第五夜 願わくば花の下にて春死なん

ねがわくば  はなしたにて   春死はるしなん  その望月もちづきの   如月きさらぎころ


 平安後期の歌人である西行法師が詠んだ歌。


 ――――――――――――――――


 今夜もまたこの場所に来てしまった。桜が満開に咲き誇るこの場所に。


 彼女が戻ってきてくれると信じて、ぼくはここにいる。でも、まだ彼女は姿を見せない。


 いつまで待てばいいのだろう? いつになったら彼女は戻って来るのだろう?


 桜の木の根元はこんもりと盛り上がっている。まるでその下に『何か』が埋まっているかのように。


 昔、誰かに聞いたことがある。桜の木の下には死体が埋まっていると。その死体から養分を吸い取っているからこそ、桜は美しく咲くのだと。


 だとしたら、今ぼくの目の前で狂おしいくらいに咲き誇っているこの桜も、死体から養分を吸い取っているのだろうか?


 月の光で照らされた桜の花びらが、美しく、また妖しく光っている。この桜を見ていると、時間の経過も忘れられる。


 もう少し……あと、もう少しだけ、彼女が戻って来るのを待とう。だって、時間だけは無限にあるのだから。


 ――――――――――――――――


 彼女との出会いは、ごくありきたりの仕事関係の食事会でのことだった。ぼくはひと目で彼女の魅力にハマッてしまった。


 それから何度か食事をともにしたが、なかなか彼女の本心を聞くことは出来なかった。なぜならば、彼女の隣にはいつも男性が付き添っていたから、自分の出る幕などないと思っていたのだ。


 ある日、いつものように食事会に行ったところ、彼女はなぜか一人で姿を現わした。いつも一緒にいる男性の姿はなかった。


 もしかしたら彼と別れたのだろうか?


 もっとも、気弱なぼくはそのことを彼女に聞くことは出来なかった。でも、運命の女神様はぼくを見放さなかった。

 

 ぼくが友人と話をしていると、なんと彼女の方から話しかけてきてくれたのだ。どうやら、ぼくが友人と病院の話をしているのを聞いて、興味をもってくれたらしい。


 ぼくは自分が都内で医師として働いていることを彼女に正直に話した。


 その後、ぼくと彼女は急接近していった。彼女の話によると、元カレは勝手にひとりで海外に旅立って行ってしまったらしい。それ以来連絡も途絶えてしまい、結局、二人の仲は自然消滅してしまったとのことだった。


 失恋の痛手につけこむつもりはなかったが、気が付いたときにはもう、ぼくたちは立派な恋人同士になっていた。


 彼女とのデートはドライブが多かった。一番の思い出の場所は、やっぱりあの秘密の場所だろうか。彼女だけが知っている、桜の名所である。


 山道を登っていき、脇道に入ったところで車から降りて、さらに細い道を歩いた先に、その場所はあった。


 樹齢数百年はゆうに越えていると思われる立派な桜の大樹。その姿は圧巻だった。


 そこで彼女と二人きりで花見をした。時刻は夜だった。


 彼女は桜を撮影していたスマホを脇に置いて、コップを差し出してきた。そこに持ってきたワインを注いでくれた。


 ぼくらは月光に照らされた桜を見上げながら、ワインで乾杯をした。


 今思えば、あの時が人生で一番幸せな瞬間だったかもしれない。


 そして、車を運転してきたにも関わらず、その場の雰囲気に流されてお酒を飲んでしまったことが、人生で一番の最悪をもたらしたのだろう。


 その結果、『アレ』は起きてしまったのだ。


 どうにかして未然に防ぐことは出来なかったのか?


 今もまだその問いに、答えが出せないでいる。


 ――――――――――――――――


 今夜もまた桜が妖しく咲き乱れている。今夜こそ彼女は姿を見せてくれるかもしれない。そんな気がしていた。


 桜の木の根元の地面は、相変わらず盛り上がったままである。ぼくは隠れて彼女を待つことにした。


 どれくらい時間がたっただろう。


 土を掘り返す音と、荒い息遣いが聞こえてきた。探す物がなかなか見付からないらしく、音は途切れることなく続く。


 しばらくしてから、ぼくは音のする方に静かに近寄って行った。


「久しぶりだね」


 地面に掘られた穴の底から顔を出す女性がいた。土で汚れた顔に、乱れきった髪。頬は痩せこけており、その表情は極限まで引き攣っていた。


 そこにいたのは、ぼくがよく知っている彼女ではなかった。人としてのぬくもりが一切感じられなかったのだ。一瞬、桜の妖しい魅力に惹かれて現れた鬼かと思ってしまったほどである。


 たった一週間で、人はここまで変わってしまうものなのだろうか?


「──久しぶりだね」


 ぼくが繰り返すと、彼女はようやく口を開いた。


「なんで……なんで……。だって、あの日……わたしが『埋めた』はずなのに……」


 桜の木の下に掘られた大きな穴。ぼくが一週間前に埋められた穴である。彼女はシャベルを持ったまま、強張った表情でぼくのことを見上げてくる。


「どうして……。どういうことなの……?」


 彼女は怯えているようだった。それも当然だろう。


 自分が殺して穴に埋めたはずの人間が、今こうして目の前に立っているのだから。


「忘れたのかな? ぼくは医者なんだよ」


「──医者……」


 彼女はそれでもまだ、事態が把握出来ないようだった。


 あの日、ぼくは彼女と夜中に花見を楽しんだ。そして、車に乗って来たにも関わらず、彼女に差し出されたワインを飲んでしまった。


 でも医者であるぼくは、すぐに舌の上にはしる違和感に気が付いた。ワインに異物が混じっていると瞬時に悟った。


 すぐに口からワインを吐きだしたが遅かった。ぼくは何かを掴むように手を伸ばしながら、地面に倒れていった。


 そして、彼女の手で穴に埋められたのだ。


 だが、とっさにワインを口から吐き出したのが良かったのか、ぼくは意識を完全に失うことはなかった。


 ぼくはまだ柔らかい土を必死の思いで掻き分けながら、地面の上に戻ったのである。むろん、そのとき彼女はもういなかった。


 その日から毎晩、ぼくはこの場所で彼女が戻ってくるのを待った。


 なぜならば、彼女が絶対にここに戻ってくるという核心があったから。


 ぼくは彼女に右手に持ったモノを見せた。


「それ……まさか、わたしの……」


 彼女が驚くのも無理なかった。ぼくは彼女がさっきからずっと探し続けていたモノを持っていたのだから。


「そうだよ、きみのだよ。あの日、とっさに手を伸ばしたら、たまたまこれを握っていたんだ。もっとも、きみはぼくを埋めることで頭がいっぱいで、気が付かなかったみたいだけどね」


 ぼくは右手に彼女の『スマホ』を持っていた。もしも、このスマホがぼくの死体と一緒に土の中から見付かったら、彼女が疑われるのは間違いなかった。だからこそ、スマホを無くしたことに気が付いた彼女は、必ずここに探しに戻ってくると考えて、あの日から毎晩待ち続けていたのである。


「返してっ! わたしのスマホよ! 返してよっ!」


 彼女が自分で掘った穴の中から手を伸ばしてきた。


「きみが姿を見せたら、このスマホを使って警察に連絡をするつもりだった。でも、もうその必要はないみたいだね」


 ぼくは彼女の足元にスマホを投げた。


「えっ、なんで……」


 彼女は困惑しているようだった。


「きみはスマホを探す余り、頑張りすぎたんだよ」


 そう、彼女は埋まっていないスマホを探すことに集中するあまり、地面を『深く』掘りすぎてしまったのだ。


「もしかして、わたしのこと許してくれ──」


 彼女は大きな勘違いをしていた。


「違うよ。きみは『カレ』とよりを戻したほうがいいよ」


 ぼくの言った言葉の意味が分からなかったらしく、怪訝な顔をしている彼女の背後で、突然、白い物体が立ち上がった。そのまま彼女の体に覆いかぶさる。



 そう、彼女は地面を『深く』掘りすぎて、知らぬうちに『一年前に自分の手で埋めた元カレ』を掘り返してしまったのだ! 


 すべての肉が剥げ落ちて白い骨だけの骸骨と化した元カレを!



「きゃあーー! いやーっ、やめて! 手をはなしてっ!」


 彼女の絶叫を背中に聞きながら、ぼくはその場をあとにした。

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