三章

三章 1



 ワレスがルーシサスと出会ったのは十二さいのときだ。


 ワレスは幼くして、みなしごになった。

 各地を放浪しているとき、人買いにさらわれそうになって、逃げこんだのが地方のとある神殿だった。


 神殿の暮らしは最悪だった。

 排他的な閉鎖空間のなかは、社会のゆがみが凝縮されていた。


 そのなかから逃げだしたくて、四苦八苦していたころに、神殿にやってきたのが、アウティグル伯爵夫妻と、その一人息子のルーシサスだ。


 ワレスは伯爵の馬車にかくまってもらい、神殿をぬけだした。そして、アウティグル伯爵が保護者となり、その後の養育もしてくれた。


 まずしい平民のみなしごが、貴族の子弟しか入れない皇都の騎士学校を卒業できたのも、アウティグル伯爵のおかげだ。


 ルーシサスを初めて見たとき、女の子だと思った。

 純真無垢で、かけらほどのけがれもない。

 泥のなかをはうように幼少期をすごしたワレスには、天使に見えた。


 たぶん、ひとめぼれだったんだと思う。

 それは恋というよりも、崇拝にも似た憧憬しょうけいだった……。



 *



「ねえ、ワレス。いつまで、そこにいるの? 風邪をひくよ」


 ユリエルに声をかけられて、ワレスは物思いからさめた。

 早朝の水に足首がつかったままだ。たしかに、冷たい。


「顔を洗ってたんだ」と、ワレスはとりつくろった。


「そう? ならいいけど、泣きそうな顔してるから」

「霧のせいだろ?」


 ごまかして、ワレスは、ほとりに立つユリエルのところまでもどる。


「ユリエル。ちょっと聞きたいんだが、おまえの大伯母さんは、どんな人なんだ?」

「どんなって、優しいよ」

「もっとくわしく教えてくれ」


「うん。前世でも優しくしてくれたよ。となりの領主と結婚するまでは、ずっとこの屋敷でいっしょに住んでいたからね」


「結婚してるのか」

「子どももいて、子爵とも仲がいいんだって」

「子爵というのが夫だな?」

「うん」


「子爵の家は金に困ってないよな?」

「それはないんじゃないかな。街道ぞいの大きな町が領地だから」


 領地に街道が通っていれば、旅人が大勢、通過する。そのたびに関銭が入る。つまり、伯爵家より収入が多い。


(おかしいな。大伯母さんにも、伯爵家をのっとらなければならない理由がない)


 では、昨夜のあの奇怪な会話はなんだったというのか?

 夜中に部屋をぬけだして、誰かと密会していたのだ。怪しくないわけがない。


「まあいい。では、大伯母さんは現在、子爵夫人なんだな?」

「うん」

「この屋敷に帰ってきているのは、ジョスリーヌが来るからか?」

「そうだよ」


 ふだんはユリエルと同様、この屋敷に住んでいるわけではないのだ。つまりは、となり町まで、ユリエルの転生のウワサが広まっていたわけか。


「大伯母さんは好きか?」

「うん」


 ためらいのない答え。

 しかし、苦労知らずのユリエルに人を見る目があるかどうかは疑問だ。


「大伯母さんの名前は?」

「ローラ・エレーナ・ル・レイ・アルマンド」


 ローラ伯母さんの人柄など、まだまだ聞きたかった。しかし、そのとき、屋敷から男が歩いてきた。ランスだ。


「ワレス。ここにいたのか。侯爵さまがおまえをお呼びだ。ずいぶん探しまわったらしいぞ」


 一晩、顔も出さずに、ほっといたのだ。とうぜん怒っているだろう。


「しょうがないな。ランス」

「ああ?」

「ユリエルをたのむ」

「ああ」


「ワレス。行っちゃうの?」というユリエルの頭を、ぽんぽんとたたき、ワレスは屋敷のなかへ入っていく。


 それにしても、昨日は注意していなかったが、傷みの激しい建物だ。ろうかの壁や床にも、いくつも傷やヘコミがある。掃除も行き届いていない。


 そもそも、小間使いの数が少ない。

 騎士はそのへんをやたらと歩いているのに、ほとんど下働きの姿が見えない。


 どうも変な屋敷だなと、ワレスは思った。

 狩り場の特殊性だろうか?


 昨日、ジョスリーヌがつれていかれた部屋は、ちゃんとおぼえていた。

 さまざまな貴族の屋敷で、家族にバレないように、貴婦人の寝室にもぐりこんできたのだ。そこらへんの能力は高い。


 ジョスリーヌのまわりだけは、ろうかも片づいていて見栄えがいい。伯爵は体裁だけは気にする男のようだ。


 ジョスリーヌの部屋の扉をたたくと、皇都からお供してきた侍女が、なかからあける。


 室内を見て、ジョスリーヌが怒っているわけがわかった。

 朝食がならぶ席に、伯爵と伯爵の息子が同席している。

 ジョスリーヌは支配するがわの女であり、支配されることを好まない。つまり、束縛してくる男を何より嫌う。つまり、もっとくだいて言えば、しつこい男にはヘドが出る。


「おはよう。ジョスリーヌ。おれの女王さま」


 ワレスがそばによって、その指にくちづけると、ジョスリーヌは恨めしそうに見あげてきた。


「どこに行っていたの? ワレス」

「ここにいる伯爵に案内されて、ずっと、あんたの騎士たちといたよ」


 ジョスリーヌは伯爵をにらみつけた。

「ワレスはわたしが夫にしてもいいと思う、ただ一人の男よ。わたくしから彼を離してはいけません」


 ジョスリーヌの最初の夫は若いころに病死している。跡取りの一人息子は、まだ幼い。それでジョスリーヌが、女侯爵として息子が成人するまでのあいだ、その位を継いでいるのだ。


 未亡人だから、結婚しようと思えばできなくはない。

 だが、ジョスリーヌは今の自分の自由な立場を満喫している。再婚なんて考えているはずがない。


(さては、伯爵に息子と結婚してくださいとでも言われたかな? ジョスリーヌが年下の若い男が好みなのは有名だから)


 ワレスはくすくす笑って、ジョスリーヌのとなりの席にお行儀悪く足をくんですわる。


 伯爵とその息子はバツの悪そうな顔をしていた。


「と……とにかくですな。明日、狩りをもよおします。侯爵さまにおかれましては、ぜひお楽しみくださいませ」


 そう言いのこして、そそくさと息子ともども退出していった。


「怖いもの知らずな男だな。伯爵は。あんたをくどいたのか?」


 そのときのようすを想像すると、ワレスはニヤニヤ笑いが止まらない。

 またもや、ジョスリーヌは恨みがましい視線をなげてくる。


「あなたがいないからよ。あんな教養のない田舎育ちの息子を、わたくしが相手にするとでも思っているのかしら? あの趣味の悪い服ったら」


 たしかに、いやに着飾っていたが、それが板についていない。なんというか、品位を感じられない。


「あなたが遊び好きな貴婦人だというウワサを聞いたんだろうよ。二流品は歯牙にもかけないなんて思わなかったんだろう」

「あなたは一流品だというわけね?」

「違うのか?」

「どうかしら? ベッドのなかで、たしかめてみないと」


 そういうわけで、昼すぎまで、ジョスリーヌの部屋で怠惰にすごした。

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