サッカー少年とピザまんとわたし

柴田尚弥

ある金曜日の夕食

 

 編まれた毛糸たちの隙間を潜り抜け、年末の寒さがわたしの首を撫でてくる。


 それをなんとか拒もうと顎先をマフラーに押し付けながら、わたしは『マカロニ』のドアを押し開けた。カランカラン、とステレオタイプな音が鳴り、店長の西片にしかたさんがにっこりと微笑みかけてくる。


「いらっしゃい。とりあえずコーヒー?」


 西片さんはわたしの答えを待つことなしにコーヒー豆を取り出し、手動のミルで挽きだした。


「ブラックで」


 わたしは西片さんにそう伝え、隅のテーブル席に腰掛ける。


 鞄からノートパソコンを取り出し電源を入れた。オペレーションシステムの立ち上がる音が奏でられると、西片さんがコーヒーを運んできたところだった。


 わたしの金曜日の夕食は『マカロニ』でとられると相場が決まっている。


 『マカロニ』は喫茶店なのかバーなのかよくわからない品揃えをした飲食店で、客質や時間帯によってその性格が大きく変わる。時には居酒屋のような雑音に満たされることもあり、時にはマティーニとピアノが似合うジャズバーのような雰囲気にもなったりもする。


 西片さんはこの店を枠にはめることが好きではないらしい。


「『マカロニ』の出会いは一期一会。その日その日のお客さんが楽しんでくれるなら、僕はどんな店になったとしても構わないよ」


 以前わたしがそのことについて訊いた際にはそのような答えが返ってきた。


「だから客が増えないんですよ」そのときわたしはそう言った。「ターゲット層は絞らないと」


 西片さんは困ったように小さく微笑んだ。


「でも、河相さんという常連客はゲットしてるよ」


 そして首もとの蝶ネクタイを触りながらそう言った。わたしはそれに小さく笑い、「それは客が少ないからですよ」と言った。


 西片さんは、やはり困ったように小さく微笑んだものだった。


○○○


 しばらくわたしはレポートの作成に没頭し、合間にコーヒーを飲みながら黙々と作業をこなした。それはわたしにとって毎週恒例のことであり、『マカロニ』にとっても毎週恒例のことである。そして西片さんにとっても毎週恒例のことであるのだが、彼は長時間居座るわたしに文句も言わずに時折コーヒーのおかわりを入れてくれる。


 気を遣ってくれているのか、声をかけることなくカウンターの裏に引き返す西片さんの後姿を見る度、わたしは感謝の気持ちでいっぱいになる。安直な方法で良ければ涙のひとつでも見せてあげたいところだ。


 わたしは大きくひとつ息を吐き、背伸びをしながら背もたれに体重をあずけ、椅子の後ろ足2本でバランスをとる横着な座り方をした。


「おかわりをください。ミルク入りで」


 カウンターに向かって声をかけると、西片さんがいつもの笑顔で頷いた。


「出来上がり?」


 わたしのテーブルにコーヒーを運び、カップにミルクと一緒に入れてくれる。レポート作成の完了後、1杯だけミルクを入れてコーヒーを飲むのがわたしたちにとって毎週恒例のことなのである。


 今日はいつもに増して客がおらず、店内に客はわたしひとりとなっていた。わたしが入店した時には客の一人がカウンターに座っていたのだが、レポートを作成している間にいなくなっている。


 念のためにフラッシュメモリにレポートファイルをコピーしたわたしは、パソコンの電源を落とし、それを丁寧に鞄にしまいこんだ。


「今夜は何を食べようか」


 お腹が空いているのも当然で、窓から見える外の世界はすっかり闇に包まれている。揺れる木の葉を観察するに、わたしと一枚の壁を隔てた向こうでは、耳を痛めつけるような強風が吹きつづけているようだ。


 『マカロニ』の心地良い空調に身を任せ、わたしはしばらくそのまま極寒の大地を見守った。すると、見慣れないノボリが風にはためいているのに気がついた。


「西片さん、あんなの前からありましたっけ」


 わたしはカウンターに声をかけた。西片さんがこちらに振り向き、覗き込むようにして窓の外に視線を向ける。


「あんなのって、あれ?」

「そう、あれ。この店は中華まんまで出すのですか」


 わたしは呆れてそう言った。コンビニでもあるまいし、はたして誰が買うのだろうか。


「あるよ。肉まん、あんまん、カレーまん。それからピザまんと、なんでもござれだ」


 西片さんは胸を張り、誇らしげにそう言った。「今、ハマってるんだ」


「メニューを統一する気がないのは知っていますが、わざわざこんな店で中華料理を食べる人はいるのですか」

「あれ。中華まんって、中華料理なのかい」

「それはそうでしょう」

「本当に?」


 改めて訊かれると、わたしには確信がもてなかった。とんこつラーメンは中国では食べられないことだろうし、ケチャップとチーズで味付けたカタカナ饅頭が中華料理とは思えない。


「でもほら、名前に中華ってついてますから」


 わたしがノボリを指さしそう言うと、西片さんは小首をかしげた。


「でも河相さん。メロンパンはメロンじゃないし、ご飯ですよはご飯じゃないよ」


 それはそうだな、とわたしは頷いた。


 このまま言い返せないのも癪なので、反撃の言葉を探していると、カランカラン、とステレオタイプな音が鳴り、『マカロニ』の扉が開かれた。


「お客さんだ。じゃあ、夕飯決めたら教えてね」


 西片さんはそう言うと、入ってきた男の子に応対する。「いらっしゃい」と優しく声をかけ、カウンターに座らせた。


「『マカロニ』にようこそ。寒かっただろ? このホットミルクはサービスだから、とりあえず飲んで体を温めると良い」

「いただきます。あの、僕、ピザまんが欲しいんですけど」


 男の子はミルクの入ったマグカップを受け取りそう言った。その様子をチラ見しながら、注文する者がいるのか、とわたしは小さく驚いた。ミルクと中華まんの組み合わせというのもなんだか凄いものがある。


「ピザまんね。お目が高いお客さんだ」


 ひとつで良いのかい、と西片さんが指を1本立てて訊くと、ふたつお願いします、と男の子は指を2本立てた。


「ピザまんふたつね。他は良い?」


 男の子から他の注文が告げられないのを確認すると、「ちょっと待っててね」と西片さんは言い、店の奥からセイロのようなものを持ってきた。


「味には自信があるんだけどね。注文する人が少なくて」


 西片さんはそう言うと、ふたつの饅頭をセイロに入れた。


 ひょっとしたらはじめて作るのではないか、とわたしは疑ってかかったが、少し興味をそそられたのも事実である。しばらく蒸された後取り出されたふたつの饅頭はホカホカと湯気に包まれていて、匂いがここまで届いてきているわけではないのにわたしの胃袋を刺激する。


「夕食が中華まんというのはどうなのだろう」


 中華まんは夕食にふさわしくないのではないか、と頭の一部で考えながら、たまにだから良いのではないか、そもそも中華まんは栄養のバランスもおそらくとれていて、夕食にこそふさわしい筈だ、とわたしは自分に対する理論武装を着々と進める。


 男の子は満足そうに笑みを浮かべ、中華まんにかぶりついた。


「旨い!」と男の子は一口食べるなり声をあげた。わたしの中華まんに対する興味はそれだけいっそう高まった。


 しかし、咀嚼し嚥下した後も、続いて饅頭にかぶりつこうとはしなかった。


「あれ? どうかした?」


 西片さんが男の子の顔を覗き込むようにして、少し心配そうにそう訊いた。男の子は首を振り、しかし小首をかしげて何やら思案しているようである。


「あのー、これ」


 やがて男の子は、遠慮がちに饅頭を割って見せた。わたしの席からその中身は見えないが、割られたことによってその匂いが空調に乗ってわたしの鼻に運ばれる。


 ケチャップとチーズの匂いではなかった。


「なんということでしょう」


 どうやら西片さんは誤って肉まんを調理してしまったらしい。西片さんに促され、男の子はもうひとつの饅頭も割った。


「こっちも、ですね」

「うわーごめんよ。どうしよう。っていうか、作り直すけどさ。それで良いかな」

「もちろん。僕としては、ピザまんが食べられさえすればそれで構いませんよ」

「本当にごめんね。すぐ作るから」


 西片さんはそう言い、男の子から皿を回収した。それを見ていたわたしは、自分に対する完璧な言い訳を思いつく。


「それなら、わたしがこれからピザまんをふたつ注文しましょう」


 人助けという名目の下では、大概のことが容認されるのだ。わたしは男の子を手招いた。


「ただし、わたしの伝票には肉まんふたつと書くように。代金はピザまんの分もわたしが持ちます。そして少年、君はわたしと饅頭トレードを行おう。見たところ肉まんも美味しそうだし、奢ってもらえるような形になるし、それでどうかな?」


 しばらく店内に沈黙が漂い、5秒ほどが経過した後、ようやく合点がいった様子で男の子の表情がパッと華やいだ。


「それなら僕も構いません。ピザまんも食べれることだし」

「助かるよ、ありがとう。じゃあピザまんができたらそっちの机に持っていくから」


 西片さんはそう言い、ピザまんを蒸す作業に取り掛かる。男の子が肉まんのふたつ乗った皿を持ち、わたしの席に寄ってきた。


「ウーロン茶をホットでふたつください」


 わたしは西片さんに向かってそう言った。少年には迷惑をかけたことだし、このくらいはしてやっても良いだろう。彼を促し、対面する形で座らせた。


「お邪魔します」と言いながら少年は座った。

「よろしく。わたしは河相だ」

「僕は内藤。その、ありがとうございました」

「礼を言うべきなのはこの店の主人だ。普段は真面目で、あんなことをする人ではないんだけどね」

「お礼はさっきも言っただろ。改めてありがとう。このウーロン茶はサービスしよう」


 ピザまんが蒸し終わらないうちに、まずウーロン茶が運ばれた。わたしたちはウーロン茶を一口すすり、肉まんを食べる作業に取り掛かる。


「これは旨い」


 口に含むや、わたしは心の中で呟いた。コンビニで売られるものとは明らかに違った味わいで、ひょっとしたら、わたしがこれまで食べていたのは肉まんと呼ぶにふさわしいものではなかったのかもしれない。


 夕飯メニューの選択は正解だった。ほとんど噛んでいないのではないかと思われる勢いで肉まんを食らう内藤を眺めながら、わたしは確信を得るに至った。窓から外を眺めると、夜の世界にノボリが揺られている。


「もっと早く教えろよ」わたしは静かにそう思う。


 肉まんの最後の一口を頬張ると、良いタイミングでふたつのピザまんが運ばれてきた。西片さんと目が合ったので、「なかなか旨い」とわたしは彼に頷いて見せた。


 あまりの旨さに食べるのに夢中になってしまったため、肉まんはあっという間になくなった。空腹もだいぶ落ち着いたわたしたちの前にはピザまんがひとつずつ置かれている。


「興味本位で訊きたいんだけど、良いかな」


 ピザまんを手にとりながら、わたしは内藤にそう言った。抽象的な質問にどう答えれば良いのかわからないようで、内藤は曖昧な笑みを浮かべて頷いた。


「なんでこんな店でピザまんを食べようと思ったんだい」


 わたしの手の中でふたつに割られたピザまんからは、トマトとチーズの匂いが溢れ出していた。


 ケチャップではないな、と考え一口かぶりついてみると、『マカロニ』で出されるピッツァ・マルガリータの味がわたしの舌を包み込み、トマトとバジルの風味が食道からダイレクトにわたしの鼻腔を刺激する。


 あまりの素晴らしさにため息が溢れる。シーズン中に必ずもう一度食べよう、とわたしは心の中で誓った。


「ノボリが立っていたからです」内藤の返事が耳に聞こえた。「コンビニで買おうと思ってたら、売り切れだったから。ピザまんは縁起が良いんです」


 ピザまんの縁起が良いとは初耳だった。「それは、朝の占いコーナー的な意味での話かな」


 内藤は首を横に振った。


「そうじゃないです。前に得点を決めた日の前日に、ピザまんを食べてたから。どちらかというとゲン担ぎです」

「得点?」


 何のだ、とわたしはピザまんを楽しみながら内藤に訊いた。『ほっぺが落ちる』が比喩表現であることに今日ほど感謝したことはない。


「サッカーです」


 自分のピザまんをすっかり平らげ、内藤は私にそう言った。足元のスポーツバッグを見せてくる。そこには近くの街をホームタウンとするサッカークラブの名前が印刷されていた。


 プロの、サッカークラブだ。


 プロの舞台でサッカー選手をするには小柄だが、確かに動作や佇まいに体幹の強さが見て取れる。


「君はプロの選手なのか?」


 ただのサッカー好きがグッズを揃えているわけではなさそうで、わたしは彼にそう訊いた。


「ユースから、Bチームに上がるかどうかってところです」


 ウーロン茶を飲み干した内藤はそう答える。「ほう」と小さな声がわたしの口から漏れ出した。「すごいじゃないか」


 わたしはこの少年に、また少し興味をもった。


 簡単に説明すると、内藤の所属するサッカークラブの選手たちは3つのカテゴリーに分けられる。Aチーム、Bチーム、そしてユースチームだ。


 Aチームは『上』と呼ばれる、公式リーグやカップ戦に臨む者たちのカテゴリーである。それに対してBチームは、通称『下』と呼ばれるカテゴリーだ。Aチームの予備人員、あるいは故障明けのリハビリやフォームを崩している者たちの調整に使われる。下部リーグに混じって実戦経験を積むことができるため、有望な若手の育成にも用いられるのだ。


 サッカー選手を志す者にとって、このBチームが大きな壁となる。なぜならこのカテゴリーからがフルタイム契約となるからであり、パートタイム契約であるユースチームに属する選手たちは、上限である22歳までにBチームを目指さなければならないからだ。


 サッカークラブの選手となるのは狭き門であり、そもそもユースチームにも入れない者がほとんどである。仮にユースチームに入れたとしても、さらにBチームに登録される者となると数がぐんと減る。


 つまり、プロ契約をしている者は、皆一様に化け物なのだ。わたしの前にはその化け物候補がひとり座っている。顔にはあどけなさが残っており、非常な童顔というわけでなければ、おそらく10代の半ばから後半にかけての年代だろう。


 その年齢で上のカテゴリーに進もうとしているということは、簡単に言うと、きわめて将来有望ということである。


「ポジションは?」

「センターフォワード」


 得点が評価の基準となるポジションだ。


「なるほど。君は試合前には必ずピザまんを食べるというわけだ」

「いや、それは別にそういうわけではありません」

「どうして?」

「特別な理由があるわけではないんですけど」

「じゃあ、なんで今日はピザまんを食べる必要があったんだい」


「それは」と内藤は言葉を詰まらせた。訊いてはいけないことだったのかもしれない。


 内藤は大きくひとつ息を吐き、「最近点が取れないんです」と窓の外を眺めながら、呟くようにして言った。「ゲンかつぎにもすがりたい、ってわけです」


 外の世界では風がやんでいるようで、ノボリは無気力にうなだれていた。


「そうか」と相槌をうったきり、わたしたちの間に沈黙が漂った。


 将来有望な化け物候補生の青い悩みだ。わたしたち一般人にできることはひどく少ない。余計なことをするつもりはなかった。


 しかし、音がしたので顔を上げると、西片さんがわたしたちのカップにウーロン茶を注ぎ足していた。


「それなら、河相さんに見てもらうのも良いかもしれないね」西片さんは小さく微笑む。「どうだろう? これも、何かの縁だしさ」

「わたしはコーチではありませんよ」


 わたしは首を振ってそう言った。ウーロン茶を一口すすると、内藤に見つめられているのに気がついた。


「河相さんはサッカーに詳しいんですか?」

「まあ、どちらかというとね」

「どちらかというと、専門家だよね」西片さんが口を挟む。

「そんな大層なものではありませんよ」


 わたしは笑ってそう言った。「わたしはサッカー雑誌の記者なんだ」


 駆け出しだけど、とわたしはその後に付け足した。

 

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