第一章 よもぎと鷹助1
よもぎは桶を持って右往左往した。
「よもぎ。寛平さんが終わったら、次、吾作の体を拭いてくれ。」
父、松之介が途切れることのない指示を彼女に出してくる。
「待って今行くから」
素早く返事をすると、たった今、彼女が体を清潔に拭いていた中年の足軽の元から駆け出すように去っていった。
村はずれのお堂に居座る坊さんも尼さんもいなかった。
村から外れ蛇のような一本道の先のお堂は平常時は寂しいものであった。しかし今、お堂には傷ついた足軽たちで満員だった。中には、胸に腕に怪我を負い包帯に巻かれた足軽が床に転がるようにして居座っていた。
深見山を含む領地を治める八木家は現在、隣国の中川家と戦をしている所だった。中川の軍勢が有利で八木軍は勢いに押され両家の領地の境目は深見山まで辿り着いた。深見山を越えれば村であるが複雑に木々が入り組んでいる山を敵軍はすぐには登ることができなかった。
領主の軍は深見山周辺に留まっていた。半日かかる隣村には本軍がいる。よもぎたちの住む村では合戦で傷ついた足軽たちを泊め手当てすることを領主から命じられていた。
お堂の中には松之介とよもぎを筆頭に村人たちが交代で看病に当たっている。
よもぎはお堂の片隅に寝かされている若い足軽、吾作の元まで行った。吾作の前には村の娘りんが座っている。りんは吾作を見つめながら脈を取っていた。よもぎは彼女の側に座り込み桶を置いた。
「ねえ、吾作まだ目覚まさないよ。」
りんが不安そうに言った。よもぎは心配する友をなだめた。
「大丈夫、吾作は疲れているだけだから。」
とは言うものの吾作は頭に何重にも包帯を巻かれ、上半身は裸となり胸に包帯を巻かれている。息はあるが、ここ二日は目を覚ましていない。
よもぎは吾作の胸の包帯をほどいた。下からおびただしい傷跡がさらけ出した。最初見た時は、りんと一緒に怖気づきはしたが足軽たちを手当てしている内に慣れてしまった。桶の縁に掛けてあった布を取り、湯に浸けた。湯から布を引き上げると両手で力一杯絞った。それで吾作の体を拭いていく。
吾作の体を拭き終わり、新しい包帯を手に取った時だった。お堂に低い声が
響き渡った。
「まだ皆の手当てが終わらないのか」
また始まったと足軽と村人たちが溜息をこぼした。
「申し訳ありません。万兵衛様、皆手を尽くしているのですが…」
たえがぺこぺこと頭を下げたが足軽大将の万兵衛の怒りは収まらなかった。
「こうしている間にも敵の軍が領内に入ってくるかもしれん。一刻も早く迎え討つよう体勢を整えねばならんのだ。」
「まったくです。ほら早く手を動しなさい。」
たえは万兵衛に同意を示して目の前で指示を出すことで叱責から逃げようとしている。村人たちは顔をしかめた。村の中でこの男にぺこぺこと取り入ろうとしているのは徳左衛門とたえの夫婦くらいだ。
よもぎもうんざりしながら包帯を吾作の体に巻いていく。りんは小声で「何あいつら」と悪口を続ける。万兵衛は横たわる足軽たちを見回した。
「そもそもお前たちはこれぐらいの怪我でよく休もうなどと思ったものだな。」
(どこが「これぐらいの怪我」だ。動こうにも自在に動けぬ者ばかりだ。)
よもぎは心の中で毒を吐いた。
「今敵の兵士が現れた時どうするつもりなんだ。」
(だから今、現れた時に備え皆養生してるんじゃないか。)
「中川の兵は山の向こうにいるのだぞ。見張りを置くことは出来んとは何事だ。それに山に入れば大きな泉があると聞いた。あの水は使えないのか。」
万兵衛が何か言う度に不満が湧いてくる。あの男の今日の説教と演説はまた長くなりそうだ。
「松之介殿」
今度は松之介を睨みつけた。
「我々は一刻も早くこいつらを引き連れて動かねばならんのだ。一体いつになったら…」
「そう言われましても、これだけの怪我人を相手にしているのです。時間がどうしてもかかります。」
大将の顔は炎よりも真っ赤になった。鬼瓦のように眼を見開き睨みつけている。今にも刀を抜きそうな勢いだ。
「そこを何とかするのがお前たちの務めであろう」
「今の状態をよくご覧ください。万兵衛様。」
松之介も負けてはいない。万兵衛に澄ました顔で言い返す。
「数日そこらで治る怪我に見えますか?」
お堂中の怪我人たちに向かって腕を伸ばし、手で示した。
「そうです。」
吾作の包帯巻きが終わるとよもぎは父親の元に駆け寄り応戦を試みた。
「目を覚まさない者だっているのです。それに、ここにいる者たちは当分の静養が必要なのです。」
わざとらしく頭を下げた。ちらりと万兵衛を観察する。表情は鬼瓦、いや余計ひどくなっている。彼には聞き入れる気などないようだ。
「静養してる暇などあるか。急げと言っておるんだ。」
「万兵衛様。」
よもぎたちの間にいきなり若い足軽が入り込んだ。
乱れかかった髪に顔と体には細かい傷跡が見えた。よもぎには見覚えがあった。村で足軽たちの看病を命じられた時、よろめく体で万兵衛に肩を貸して村に来た青年だ。
青年は大きな怪我ではないため、よもぎたちの手当てをすぐに終えた。その分彼とは関わる機会が少なく、ろくに会話がしたことがなかった。確か名前は鷹助といった。
「二人の言うことは最もです。」
鷹助が口を挟む。その途端さっきから騒いでいた鬼瓦が口を閉じ黙り込んだ。人の話に耳を傾けるようになったようだ。
「確かに勝つには早く動くことが大事です。しかし戦には何かと備えが必要なものでございます。武具に兵糧など。それらを用意する時間を割いてまで動くことはできますまい。」
「…うむ。」
「足軽も同じでございます。怪我を負い疲弊した足軽を連れて、この戦勝つことが出来ましょうか?中川からこの国を守ることができましょうか?」
「…鷹助。…お前の言う通りだ。」
万兵衛は静かに受け入れた。そして松之介とよもぎに向いて言った。
「兵たちの看病に時間を与える。だが我らには時間がないのだ。できる限り急ぐように。」
そう言い残すとさっさとお堂から出て行った。
よもぎと争いを遠巻きに見物していた一同は納得できない部分をため込みながら静かにその後ろ姿を見送った。
「何あの人…」
自然とよもぎの口から不満がこぼれる。
「大変だろ。あの大将いつもカリカリしてるんだ。こっちの身がもたないよ。」
誰かが話しかけてきた。
「八木様からの命令でやっているっていうのに何様のつもりだろうな。」
振り返ると鷹助が立っていた。さっきとは変わってへらへらと笑ってる。
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