ジゴロ探偵の甘美な嘘1〜さよならの愛〜

涼森巳王(東堂薫)

第一話 輪廻の力学

プロローグ

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(表紙絵リンク)



 激しい雷鳴がとどろく。

 青い稲光が薄闇を切りさいた。

 まだ昼間だというのに、あたりは夜のようだ。


「もうダメ。歩けないわ」と、ジョスリーヌが根をあげた。


 いたしかたあるまい。

 ジョスリーヌは生まれも育ちも高貴な貴婦人だ。

 かかとの高いブーツをはいた足は、とつぜんの豪雨でぬかるんだ森のなかを歩くようにはできていない。


 ワレスはだまって、ジョスリーヌの背中と両ひざに腕をまわし、かかえあげる。


 豪華なドレスが雨を吸って、異様に重い。こんなに重い女を抱きあげたのは初めてだと、ワレスは思った。が、もちろん、声に出しては言わない。


「油断したな。これほど急に天気が変わると思わなかった。近くに雨をしのげる場所があるといいんだが」

「狩り小屋があるはずよ」

「それを探そう」


 そういうワレスも、ずぶぬれだ。

 長いブロンドのさきから、たえず水滴がしたたり落ちる。たたきつける雨が陶器のような白い肌をつたう。


 雨はますます激しくなり、たびたび稲妻が薄闇にひらめく。


 このまま日が暮れると、ひじょうにマズイ。


 この周囲は一帯が狩り場だ。つまり、深い森である。

 ワレスたち二人は水も食料も携行していない。

 狩りに同行していたジョスリーヌの親せきたちとは、はぐれてしまった。

 そして最悪なことに、さっき馬は雷鳴におどろいて逃げだしてしまった。


 ちょっとロマンチックな森のなかで、美人のパトロネスとキスするのが、それほど重い罪になるとでも言うのか。

 たしかに、ワレスはジゴロだが、後見人の女侯爵ジョスリーヌは、今のところ未亡人だ。誰にも責められる関係ではない。

 ほんの寸刻、馬をおりた瞬間をねらったかのような、この雷雨。


 だから、神などというものは、この世にいないと、内心、ワレスは確信した。


 鉛の銅像のように重い貴婦人を腕に抱きかかえながら、四半刻も歩いたころ。樹木のあいだに狩り小屋が見えた。


 ワレスは地獄に堕とされた悪人さながらの責め苦から、ようやく解放される。細身のわりに力持ち——それはジゴロにとって重要な必須条件の一つだが、さすがに腕がしびれている。


 狩り小屋にカギはとりつけられていなかった。誰でもなかに入れるようになっている。

 丸太でできた小屋だが、造りはしっかりしていた。


「大丈夫。雨もりもしていない。ジョス。今夜はここで明かすしかないな」


 扉をあけて、ワレスたちは、ずぶぬれのドブネズミの態で、暗い小屋のなかへ入る。


 狩り小屋は狩りをする人々が休憩所として使うためのものだ。ソファーやテーブルのほかに、暖炉だんろまきも置かれていた。暖炉の上には火打ち石もある。

 食料はないが、ブドウ酒のボトルがあった。かなりの数が保管されているので、飲み物だけは確保された。


「ジョス。ぬれた服はぬいだほうがいい。今、火を起こすから」


 ワレスが言ったときだ。

 窓の外で稲光が青く光る。

 ジョスリーヌが悲鳴をあげた。


「ワレス!」

「どうした?」

「あそこに誰かいるわ」

「先客か?」

「でも、なんだか変よ」


 ふるえる声でジョスリーヌが言うので、ワレスは彼女の指さすさきへ近づいていく。


 ソファーのかげに人がいた。

 いや、厳密には、もう人ではない。

 少なくとも、生きている人では。


 先客は死んでいた。

 のどをナイフで、ひとつきにされて。

 そのナイフこそ、十数年前に所在不明になった、伯爵家の家宝だった。

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