ・・・・・・また、赤信号に引っ掛かる。わざわざ休みの日に雨が降り、葬儀があり、場合によってはマスコミに囲まれる可能性もある。正に貧乏くじだ。



 その日はよく晴れた日だった。風も無く、青空と太陽ばかりが広がって、雲なんて海の彼方にしかない。照りつける陽射しから逃げ出すようにアスファルトの影に潜り込み、それでも照り返す熱にうんざりした。気を紛らせようと遠くを見て、どこまでも広がる緑色の風景と、霞む稜線、地平線にこれまた溜め息を吐き出した。

 夏だった。まだ七月に入ったばかりで夏休みも遠い。しかし試験はとなると刻一刻と迫ってくる。立ちはだかる壁のようなもので。さりとてそれを越えた先にある学生特権超大型連休の予定も特には無かった。憂鬱とは正にこのことだ。

(今年もどっか独りで泳ぎにいくか)

 海は近いし山もそんなに遠くない。市民プールだってある。潰そうと思えば無限に時間は潰せるだろう。そんなことを考えながら牛乳パックにストローを挿す。

 突如。

「あ」

「お」

 がちゃりと鉄扉が開く。クラスメイトと目があった。

「川勢」

「小坂、ここ立ち入り禁止」

 一瞬、目を丸くした彼女は、

「じゃ、共犯ってことで。みんなには内緒ね」

 興味もないから、適当な返事だけ返して昼食に戻る。彼女はひとしきりうろついてから、

「隣、いい?」

 聞かれたので無言で腰を浮かせ、場所を作る。

「ありがと」

 彼女は、屈託ない笑顔というやつだろうか、そういうのを作ってこちらに向けた。しばらくして、小坂はもう一度同じことを呟いた。二度めは目を合わせずに、小さな言葉だけだった。

 陽射しにあった牛乳で日焼けしそうな左手を冷やそうとして、生温さに顔をしかめた。



 風が出てきた。低い雲が流れるように空を滑っていた。なんとなく、白菜の切断面のようにも見える。上を向いて口を開けて、ぼんやりと眺める青に吸い込まれそうになる。このままふわりと浮いて、どこまでも落ちていくのだろうか。それは魅力的なのかそれとも嫌なのか、判然としなかった。どこまでも青かったからだ。

 ぎぃ、と軋む音。

「うわっ」

 声。屋上と空の無防備な隙間に小坂がいた。気圧差で生まれた風のせいだろうか。

「あぶねぇぞ」

 体で風よけを作り、手を引く。

「あぁ、うん。ありがと」

「つか、自習は」

「そっくりそのまま、同じ言葉返していい?」

 小首を傾げてた彼女に、悪戯っぽく睨み付けられてしまった。

「サボった」

「じゃ、今日も共犯で」

 彼女は嬉々としていつもの場所に陣取った。今日は日差しもあまりない。横に座る意味はない。だが、

「ほらほら」

 べしべしとコンクリートをたたく。座る場所はどこでもよかった。小坂の髪が靡いて、頬に当たる感触がくすぐったい。そんな午後だった。

 雨は、近いかもしれない。



 引っ越しの荷物は多くはなかった。ただ、雨が憂鬱だった。鈍い空を飛んでもどこにも行けないんだろうな、と意味の分からない事を考えていた。蓋みたいなものだろうか。携帯電話が光るのはいったん無視した。どう言葉を返していいのか分からない。

 電車はひたすらに走り続けた。行き先は自分にとっての憧れであり、夢だった。そして、同時に夢の中の出来事のようだった。

 元天才選手が学校教師やっている。その人の元で三年間教えを受ける。上手く実績を残せば選手だった当時のコネで、オリンピックの強化選手に選ばれるかもしれない。そんなことを母親が嬉しそうに話しているのは、なんとなく覚えている。そのことを小坂に告げた時のことは、思い出したくなかった。

 また、携帯電話が鳴る。

 開くのは怖かった。

 彼女の孤独に引き寄せられてしまえば、夢から遠ざかるのかもしれない。そう考えたら、直視するわけにはいかなかった。

 電車はもう、出発してしまっていたから。



 

 そうしてぼくは靴を脱いで、ビニール袋に入ったノートをその下に敷いた。

 メールは見てくれただろうか。電話には出てくれなかった。一種の賭けだった。それはとても勝ち目のない、滑稽な儀式だった。

 ぽつり、と頬を濡らす雨粒。見上げれば、雲が立ちはだかっている。

 彼より先に雨が来た。

 ぼくはどこまでも馬鹿で、恥知らずで、どうしようもない女だった。

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夏の日はぼくの憂鬱(半透明の祈1) くろかわ @krkw

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