第二章

 それから二年を待たずして、六十となった小野次郎衛門忠明は病に伏せっていた。

 忠常には、父でありながら生ける伝説の剣豪でもある忠明の衰弱した姿は見るに忍びなかった。


「忠常よ」

「はい」

「おまえにわしの一刀流を継がせたい」

「まさか。兄上はどうなさるのです」


 忠常には兄である忠也ただなりがいた。


「忠也もよい剣を使う。あれには我が師である伊藤一刀斎いとういっとうさいの流派を継承させる」


 一刀流の開祖である伊藤一刀斎の名を聞いて、忠常は身が引き締まる思いであった。


「だが、小野の一刀流はおまえに授ける」

「はは」


 忠常は平伏した。


「あの時以来おまえの稽古には鬼気迫るものがある」


 あの時とは十兵衛との御前試合の時であろう。

 忠常は打倒十兵衛の一心でさらなる猛稽古を続けていた。


「いかにも柳生十兵衛三厳という男は天才。まだ柳生に蟄居しておるのか」

「はい。しかし廻国修行かいこくしゅぎょうをしているとの雑説ぞうせつも聞きおよんでおります」

「ではさらに強くなっておるかもしれぬな」

「はい」

「だが我ら一刀流は天下無双の剣である」

「無論です」

夢想剣むそうけんを会得せよ」


 夢想剣。忠明が伊藤一刀斎より受け継いだ一刀流の秘剣。眠っているときにかゆいところをなでるように、夢想のうちに斬る技であった。


「ですが、いかにして」

「忠常。これを」


 忠明は頭だけ動かして枕元の細長い桐箱をしめした。

 忠常は受け取り、紐をほどいて箱を開けた。中には刀が入っていた。


瓶割刀かめわりとうだ。これを授ける。おまえならいずれ夢想剣に到ろう」


 小野忠明が神子上典膳みこがみてんぜんと名乗って、伊東一刀斎のもとで修業をしていた頃。兄弟子の善鬼ぜんきと一刀斎の後継の座を賭けて果し合いをし、忠明が見事勝利をおさめた。その時に一刀斎より授かったのがこの瓶割刀。文字通り伝家の宝刀であった。


「これよりは小野派一刀流おのはいっとうりゅうを名乗るがよい」

「はは」

「忠常よ」

「はい」

「十兵衛を斬れ」


 狷介強情けんかいごうじょうな父にはめずらしくれたようであった。

 それから数日して忠明は亡くなった。

 忠常は小野家の跡取りとなり、次郎衛門を襲名して将軍家兵法指南役となった。


◆◇◆◇◆◇


 それからさらに数年の月日が流れた。

 寛永十四(一六三七)年。忠常は二十九になっていた。

 将軍家兵法指南役と書院番しょいんばんに忙しい日々を送っていたが、つねに頭の片隅には柳生十兵衛の姿があった。

 ある日、柳生宗矩から柳生家の屋敷にまねかれた。


「十兵衛が戻って参る」


 宗矩のひと言に忠常はしばらく言葉をうしなった。


「島原の騒動は存じてござろう」


 九州の島原で切支丹が蜂起し、幕府が鎮圧に乗り出しているという話は、当然忠常も知っていた。


「幕府軍の陣頭指揮として、家光さまには老中ろうじゅう松平伊豆頭まつだいらいずのかみさまを推挙すいきょいたした」


 柳生宗矩は大名を監察する大目付おおめつけを任じられていた。柳生家はいまや一万石であり大名に列している。対して、同じ将軍家兵法指南役である小野家は、忠常が継いだあとに二百石の加増を受けてようやく八百石。一介の兵法者から、将軍家光の相談役として老中をも動かせるほどに宗矩は異例の出世を遂げていた。


「このたび十兵衛を伊豆頭さまの護衛に任じてござる」

「では十兵衛どのも島原に行くのでござるか」

「左様」


 宗矩は煙草たばこに火をつけてゆっくり煙を吐いた。


 ーー十兵衛が戻ってくる。


 忠常は心の内で歓喜に奮えた。しかし、宗矩はなぜそれを忠常に告げたのだろう。


「忠常どの、十兵衛を斬ってくれまいか」

「なにを仰せられる」

「忠常どのはこれまで何人の人を斬られた」

「いえ。拙者は一人として斬ってはござらぬ」

「それでよいのでござる」


 忠常は自身の兵法者としての根本的な未熟を感じた。目の前の柳生宗矩も、父である小野忠明も戦国時代の兵法者であった。つねに命のやりとりの中に身をおいていた。宗矩は大坂の陣で二代将軍徳川秀忠とくがわひでただの護衛として、豊臣方の武者を七人斬るほどの武勇を誇っていた。それは日々の稽古で木剣を数百、数千回振ろうがたどりつけない境地であるはずであった。


「拙者は徳川家のため、ひいては柳生家のために己の手を汚して参った」


 忠常は、幕府が大名家を取り締まるために、柳生家が暗躍してきたことを知っていた。その結果として宗矩は大目付という要職についたのだ。


「十兵衛には多くのものを斬らせた」

「なんと……」

「これからの世に必要となるのは治国ちこく平天下へいてんかの剣。我ら将軍家兵法指南役が目指すは活人剣かつにんけんでござる」

「いかにも」

「柳生新陰流においては究めるところ、刀を持たずして勝ちを得る。すなわち、無刀取むとうどりと申す」

「無刀取り、でござるか」

「左様。だが、あやつの剣は殺人剣。これからの世には必要なき剣でござる」

「柳生家はどうなさるおつもりか」

「柳生は宗冬むねふゆに継がせる」


 十兵衛の弟、宗冬。柳生新陰流の開祖である石舟斎宗厳せきしゅうさいむねよし、宗矩、十兵衛の三代の剣豪とくらべると烈しさは劣るが、天下泰平の剣にはいかにもふさわしい人物であろうと忠常も思った。


「十兵衛を斬ることができる者は忠常どのしかござらぬ」

「しかし」

「忠常どの。そなたも拙者と十兵衛、そしてお父上の忠明どのと同じく乱世の兵法者でござる」

「拙者も……」

「左様。なぜならそなたは十兵衛との斬り合いをのぞんでおるはず」


 忠常は言葉が出なかった。


「なれば。我らは天下泰平の世では果てておらねばならぬ者どもでござる」

「十兵衛どのを」

「遠国であれば斬ってもとがめられることはござらぬ。しかもいくさの地とあればなおさら」


◆◇◆◇◆◇


 柳生屋敷からの帰り道。忠常は宗矩とのやりとりを心の内で反芻していた。


 ーー十兵衛どの。


 柳生家嫡男でありながら天才的な剣技をもつがゆえに、家のために裏の仕事をさせられたあげく、ついには身内に斬られようとしているとは。不憫であった。


 ーーならば拙者が斬ることがせめてもの情け。


 剣士として尋常な勝負で斬る。それが十兵衛にとって、いや、忠常にとっても理想的なかたちであろう。


 ーー島原に行こう。


 忠常の決意はかたまった。

 そのまま忠常は一軒の商家へ向かった。使いの者に用件を告げると、しばらくして女が門の外にでてきた。


「若先生お久しぶりです。あ、もう若先生じゃないですよね。ついむかしの癖で」


 お民であった。数年前に立派な商家に嫁いでいた。鈴がころがるような声音で愛らしく笑う姿はかわっていない。


「なにかご用事ですか」

「しばらく江戸をはなれる」

「あらどちらまで」

「島原へ」

「……いくさですか」


 お民の耳にも島原の話はとどいているようだった。


「いつかそなたには話したな。かつておれを負かした男とふたたび決着をつけに行く」

「ああ、あの強きお方。ずいぶん昔の話ですね」

「そうだ。もしかしたらもう戻ってこれぬかもしれぬのでな」


 忠常は照れたように微笑んだ。これだけ伝えることができればよい。別れの言葉を告げておきたかった。


「若先生、いえ、忠常さま。わたしも島原までお供させていただけないでしょうか」


 お民の意外なことばに忠常は啞然とした。


物見遊山ものみゆざんではないぞ。命をかけた果たし合いだ」

「わたしも命をかけて」

「なにをいうか」

「島原では多くの切支丹が信仰のために戦っていると聞いております」

「そなた」

「わたしは信仰の戦を見届けたいのです。ゼズスさまがこの世におわすのかを」


 お民はいまだに切支丹であったのだ。


「そなたに話したのが間違いであった。忘れてくれ」


 忠常は背を向けて歩み出した。

 お民が唐突に忠常の背中に抱きついた。


「お民は忠常さまを好いております」

「家の者はどうする」

「それは忠常さまも覚悟の上でありましょう」


 忠常にも妻がいる。ただ、心のどこかでお民のことをひそかに想い続けていたのだろう。だから別れを告げに来たのだ。


「もし生きて帰ってくることができたら」


 背中にお民の身体のぬくもりを感じる。


「江戸にはもどらず、ふたりでともにどこぞで暮らさぬか」


 お民がうなづいた。

 柳生十兵衛との勝負への旅。これは身内すらもすてる修羅の旅であった。

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