竜太郎くんと西沢

真名瀬こゆ

冷たい手

「嘘ですよね? 嘘だといってください、お願いですから」


 俺の住む町の冬は、なかなかに寒い。冬になると同時に雪が降るし、雪が降ってから冬になることもある。

 冬は苦手だ。南生まれであることも関係あるかもしれないし、ただ単に寒いのは得意じゃないのもある。が、今はこの町に住んでいるんだから、季節の移り変わりは受け入れるほか無い。

 とはいっても、今は夏になろうとしている季節なのだから、そんな話は関係ないんだけど。

 今大事なのは、俺は暑いのも得意じゃないということだ。


「嘘だよ」

「なあんだ……って、室内なのに室外となんら変わらないんですけど。むしろ、空気がこもって暑いくらいですよ」

「虫は入ってこないよ」


 空調の効いていない教室での授業を終え、冷房の効いた部屋を求めて、俺が行き着いたのは誰もいない自宅ではなく、絶対に誰かが在宅をしていると確信していた祖父の家。

 期待は裏切られなかったが、願望は打ち砕かれた。まったく涼しくない。


「とりあえず、お帰り、竜太郎君」

「……ただいま、西沢」


 いい笑顔でむかえいれてくれたのは、俺よりも三つ年上のお姉さんの西沢。下の名前も知っているが、俺の母さんと同じ名前だったので、西沢と呼ばせてもらってる。

 書斎には上から下までびっちりと詰まった本棚が並び、ローテーブルを挟んで向かい合うソファーが置いてある。それから、祖父の使っていた上質だけど少し年季を感じる机。そこに座る彼女は、この書斎をいたく気に入っていて、祖父から第二の私室にと割り当てられている。


「あんまりだ、必死に帰ってきたのに」

「私だって壊したくて壊したんじゃないよ。勝手に……。機械の機嫌は分からないねぇ」

「掃除しないからですよ。こんなに埃っぽくして!」


 二年前、大学生になったばかりの頃の西沢は今よりもっともっと行動力があった。何事にも張り切っていて、はつらつしてた。

 まあ結果、あまりにも積極的に単位を取得し続け、授業に必要性を失っていった西沢は段々と怠けていった。

 最近はこの書斎に引きこもっていることが多い。厚いレンズの眼鏡に、だらしない部屋着、寝癖を直しもせずに縛ってまとめた髪。見苦しい彼女は少なくとも、授業がないらしい火曜と水曜は必ずここにいる。


「はいはい。冷たい麦茶でもいれてあげるよ」

「お願いします」


 二年前といえば、俺も高校生になったばかりで、西沢にも会ったばかりだった。

 祖父の家で下宿する、と紹介されたあの頃、年上のお姉さんという肩書きにドキドキした馬鹿な自分がちょっと懐かしい。

 西沢はすっかり引きこもりが板についてきたし、俺も西沢のせいで世話焼きになった気がする。


「おじいちゃんだって元気に老人会に行ってるって言うのに」

「おじいさん、元気だよねぇ」


 もはや西沢の城と化しているこの部屋には、小さな冷温庫がある。中身は西沢の名前が書いてあるジュースだったり、俺の名前が書いてあるプリンだったり。そこから出てきた麦茶は、ソファーでぐったりする俺の前に置かれた。西沢は机に戻ることはなく、俺と向かい合うソファーに座った。その手元にはラムネ。


「うわ、ずるい。自分だけラムネ!」

「いいでしょー」

「絶対にこぼさないでくださいよ」


 俺の思う二十歳はとっても大人だった。でも、二十歳過ぎているはずの西沢がこうであると、年をとるっていうのと大人になるっていうのは、まったくの別問題なんだとひしひし感じる。

 差し出された麦茶を飲むと、自分が思っていた以上にのどが渇いていたと実感した。ううん、これから本格的に暑くなっていくのかと思うと憂鬱だ。


「窓、開けてもいいですか?」

「いやあ、遠慮してもらえると嬉しいな」


 目線だけで机を示した西沢に促されるように目を向けると、散乱した紙の山。見えるだけでも、俺には何が書かれているんだか理解できない文字だの、数式だので埋まっている。


「やるな、とは言いませんけど、もうちょっと整理しながらできないんですか?」

「熱中しちゃうと、気が回らなくて」

「その前に暑いなあ、窓開けようかな、とか思うでしょう」

「あははは」


 笑ってごまかされるわけがない。暑さも忘れて熱中できることはすごいことなのだろうが、彼女に関しては心配事の一つでもある。


「熱心に勉強するのはかまいませんけど、休憩とってます? ぶっ倒れてからじゃ遅いんですよ」

「竜太郎君、お母さんみたい」

「西沢が子供みたいなんです」


 からん、と鳴ったビー玉の音がこの暑苦しい部屋の中で、唯一の涼しさだ。


「暑くないんですか?」

「うん。暑い」

「やっぱり暑いんじゃないですか」

「人間ですんで」


 へらへらと笑う西沢の能天気っぷりには本当に不安になることがある。これで頭はいいんだから納得いかない。

 空気を入れ替えることも拒否されたこの部屋にいるのは苦痛だ。これなら、風が吹いている分、外のほうがまだいい。


「アイス、買いに行きましょう」

「え?」

「アイス。コンビニまで。おごってあげます」


 ぱちぱち、と瞬きをして、俺の誘いを理解すると、西沢は笑顔で「やめとく」と人の好意を一蹴した。むかつく。


「言っておきますけど、俺だけで行くなんて、絶対しませんからね」

「着替え、面倒」


 西沢は押しに弱い。ちょっと強引なことを言えば、断れないのを俺はよく知ってる。

「外で待ってますから、早くしてくださいよ」と言って、部屋から出て行こうとすれば「……仕方ないなあ」と背中に乗り気ではない返事を寄越された。

 これは絶対に内緒だけど、西沢を外に連れ出すのはすごく好きだ。

 一応、人の目を気にすることはできるらしい彼女は、決して部屋着に寝癖にサンダルでは外に出ない。小奇麗にして、眼鏡からコンタクトに変えた、よそ行き仕様の西沢を見るとちょっとした優越感を覚える。


 外に出ると、思っていたとおり、あの部屋よりはまだましだった。

 ぼうっと、庭先を見つめる。庭の手入れは、祖父と西沢が一緒にしているらしく、いつ見ても完成された一枚絵のような完璧さだ。

 植物の名前なんて、大して知らないが、この庭はいつ見ても飽きない。ちょっとの間に庭の観賞に入っていた俺の意識は、唐突な背中への衝撃で現実に戻された。


「いっ!!」

「うあ、ごめん! そんなすぐそばにいると思わなくて!」

「いや、俺が悪いから」


 開いた扉が背中に直撃した。すっかり別人になった西沢があわあわと俺の背中をさすろうか、さすらまいかと動揺している。

 心配されていてなんだが、別に大怪我を負ったわけでもないのに、あわてている西沢がちょっとだけ間抜けに見えて、ほんの少しだけ可愛かった。


「じゃあ、いきますか」


 西沢の出てきた扉に鍵をかけて、出発の準備も万端だ。俺が先に歩き出すと、隣に並んだ西沢は控えめに俺の小指を掴んだ。


「……子供じゃないんですから」


 返事はなくて、代わりに彼女は掴んでいた手を緩めると、きっちりと手を繋いだ。こんなに暑いのに、西沢の手はひんやりとしていた。


「手、冷たいんですけど、生きてます?」

「竜太郎君が温かいだけだって」


 こういうところで妙に余裕があるとこは、好きじゃない。


「帰ったら掃除ですからね」


 恥ずかしさをごまかすように、ぎゅう、と手を握ったら、西沢が笑った。

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