仔猫殿下とはつ江婆さん

鯨井イルカ

第一章 シマシマな日常

第1話 シマシマ

暗雲が立ち込め、雷鳴が轟き、大地には血の川が流れ、奇怪な枝ぶりの樹々が茂る森からは、絶えず何かの叫び声が聞こえる。

 

 ここは魔界。


 魔のモノ達が住まう禁断の地。

 

 その魔界の一角に聳える切り立った岩山の山頂には、白亜の城が気づかれていた。

 城のバルコニーには、景観を見下ろす人影が一つ。

 

 赤銅色の長い髪。

 

 髪と同じ色の瞳を持つ憂いを帯びた目。

  

 くすんだ金色の冠と漆黒の服とマント。


 頭には堅牢な二本の角。


 彼は魔王。

 この禁断の地を統べる王だ。


「魔王様。準備の方が整いました」


 そんな彼の後ろから、燕尾服を身に纏った骸骨が現れ声をかけた。魔王はゆっくりと振り返ると、尊大な口調で返事をした。


「うむ。ご苦労であった。成功した暁には、約束通り望みを叶えよう」


 魔王の言葉に、燕尾服の骸骨がかしずく。


「ありがたき幸せ」


 魔王はその姿を見据えてから、ゆっくりとした足取りで城内に入って行く。骸骨も頭を上げると、その後に続いた。


 謁見の間に二人がたどり着くと、床の中央に魔法陣が描かれていた。魔王は魔獣達の骨で組まれた玉座に腰をかけると、骸骨に向かって、はじめろ、と指示を出した。骸骨はかしずいてから、魔法陣の側に移動して呪文を唱える。


「……来たれ!」


 詠唱を終えた骸骨がそう叫ぶと、魔法陣から煙があふれた。その煙は部屋中に広がり……


「ゲホッ!ゲホッ……おい……煙出過ぎじゃない……か?ゴボッ」


 魔王は盛大にむせ返った。


 しかし、骸骨は平気な顔をしている。


「そうでしょうか?私は別に何とも無いですが?」


「お前は……気管……が……既に腐り落ちて……無いから……だろ……この……白骨死体!」


「死体とは失敬な!確かに肉体は既に地に還っておりますが、マジカルなパワーでこの通り生き生きとしておりますのに!」


 そう言いながら骸骨は、全身をカタカタと鳴らしてコサックダンスを踊りだした。その様子が魔王に見えているかは、定かではない。 しかし、長い付き合いの魔王には、何をしているかが判別できたようだ。


「いいからコサックダンスなんて踊っていないで、早く煙を消せ!」


 魔王がむせ返りながらも声を上げると、骸骨はコサックダンスをやめて、ペコリと頭を下げた。


「仰せのままに……えーい!」


 骸骨が可愛らしい声を出しながら、魔法陣に向かって手を振り下ろすと、煙は徐々に薄くなって行った。そして、煙の中心部にだんだんと人影が見え始める。


「……成功か?」


 魔王が涙を溜めた目をこすりながら覗き込むと、人影はハッキリと姿を現した。

 その姿は……

 

 パーマをかけた短髪の白髪。


 笑い皺が深く刻まれた顔。


 曲がった腰。


 薄緑色のブラウスに黒いスラックス。



 どこからどう見ても、婆さんだった。   



 老婆は目を瞬かせた後、辺りを見渡し骸骨の姿を見て、目を見開いた。


「あれまぁよ!随分とハイカラな格好した骨皮筋衛門さんだねぇ!」


「骨皮筋衛門とは失敬な!私は当代魔王の側近こもり、リッチー・徒野あだしのでございます!」


「……おい、若干失礼なルビがあった気がするのは、俺の気のせいか?……それよりもリッチー、何なんだこの婆さんは?」


 魔王の言葉に、老婆は目を凝らしながら玉座の方を覗き込んだ。そして、玉座の方を指差しながら、リッチーに大きな声で話しかける。


「徒野さんよぅ。あっちにいるヤギさんが何か喋ってるが、何て言ってるか分かるかね?年寄りは耳が遠くてよぅ!」


「ご婦人、あちらのヤギさんは、この魔界で一番偉いヤギさんなのでございます」


「あれまぁよ!そうなのかね!随分とお利口さんなヤギさんなんだねぇ!」


 老婆が感心して声を上げると、魔王は眉間に皺を寄せた。


「誰がヤギさんだ!」


 魔王は憤慨して声を上げると、玉座から立ち上がりツカツカと二人に向かって歩きだした。そして、青筋が立つ顔をリッチーに近づけて、問い詰める。


「おい、リッチー。何で、婆さんなんか召喚した?」


「そうおっしゃられましても……」


「アイツの世話をさせるのに、適任な奴を召喚する手はずだったよな?」


「確かに、あの方のお世話をするには、体力があった方が良いかとは思われますが……ご婦人、足腰はご丈夫ですか?」


 リッチーは逃げるように魔王から顔を背け、老婆に問いかける。


「若い頃は、ゴルフ場でキャデーさんをやってたから、足腰か鍛えられただぁよ!」


 その回答に、リッチーだけでなく魔王の顔にも期待の色が浮かぶ。


「だもんで、今は雨が降ったりすると膝が痛ぇのなんのって!」


 老婆はそう言いながら、膝をさすりだした。

 しばしの沈黙の後、魔王は再びリッチーに青筋が立った顔を向けた。


「どう考えても失敗だろ!?もう一回やり直せ!」


「し、しかし魔王様!人間界から人を召喚するには、マジカルなパワーを大量に消費するので、下手すると私めが数百年の間ただの白骨死体になってしまうかも知れません!」


 焦るリッチーに向かって、魔王は苦々しい表情を向けた。


「ふぅむ……確かに、それでは本末転倒か……おい、婆さん」


 魔王が老婆に向き直ると、老婆は曲がった腰を叩きながら首を傾げた。


「何かね?」


「少し頼みごとがある」


「腰が痛ぇから、手短にして貰えるかね?」


 老婆の言葉に魔王は軽くため息を吐くと、回復呪文を唱えた。

 すると、老婆の腰の痛みと膝の痛みが瞬時に消え去った。突然体の痛みが消え去った老婆は、キョトンとした表情を浮かべた。

 そして、屈伸運動をした後背筋を伸ばし、目を見開いて驚いた。


「あれまぁよ!こんなに体が軽いのはうん十年ぶりだぁよ!ヤギさんどうもありがとうね!」


「礼は必要な……」


 礼は必要ない、と言いかけた魔王だったが、不意に途中で言葉を止めた。そして、凜々しい表情で老婆を見つめた。


「いや、体の痛みを取ってやった礼に、頼まれて欲しいことがある」 


「親切なヤギさんの頼みごとなら、頑張るよ!」


 老婆はカラカラと笑いながら、魔王の申し出を快諾した。


「良かったですね、親切なヤギ様!」


 老婆に便乗してからかうリッチーを一瞥してから、魔王は再び深いため息を吐いた。


「ひとまず、別室で説明をしよう。リッチー、婆さんを作戦会議室に案内してやれ」


「かしこまりました。では参りましょうか、ご婦人」


「ほいほい!」


 老婆はそう言いながら、リッチーの後を軽快について行った。



「……と、言うことで貴女方が住む人間界とは少し違った場所に位置しているのが、この魔界です」


 魔王城の二階に位置する作戦会議室の中で、リッチーが黒板に、世界の構造を簡潔な図で描き記し、教鞭で指しながら老婆に説明を行っていた。老婆は、ほうほう、と頷きながらその説明を熱心に聞いている。


「そして、二つの世界を往き来するには、実際は細々とした方法が色々ありますが、術師が滞在期間と滞在目的を指定した魔法陣を描き、滞在目的に適している者を魔法陣が選び出すと言うのが正式な方法です」


「そうかい、そうかい」


「……さっきから、全く恐れないんだな、婆さん」


 魔王が感心した様な、呆れた様な口調で呟くと、老婆は豪快に笑いだした。


「わはははは!この歳になると、何があってもそんなに怖くなくてよぅ!久しぶりの旅行だと思えば、楽しいもんだ!」


「楽しんで頂けるのは何よりです。しかし、貴女をここにお連れしたのは、観光のためではなく、重大な任務をお任せしたいからなのです!」


 リッチーがそう言いながら、教鞭を老婆に向ける。


「そうそう、ヤギさんも言ってた頼みごとってのは何なんだい?」


 魔王が小声で、ヤギじゃない、と呟くのを気にも止めずに話を続けた。


「それはですね!私が休暇を頂いている間に、魔王様の弟君のお世話をしていただきたいのです!」


「……まだ休暇をくれてやるとは、言っていない」


「えー!?術が成功したら取って良いって言ったじゃないですかー!?」


 驚愕のあまり教鞭を落としわななくリッチーに向かって、魔王が深いため息を吐いた。


「この術は呼ばれた者の合意を得て、初めて成功だろう?まだ婆さんの返事を聞い……」


「構わないだぁよ!」


 魔王の言葉が終わる前に、老婆は返事を被せた。途端に、リッチーが希望に満ちた目を老婆に向けた。


「ほら!ご婦人もこう言ってらっしゃいます!」


「ただ、来週から娘が孫とひ孫連れて遊びに来るから、それまでには帰りたいね!」


「ご安心くださいませ!魔界の時間では数週間の期間となりますが、人間界の時間では3日程度の期間に魔法陣を設定していますから!」


「それならば良かったよ!」


 盛り上がっている二人をよそに、魔王の顔に落胆の色が浮かぶ。

 その時、作戦会議室の重い扉が勢いよく開いた。

 そこに現れたのは……


「バカ兄貴!今帰ったぞ!」


 黒いズボンにレース製の襟がついた白いシャツを身に纏った、サバトラの仔猫だった。


 自分の姿を大きく見せるためにふんぞり返っているが、いかんせん仔猫である。その背丈は、平均的な身長をした成人男性の膝の高さにも満たない。


 もちろん猫なので、ズボンの裾から覗く足や、袖口から出た手や、大きな目が愛くるしい顔は、それはもうフッカフカだ。


「あれまぁよ!可愛い猫ちゃんだね!」


 老婆が目を輝かせてそう言うと、フッカフカの猫は耳を反らして怪訝そうな表情を浮かべた。眉間に皺を寄せているため、額の周辺の縞模様が浮き出している。


「何だそのうるさい婆さんは?」


「はい。私が明日からバカンスに出かけるため、代わりに来ていただいた……えーと、お名前は何でしたっけ?」


「森山はつ江だぁよ!これからよろしくね、猫ちゃん」


 フッカフカのサバトラ猫は、魔王の方を向いて、尻尾を縦に振りながら抗議した。


「おい、バカ兄貴!そんなことボクは聞いてないぞ!?」


「いや、もう決まったことだから。俺はもう執務に戻らないと行けないし……後は二人に聞いてくれ」


 そう言って、魔王は指を鳴らすと赤黒い霧となってどこかに消えてしまった。


「おい!待てよバカ兄貴!」


 フッカフカのサバトラ猫が慌てて駆け寄るが、魔王の姿は既にどこにも無かった。


「徒野さんや、この猫ちゃん撫でてやって良いかね?」


「どうぞどうぞ。スキンシップは大事ですからね」


 自分の苛立ちをよそに、呑気なやり取りをする二人が気に食わなかったのか、フッカフカのサバトラ猫は勢いよく跳ね上がった。そして、会議用の円卓に飛び乗ると、耳を反らした顔ではつ江に詰め寄った。その目は、はつ江のつぶらな目をじっと見つめている。


「おい、婆さん。ボクは猫ちゃんなんて名前じゃなくて、シーマ十四世だ!」

 

 はつ江は、そうかい、とゆっくりと言いながら、ゆっくりと一回瞬きをした。


「シマちゃんだね。昔飼ってた猫ちゃんと、同じ名前だぁよ」


「シマじゃなくて、シーマだ!……?」


 憤慨していたシーマだが、鼻先にはつ江の指が伸ばされ、反射的にその匂いを確かめるように嗅ぎ出した。はつ江はそのままゆっくりと手を動かし、シーマの頬に触れると、耳の後ろから顎の辺りを撫でた。すると、大きく開かれていたシーマの目は段々と細められ、後ろに逸らされた耳は前を向きだした。

 そして、いつの間にか作戦会議室には、喉を鳴らす音が響き渡っていた。


「……何と素晴らしい!あの癇癪持ちでツンデレ仔猫ちゃんのシーマ殿下をこんなにも早く手なずけるとは!」


 リッチーの感極まった言葉に、シーマはハッとした表情を浮かべて、急いで円卓から飛び降りた。


「手なずけられてない!でも、少しは気に入ったから、しばらくの間はリッチーの代わりにこき使ってやる!ありがたく思え!」


 そして、はつ江をプニプニの肉球がついた手で指差すと、そう宣言した。


「はいよ!よろしくねシマちゃん!」


「だから、シーマだ!」


 作戦会議室には、相変わらず名前を間違えるはつ江に憤慨するシーマの声の他に、これから数週間ドタバタに巻き込まれることを嘆いた魔王の、哀しげなため息もひっそりと響いていた。

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