槙灯版夢十夜(第一夜)

 こんな夢を見た。

 私の腕の中で仰向けになった彼女が、静かに、もう死ぬわと言う。彼女の艶やかな長い髪の隙間から見える黒い瞳が私を見据えている。白い肌ではあるが血色は良好で、私の目から見てもどこにも異常はない。到底彼女が死ぬようには思えない。しかし、彼女は再び静かに、しかしはっきりとした声で、もう死ぬのと言った。それを聞いて、私は彼女は何を言っているのだろうと思う。心拍数や体温に異常はなく、呼吸も穏やかである。しかし、そんな思考とは裏腹に私の口からはそうかい、もう死ぬのかいと声がこぼれた。目の前の彼女は大きな瞳を更に押し広げて死ぬのよと言った。その迫力に負けて私は口をつぐむ。黒い瞳が鏡のように私の顔を映す。その瞳を凝視して私は、これだって死なないだろうと思った。なぜなら、彼女は。だが、万が一ということもある。私の顔が見えるかい、とゆっくり言うと、彼女はええ、この眼に映っているわと微笑んで見せた。いつもの彼女の笑顔だ。私は胸をなでおろし、手で彼女の髪を梳く。

「でも、もう死ぬのよ。仕方ないわ。」

 彼女はそれでもそう言い張った。君は死にたいのかいと聞くと、彼女はころころ笑ってそういう人間はいるんでしょうけど、私は違うわと言った。それもそうだ、と思う。人ならいざ知らず、彼女なのだから。

 ふと、思いつめたような目をして彼女は私の顔を引き寄せ、耳元で懇願した。

「死んだら、花の水やりを私の代わりにお願いします。私の大好きな花なの。ちゃんと涼しい朝のうちか夕方にお願いね。人工水ではだめよ。ちゃんとあの井戸から汲み上げてきてね。また、逢いにくるから。その時まで。」

 いよいよ、彼女は死ぬつもりらしい。私は、いつ逢いに来るのか尋ねた。

「このドームの向こうから日が昇るわ。そしてあちら側に沈んでいくの。人間たちはもう忘れてしまったけれど花々はちゃんと覚えていることよ。そうしてそのルーティーンが何度も続いていくの。あなた、知っていたかしら。」

 私は首を横に振った。ドームの天井一面に貼り付けられている照明のオン・オフだけがすべてであった。彼女は子供を諭す母親のような笑みをたたえてこう言った。

「百年、待ってて。」

「百年、私を見守っていてほしいの。死んでしまった私のそばにいて。きっと、逢いに来るから。」

 私はただ、待っているよとだけ答えた。すると、嬉しそうな彼女の瞳の奥がチカチカと瞬いたかと思うと彼女の目は閉じられた。その瞼の隙間から液体が垂れていた。私はそれを指ですくってなめてみる。ほとんどが水であったが、タンパク質やリン酸塩などもわずかに含まれていた。参照するに、これが涙というやつなのであろう。私は彼女の身体からこのようなものが検出されたことに驚愕した。なぜなら、私も、彼女も

「生命活動限界到達。コレヨリ自動修復プログラム開始。」

 彼女の身体のうちより声がして、機械音が鳴り響く。やがて、「修復完了。最終調整及ビ初期化二移行シマス/初期化率九十九パーセント/解析不能のファイルノ存在ヲ確認/消去不能/影響ハ軽微/再起動二問題ナシ/強制起動開始」と抑揚のおかしな声がそう告げて、彼女の目がゆっくりと開く。

「視界良好。D-53型のヒューマノイド738ヲ視認。動作異常ナシ。」

 起き上がった彼女はそう口に出しながら周りを見回す。そして、僕の目を見て、

「初メマシテ、私ハW-67-839デス。ゴ用件ハナンデショウ。」

 機械的な音声が、空間に響いた。僕はこの時悟ったのだ。僕らの死とはこのような形でやってくるのかと。

 私はできるだけの笑みを浮かべてこう言った。

「そうだな、まずは人間らしい声の出し方から覚えようか。」

 そうして、私と女の二体の生活が始まった。最初はぎこちなかった女の活動も次第に人間じみたものになっていった。学習能力が高いものだと素直に感心した。ただ一つ、この女が分からないことと言えば私の毎日の水やりのことだけだった。それは自分の仕事だと毎日のように申し出る女を、自分は約束だからと突っぱねていた。女にはどうも、その考えが分からないらしい。それはそれでいいのだと思う。

 日が昇って私は井戸へ水を汲みに行く。そして丁寧にじょうろを使って花のひとつひとつに水をかけてやっていった。日が落ちるころ、私は再び、水をやる。これで、一日が終わるのだ。何度井戸と居住ドームの間を行き来したのか数え切れなくなったが花は白いつぼみのまま一向に咲かない。難儀な花もあるものだと不思議に思いながら水をやり続けた。それでも、百年はまだ来ない。私は彼女に騙されたのではと疑いだした。きっとあれは最期に私をからかったのだ。

 それからしばらくして、いつものように水をやりに温室に入ると、女がすでに来ていて、隅にしゃがんで何かを見つめている。珍しいこともあるものだと思いつつも、いつものように水を根元にかけた。すると、ゆっくりと白色の花弁がねじられながら開き始めてふわりと花の形を作った。私はその美しさに息を飲んだ。これが美しいということか、と初めて思った。じっと清らかな花を見つめていると、下の方で柔らかな声がした。

「ねえ、美しいでしょう。私の大好きな花なの。」

 ああ、本当にと答える。彼女は立ち上がって美しく微笑んでいた。それは一瞬のことだった。

「僕もこの花は大好きだ。」

 メモリーの奥深くに存在する解析不能のファイルがそう言った。涙が瞳から零れる。

「どうかしたのですか?」

 女の尋ねる声に何でもないさ、と答えて。私はただ、涙を流した。その一滴が花の先にあたって跳ねる。

「百年はもう来ていたんだなあ。」

 私はこの時、すべての顛末に初めて気が付いた。

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