KYUNから始まるストーリー

伽羅先代萩

第1話

朝から疲れた肩だった。

ぼくよりもはるかに長い間、この混んだ電車に乗り続けてきた肩。

多分40代のサラリーマン。

ぼくよりも20年は疲れている。

ぼくはまだ1ヵ月だったけれど、連日の新入社員研修でもう疲れていた。

今日も良いことが起きる予感はなかった。


思いながら見ていた中年男の後ろ姿の、その疲れた肩にモンシロチョウがとまった。

さっきドアが閉まる瞬間にふわっと飛び込んでくるのを見ていた。

モンシロチョウが飛ぶ季節。

朝の混み合った電車に迷い込んでしまったのか。

可哀相に。

そう思った。


男の疲れた肩のあたりに白い手が近付く。

小さな、あぁ女の子の手だ。

中学生か高校生か、この年頃は見分けが難しい。

モンシロチョウが羽をふわりと広げると、その掌に向かって飛んだ。

手の平に着地。

えっ!乗った?

気付いたのはボクだけかと思ったら、後ろから「うそっ。」と小さなつぶやきが聞こえて、思わず振り返った。

ちょっと美人系のアラサーOLと目があった。

「手乗りですね。」と言うと、軽く微笑んで

「鳥じゃないんだから。」


そのOLの眼がちょっと驚いている。

そっちそっちと指示される。

少女を見ると、モンシロチョウに話しかけている。

小さな声が聞こえた。

「あお、ついて来ちゃったんだ。」

モンシロチョウに青はないだろと思うとスーツの裾を引かれた。

振り返ると

「なんて話してるの?」

なかなか好奇心の強いOLだ。

「青って呼んでますよ。」

OLが首をかしげた。

「青虫の青かな。」

なるほど、その青か。


OLの眉間にしわが寄った。

なにか考えている。

思いついたように口を開いた。

「青虫から飼うとなつくって事?」

「いや、ぼくに聞かれても。」

「聞いてよ。」

「えっ!」

「だから、その子に聞いてよ。」

いやいや、モンシロチョウを手の平に乗せてる少女に話しかけるとか無理。

しかも、ここ電車の中ですよ。

「ほら。」

いや、ほらじゃないし。

このOL、会社でもこんな感じなのかな。


「ちょっと聞いてみたいですよね。」

突然、OLの隣に立っていた初老の品の良さそうな男が割り込んできた。

「君たちの話で私も見ていたんですよ。」

どこかの会社の役員かな。

少なくとも朝の電車に乗るようなタイプじゃない。

そんなことを考えていると、

「ほらぁ。」

OLが役員に乗った。

いや、ほらぁじゃないし。


少女の方に向き直ると、

まわりの視線がちらちらと見ていることに気付いた。

みんなぼくたちの話に反応したらしい。

しかも、

当の少女も見ている。

モンシロチョウに気を取られていたが、あらためて見るとけっこうな美少女だった。

少し気後れしたが、覚悟を決めて言葉を発した。

「それって。」

少女はニコッと微笑んで当たり前のように言う。

「うちの子なんです。」

うちの子。

あぁ、少女的表現だ。

妙なところに感動する。


「青って青虫の青?」

OLが割り込んだ。

「あっ、そうです。キャベツについてきたんです。」

青虫がついているキャベツか。

高そうだな。

余計な事を考えた。

「育てたの?」

「はい。ちゃんとサナギになって、おとといチョウチョになりました。」

「それでその蝶は懐いているのですか?」

こんどは役員が割り込む。

「はい。たまに私のまわりを飛んでます。今日もついて来ちゃって。」

少女が嬉しそうに答える。

「そんなことができるのですか。」

役員が感動したようにつぶやいた。

「ネットで調べると載ってますよ。私も飼い方を調べてたら見つけたんです。」

その言葉に反応して、それまでちらちらと視線を送りながら手元のスマホを見ていた乗客の指が忙しく動いた。

検索してるな。

役員もスマホを見ている。

「あぁ、なるほど。アゲハも手乗りになるのですか。」

役員が感心したような声を出した。

まわりの客も頷いている。

妙な一体感。


「アゲハはいやかな。」

OLが言った。

確かに手の平に乗せるには大きすぎる。

「ねぇ、インスタに載せていい?」

OLがスマホを撮影モードにした。

「いいですよ。可愛く撮ってあげてください。」

少女が微笑んで手を伸ばした。

いや、君の方が可愛いよ。

とでも言えば恋が始まるのかな。

また余計なことを考えた。


「あんたも撮らせてもらったら。」

スマホをかまえたOLがあごで指図する。

初対面であんた呼びか。

しかもあごクイって、これは違うけど。

アラサーOL無敵か。

「もっともあんたは、チョウチョより女の子の方が気になってるみたいだけど。」

えっ!

少女を見ると目があった。

少女がはにかむ。

胸がときめいた。

アラサーOLいいやつ。

女神認定してやる。


役員がポケットからなにか出した。

少女の方に差し出す。

「面白い話を聞かせてもらったお礼だよ。」

図書カードだった。

なるほど、これはスマートだ。

品の良いじいさまはやることも上品だ。

少女がちょっと遠慮してる。

「もらっておきなよ。多分、今ここに乗り合わせたみんながそのちょうちょと君の話に楽しませてもらって、ちょっとお礼くらいしたい気分で、この方がその代表になってくれたんだと思う。」

「そういうことです。」

役員も納得してくれたらしい。

「あっ、はい。ありがとうございます。いただきます。」


少女がカードを受け取った。

絵柄を見ると笑った。

「チキンライスだ。」

「チキンライス?」

役員が怪訝そうに少女を見た。

「これ、チキンライス。」

絵柄を見せる。

役員がメガネをずらして絵柄を確かめる。

笑い出した。

「なるほど、チキンライスだ。魁夷先生はチキンライス画家でしたか。」

OLがのぞき込む。

「あっ、チキンライスだ。」

昭和を代表する日本画家『東山魁夷』が描いた紅葉の山は、確かにチキンライスだった。

この車両に乗り合わせた人たち、今日のランチはチキンライスが流行りそうだな。


車内がモンシロチョウとチキンライスでザワザワしてるうちに、ぼくもスマホを取り出して彼女の手の平に乗っているモンシロチョウと、さりげなく彼女も入れて撮った。

これは盗撮じゃないよね。

「おっ、いい写真撮るねぇ、若者。」

OLが声をあげた。

「ほらっ。」

OLがぼくの腕ごと少女の方に向けて写メを見せた。

えっ、なにすんだアラサー。

少女は自分も写っている写真にちょっと驚いたが、

「あの、それ送ってもらっていいですか。」

少女がぼくを見た。

「えっ。」

今、ぼくの背中でアラサー女がニヤニヤしてるに違いなかった。


「あお、ちょっとこっちに乗ってて。」

彼女は手の平のモンシロチョウを肩に乗せると、スマホを取り出した。

それはほとんど魔法少女レベルの不思議な光景だったけれど、誰も驚かずに納得しているのがおかしい。

「LINEでいいですか?」

はい、LINEだろうが、なんだろうがけっこうでございます。

さすがに現役らしくすぐにQRコードを表示させる。

彼女の白い手に乗ったスマホからQRコードを読み取った。

「なんかエロい。」

少女には聞こえないくらいの小さな声でOLが囁いた。

エロいとか言うな、と思いながら、でもJKの手の平からQRコードを読み取るって確かにエロいなと。


気付くと、電車が減速を始めていた。

駅が近い。

今日は良い日になりそうだな。

電車に乗るときには思いもしなかったことが起きた。

ぼくの予感があてにならないことも確認できた。


電車がゆっくりと駅に着いた。

乗客が降りる。

少女も降りる。

モンシロチョウが彼女の肩に乗ったまま一緒に降りて行く。

なんとなく見送っていた。


「ほら、ぼおっと生きてんじゃないよ。」

どこかで聞いたセリフがOLの口から飛び出た。

「あんたもこの駅でしょ。」

「えっ。」

見るとほんとにそうだった。

「えっ?」

「同じ会社だよ。あんたのみっつ上の上司。」

「えっ、みっつ!」

係長・課長・次長!

「こないだウジャウジャと部長の所に挨拶に来てたでしょ。」

「あっ、はい。失礼しました。」

「いいわよ。あんた使えそうだからうちに呼ぶわ。」

「えっ。」

驚いてとなりを歩いていた高校生にぶつかった。

高校生のイヤフォンが外れる。

小さな音が聞こえてきた。

「きゅんきゅんきゅん♫♪」

きゅんきゅんって今のぼくにピッタリだな。

ぶつかった高校生がイヤフォンを耳に着け直している。

「ごめん、それ、なんて曲?」

えっ、とこっちを見た高校生が嬉しそうに答えてくれた。

「KYUNです。日向坂の。」

きゅんって、そのまんま。

「きゅんか。ありがと。」

ほんとに、キュンとしたなんてひさしぶりだった。

歩きながらスマホのダウンロードサイトをチェックする。

あぁ、あった。

日向坂46って、乃木坂の妹分かな。


就活中の日々と初出社からのこの1ヵ月。

ただただ重苦しい日々だったけれど、今日は「きゅん」が復活した記念日だ。

うん、本当にKYUNとしたな。

あの子にも、

そして、

・・・

うちの上司にも。


(続くかもしれないw)



参考検索ワード

「手乗りアゲハ」「東山魁夷図書カード」「日向坂46/KYUN」

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