新撰抄 〜無銘隊士之霊位〜
三條すずしろ
初七日 流刀二尺
わしは"志士"というものを、心底嫌っておった。
当時の洛中には"夷狄討つべし""帝尊し"という思想が蔓延しておったが、それはやがて"幕府倒すべし"という極論へとすり替わっていきおった。
なんのことはない。
食い詰めた素浪人やら、国元でうだつの上がらぬサンピン侍やらが、先祖代々の怨念と我が身の不幸を背負って吠えだしたに過ぎぬ。
そんな連中が"尊皇攘夷"という恰好の大義を振りかざして、洛中に蠢くようになった。
口角泡立てて中身のない論を玩び、酔うては目も当てられぬ詩を吟じ、安女郎を抱いては天下の権を握る夢を見るのだ。
憂国の士といっては聞こえはよいが、つまるところおおよその有象無象は、ひと暴れする機会に飛びついただけであったろう。
だが、寄って立つ場所が違うだけで、その芯の部分は、わしらも大した違いなどあろうはずもなかった。
志士どもが一時の回天を夢見たように、わしらにも龍門の瀑布をのぼる夢を見せてくれる場所があった。
新撰組――。
そうか。
おぬしもその名を存じおるか。
あれはひとときの……そうさな、祭りのようなものだったのであろうよ――。
志士を気取る連中には、阿呆のように長い刀を差す者が多かった。
二尺五寸ほどにもなる無反りに近い長刀を大切先に誂えて、やれ剣先がはや敵に至るだの、突きが深く刺さるだの。
大言してはこれみよがしに、長い鞘のこじりを引き摺るようにしてうろついておった。
斬り合いのとき、一寸でも長い刀がほしいというのは人情であろう。
だが、長ければ有利かというとそうではない。
身の丈に合った長さと、その場に応じた長さとがあるのだ。
特にわしらの勤めでは、屋敷内に踏み入って不逞どもを捕縛することが多かった。
狭く暗い室内でこそ威力を発揮したのが、むしろ短い刀、即ち小太刀であった。
何かにつけてわしらが張り合った見廻組の頭目に、佐々木只三郎という男がおった。
あれの稽古を一度だけ見たことがあるが、それは見事なものであったわ。
さすがに「小太刀日本一」の二つ名は伊達ではなかった。
見廻組も、「鰻の寝床」といわれた洛中の狭く暗い室内で斬り合う術を求めたのであろう。
もっとも、端から小太刀を頼りに死地に踏み込むような胆力を持ち合わせた者は、滅多におらなんだがな。
わしと同じ隊に、小太刀を得意とする男がおった。
聞いたことのない流派であったが、いわゆる「居合」を表芸として大刀も短めのものを差料としていた。
小太刀、というのは別に何尺何寸と細かに決まっているわけではなかった。
わしは脇差全般のことを、慣例としてそう呼んでおった。
大きい方の太刀に対して小さい方、大刀の脇に差すので脇差、といったほどの意味であろう。
ただし、「小太刀術」とはいうが脇差術という呼び方はせなんだ。
小太刀、といえばそれを扱う技そのものを指すものとされていたのだ。
普通、脇差は二尺未満で、一尺八寸を超えるものは「大脇差」と呼ばれた。
新撰組では脇差もなるたけ長く誂え、大刀が折れたり血糊で斬れなくなったりした時の備えとするのが流行しておった。
副長の土方あたりが言い出したように記憶しておるが、局長の近藤が差しておったのは二尺三寸ばかりであったから、もはや大刀を二本用意していたのと変わるまい。
小太刀の得意なわしの同僚は、大小ともに二尺程度のものを腰に帯びていて、近藤とは逆に大脇差を二本差しているようなものであったわ。
あやつは差料に違わず、小柄でおとなしい雰囲気の男であった。
刀の手入れをしておる時、鞘の栗形が随分と大ぶりに拵えられているのが目に付き、声を掛けたのだった。
「鞘を落とすと、難儀いたしますゆえ」
わしの目のつけ所が嬉しかったようで、にこやかにそう答えたのをよく覚えておる。
普段はおとなしい男であったが、こういう手合いほど、案に相違して太刀筋は苛烈なものだ。
わしは道場では、ほとんど面金に竹刀打ちという撃剣の稽古はせなんだ。
それが悪いわけではないが、やはり木刀か刃挽き刀で修練するのが本筋であろうと思っておったのだ。
あやつも同じような考えだったのであろう。わしらは妙に馬が合って、刃挽きでの稽古を行える数少ない相方となった。
新撰組にはさまざまな流派の遣い手が集まってきたゆえ、同流どうしでの形稽古はなかなか難しい。
だが、それでこそよいのだ。
突然斬り合わねばならぬ相手の流派が、いちいちわかるものかよ。
どんな敵と闘うかわからぬからこそ、より多くの太刀筋を知るべきなのだ。
木刀を手に初めて手合わせした時、わしが決めごとはいらぬかと訊ねると、
「ご随意に」
という返事であった。
好きなように打ち込んでこい。
そういう意味と捉えたわしは、礼も交わさず間髪入れず、九割方の力で縦一文字に打ち込んだ。
あやつの脳天を割った、と思う間もなく、かしゅんっ、と軽い音を残してわしの太刀筋は大きく横へ逸れた。
受け流し――。
頭上をかばうようにかざされたあやつの小太刀が、鎬でわしの太刀を受けたと同時に側方へ流したのだ。
あらゆる太刀筋で試したが、いずれも見事に受け流された。
どの流派にも同じような技はあるが、実に難しい遣い方である。
受ける瞬間の太刀が水平に近付き過ぎると、相手の刀勢に負けて押し込まれ、まともに打ち込みを浴びてしまう。
そうかといって角度をつけ過ぎると、今度は流しきれず肩口を斬られるおそれがる。
したがって、絶妙な角度と間合い、そして機の捉え方で敵の太刀を受け流し、しかもその瞬間にわずかに体を捌いて完全に斬撃をかわすという芸当をやってのけねばならぬのだ。
理屈は単純だが、極意にあたる技といってよい。
わしも実際の斬り合いでは、とうてい使うことなどできなんだ。
受け流しの恐ろしさは、受けた反動を利用して刀を旋回させ、その力を上乗せして斬り下ろす点にもある。
太刀を流された相手は前につんのめるように体勢が崩れるため、自ら首を差し出すような格好になるのだ。
そこを間髪入れずに斬られれば、もはや防ぎようなどあるまいよ。
新撰組は人斬り集団であるかのようにいわれるが、実のところは斬り捨てるより捕縛すことが優先任務とされていた。
無論、背後関係を吐かせるために生け捕りにするのだが、あやつの小太刀術はそれにうってつけの技であろうと思われた。
短さを補うため、特に体術と組み合わせることが必要だったからだ。
死番、というのを存じおるか。
そうか。存外知られておるのだな。
その通り、御用改めで先頭切って踏み込む役目のことよ。
その時、わしは初めてあやつとともに不逞浪士の巣へと踏み込み、あやつがその死番であった。
小太刀の鯉口を切り、柄に手掛けしたまま、あやつは暗く狭く急な階段を駆け上っていった。
わしはその二人後から続いたのだが、怒号と凄まじい足踏み、そして鋼が噛み合う「がぢっ」という乾いた音から、即座に斬り合いになったことを知った。
わしらは鎖帷子を着込んで鉢金を巻き、胴まで着けた完全装備で、しかも敵一人を三人ほどで囲むようしつけられておった。
したがって、数で勝ればまず不覚をとることはなかったのだ。
しかし、屋内ではそれが充分にできるとは限らぬ。
その時も、襖で仕切られただけの狭い部屋のそれぞれで、各自敵にあたるしかなくなっていた。
わしは顔もよくわからぬような相手と斬り結びながら、視界の端に小太刀を揮うあやつの姿を一度だけ認めた。
そしてそれが、動くあやつを見た最後だった。
捕物が終わった時には、双方ともに無傷な者は誰もおらなんだ。
あやつは敵の一人と刺し違えて、事切れておったわ。
皮肉なことに、その名も知らぬ浪士の得物も、あやつと同じ小太刀であった。
死んでから分かったことだが、あやつには身寄りがなかった。
そういう隊士は通り一遍に弔われ、親しかった者が形見の品を預かることもあった。
あやつと特に親しかったというほどのものでもないが、あやつが最後に握っておった小太刀が、形見分けでわしの元へと回ってきた。
遺志を継ぐ、などというしおらしい心がけなどわしにはなかった。
ただ位牌代わりに刀架に横たえ、しばらくは思いついたときに、線香など手向けてやったこともある。
その小太刀も、戊辰の役の騒乱にまぎれて、どこにやったか分からんようになってしもうた。
ただ、それだけの話であるよ。
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