魂のポタージュ

 朝陽がその姿を完全に現したのを見届けると、私はコウモリの死体に近寄り、腰を下ろした。


 手ですくい取るように死体を優しく持ち上げ、お腹に括り付けられている小さな鞄を外した。革製でウエストポーチのような形をしている。


 私と初めて工場に行ったときはこの中にタクシーチケットを入れていたようだが、今は魔法針が入っていた。よく見てみると、鞄の裏側、お腹と接する部分に小さな石が埋めこまれている。


 それを指で押さえながら、風が吹いているところをイメージしてみた。

 すると、私のイメージした通りに穏やかな風が吹いた。


 これは風の魔礫だ。

 おそらく、私を持ち上げたり、高速で飛行したりできたのもこれの力だったのだろう。


 私は死体を木の下に埋め、コウモリの鞄とユカの魂の結晶をポケットに隠し、丘を下りた。



 早朝だからだろうか、市街地にも人はまだほとんどいなかった。

 やらなければならないことがいくつかあったので、まずは歩いてカナデの家に戻ることにした。


 誰にもいないその家に帰って来ると、さっそくユカの部屋に行き、ポケットから魂の結晶を取り出した。そして、魂の結晶の形状が小さいカード型に変化する様子をイメージしてみた。

 すると魂の魔法が発動し、ユカの魂は実際にその通りの形に変化した。魂は加工できると霧の荒野でカナデが言っていたけど、こういう意味だったのだろうか。


 次に、部屋の中からガムテープを探し出し、魂のカードの上に貼った。それからユカのベッドの下に潜り込み、底板の隅の目立たない位置に、魂のカードがガムテープで完全に隠れるようにして、それを貼り付けた。


 少々残酷だけど、私が罰を受けている間、誰にも見つかるわけにはいかない。それに、この状態でユカに意識があるとは考えにくいと思う。


「しばらくの辛抱だから、ここで待っていてね」


 私は物言わぬガムテープに向かってそう告げた。


 コウモリの鞄は、タンスの奥に仕舞ってあるジーンズのポケットの中に入れておいた。

 見た目は珍妙な物入れだから、万が一見つかっても超常的な力を秘めた道具とは思われないだろう。



 その次にやらなければならないことは、ユカの身分証明書を探すことだ。自分が風の色の椎月ユカだと説明しなければならないから。


 ユカの机に学生時代の学生証が残されていたので、それを使うことにした。ユカは学校にはほとんど行けていないはずだし、もしかしたら中退したのかもしれない。


 まあそれはそれとして、学生証で生年月日を確認してみると、カナデより二歳年上であることが分かった。

 私は自分が十五歳だと思っていたけど、体の方は十七歳だったというわけだ。一瞬で二歳も老け込んでしまい、少し悲しくなった。



 スーパーマーケットの開店時刻になると、黒いヘアカラーを買いに行った。


 まあ、これは別にやらなくてもいいことなんだけど、元の黒髪にしておいた方がすぐにあの指名手配犯だと分かるだろうというだけのことだ。


 茶髪にしたときと同じように、風呂場で髪を黒色に染めた。

 鏡を見てみると、久しぶりに元の自分に戻ったような気分になった。



 ユカが書いたネット小説「雨の街から」も、念のためにもう一度読んでおこうと思った。

 しかし、どこから圧力が掛かったのか知らないが、小説は削除されていた。もしかしたら、反雨派の連中が見つけて騒ぎ立てたのかもしれない。


 残念だと思う反面、削除してもらった方が私にとって好都合なのも事実だ。

 私は諦めてノートパソコンの電源を落とした。



 やるべきことを一通りやり終えると、私はソファーに座って一息ついた。そして、今日はまだ朝食をとっていなかったということを思い出した。

 食欲は全然ないけど、何でもいいから口に入れておいた方がいいだろう。


 適当にキッチンを漁ってみると、インスタントのコーンポタージュがまだ残っているのを見つけた。粉末を溶かしてスープにするタイプのものだ。


 私が初めてカナデに料理を作ったとき、これも出したんだっけ。あれからまだ二週間も経っていないのに、ひどく懐かしく思える。


 食器棚からマグカップとスプーンを取り出し、コーンポタージュを作ってソファーに座った。

 一口飲むと、体が芯から温まった。それから、少しずつ、ゆっくりとその熱い液体を体内に流し込んでいった。


 飲み終わってからマグカップの底を見てみると、コーンポタージュの粉末がダマになって残っていた。


 その溶け残りをしばらくの間見つめた。

 まるで私みたいだなぁ、と思った。

 涙はもう枯れ果てていたから出なかった。


 やがて何かを諦め、溶け残りをスプーンですくって飲んだ。


 私は決心していた。

 自首したらどんな刑罰が科せられるか分からないけど、刑期を終えたらこの体を椎月ユカに返す、と。


 具体的には、ユカの魂を体に取り込み、私の魂と同化させる。二つに分かれていた魂は、一つの魂に戻る。私の意識はなくなり、ユカの魂は元の完全な形に修復される。

 要は異物である私がこの世から消滅し、全てが正常な状態に戻るということ。

 ユカは私のせいで前科がつくことになってしまうけど、なるべく普通の人生を送れるように最大限の努力はするつもりだ。


 そう、これでいい。これが最善の選択のはずなんだ……。


 そう自分に言い聞かせると、キッチンでマグカップとスプーンを洗い、片付けた。


 それから、簡単な手紙を書き、ユカの机の引き出しの中に入れておいた。私が消えてしまったら、もう何かを伝えることはできなくなってしまうから。


 今度こそやるべきことを全て終えたと思い、ベッドで横になって眠った。



 目が覚めると、窓の外はもう夜の景色になっていた。


 私はこれほどまでに疲れていたのだろうか。たしかに昨日はほとんど眠れないまま、夜中に家を出発したのだけれど。


 そろそろ小森さんに全てを話さなければならない。しかし、一体どこまで話すべきだろうか。


 とりあえず身支度を整え、カナデの家から出た。細かいことは歩きながら考えればいい。



 小森さんの家に着くと、いつものようにインターホンを押した。前回訪れたときのような緊張感はない。


 小森さんは私を招き入れ、私たちはダイニングの椅子に座った。


「ヒカリ、憑き物が落ちたような顔してるな」

「えっ、そうですか?」


 自分では気付かなかったけど、もうあらゆる負の感情が流されてどこかにいってしまったのかもしれない。


「ああ。まあそれはともかく、何があったか話してくれるんだよな?」

「……ええ」


 小森さんには、私が椎月ユカに体を返すという点を除いた全てを話した。私という自我が消滅することだけは、どうしても言えなかった。


 話が終わると私はふうっと息を吐き、お茶を啜った。小森さんはゲンナリとした顔をしている。


「……なんか、よく分からんな」

「やっぱり、そうですよね!」


 私は胸を撫で下ろした。


「なんで嬉しそうな顔してんだよ」

「いいんです、なんだか安心しました。小森さんはそういう感じでいいんです、ホント」

「お前、アタシのことをアホだと思ってるだろ? 一応先輩だぞコラ」

「そんなことないですってー」


 私は朗らかに微笑んだ。


 小森さんにはこちら側に来てほしくない。

 魔法だの魂だの、胡散臭い言葉が飛び交う異常な世界とは無関係でいてほしい。

 彼女は普通で真っ当で正常な世界の住人なのだ。


「とりあえず、私の本名は椎月ユカで、明日自首するということだけ分かってもらえればオーケーです」

「……そうか」


 小森さんは悲しそうな顔してくれた。


「小森さんのことなら心配しなくて大丈夫ですよ」

「え?」

「小森さんは私を家に泊めたり、色々と話を聞いたりしましたけど、尋問されてもちゃんと小森さんには迷惑が掛からないようにしますんで」

「バカ、お前は自分のことだけ心配してろ」

「……ありがとうございます」

「ま、本当は課長を通すのが筋なんだけどな」

「私は小森さんに頼まないと課長と話せないし、これ以上小森さんを巻き込む気はありませんよ」


 それに、課長は私が異物混入させたことを既に知っている。私が自首しても、ある程度は事情を察してくれるはずだ。


「あと、私から聞いた話は全て、誰にも話さないでください。小森さんが消されちゃうかもしれないんで」

「……マジ?」

「マジです」

「あー、聞かなきゃ良かった」

「だって、話してくれって言うから」

「そりゃそうだけどさ」

「ふふっ」

「はは……」


 その日、私は小森さんの家に泊めてもらい、最後だからこそいつもと同じような夜を過ごした。


 翌朝、小森さんが車で出勤するついでに、警察署の近くまで乗せてもらうことになった。


 私は助手席から朝の風景をぼんやりと眺めていたけど、車内には妙な空気が漂っていた。


 自首をして罪を償ったあとは、もう小森さんと会わないままユカに体を返すつもりでいる。もう一度会ってしまうと決心が鈍ってしまうような気がするから。


「このへんでいいか?」


 警察署の近くに着くと、小森さんは車を路肩に停めた。


「ええ、ありがとうございます」


 私は車を降りて、運転席の方へ周った。小森さんは車から降りず、運転席の窓を開けた。


「小森さん、今までお世話になりました」

「……ヒカリ」

「なんでしょう?」


 小森さんはいつになく真剣な表情をしていた。


「お前は大きな過ちを犯したのかもしれない」

「…………」

「でも、過ちを認めて、自ら罰を受けようとするのはなかなかできることじゃない。そこは誇りに思った方がいいぞ」

「……はい!」

「こんなときくらい、先輩らしいこと言わないとな」


 そう言って、ようやくニヤリと笑った。


「ありがとうございます!」


 私は深々と頭を下げた。


 本当に本当に、お世話になりました。


「じゃあな」

「さようなら、小森さん」


 お互いに笑顔を交わすと、小森さんは運転席の窓を閉め、走り去っていった。


 そのまま警察署に行こうと思ったら、背後からバイクのエンジン音が聞こえてきた。

 振り向くと、ヘルメットを被った誰かがバイクでこちらの方へ近づいてくるのが見えた。その人物は私の目の前の路肩で停止し、ヘルメットを脱いだ。


「おい、結原」

「あっ!」


 バイクに乗った人物は梶原さんだった。


「久しぶりだな」


 たしかに、梶原さんに面と向かって会うのは結構久しぶりな気がする。


「お久しぶりです。お元気でしたか?」

「ああ。そういえば、この前俺がメールで送ったサイトは役に立ったか?」

「……はい、とっても。本当にありがとうございました」


 私はペコリと頭を下げた。


「そうか。ところで、こんな朝っぱらにどこ行くんだ?」

「……私、自分の工場で異物混入させた件で、自首しようと思うんです」

「…………」


 私はきっと、困ったような笑みを浮かべていたと思う。

 梶原さんは険しい顔付きになり言葉を失っていたが、やがて口を開いた。


「何があったか知らんが、ピンチなのか? バイクで遠くの国まで乗せてってやろうか?」

「…………」


 うん?


「私は構いませんが……何ですかそれは? 愛の逃避行ですか?」

「すまん、今のは嘘だ」

「はぁ。梶原さんって、そういうことも言う人だったんですね」


 私は脱力してしまった。


「悪いが今工場がトラブってて、詳しく話聞いてる時間がないんだ。またすぐに会えるんだろ?」

「ええ、会えますよ。いつか、きっと……」

「じゃあまたそのときに。上手くやれよ」

「ええ、梶原さんもお仕事頑張ってください」


 梶原さんはコクリと頷くとヘルメットを被り、エンジンの音と共に去っていった。私はそんな彼に手を振った。


 あーあ。今生の別れなのに、なんか変な感じになっちゃった。


 でも、この距離感も私と梶原さんらしくて、微笑ましいなと思った。


 私が小森さんや梶原さんに会うことはもうないだろう。

 もし彼らがまた私と出会ったとしても、それはユカの人格を持った正真正銘の椎月ユカだ。私ではない。

 ユカの中に、私の記憶が残るかどうかは分からない。

 でも、もし残っていたらユカは彼らと仲良くなれるかもしれない。

 そうなったら、いいのにな……。


 少し感傷的になりすぎたと思い、頭を振った。


 まだ終わりじゃない、むしろ大変なのはここからなんだから。


 第四区警察署を見上げてみる。六階建てのなかなか立派な建物だ。


 さて、そろそろ行きますか。


 私は堂々と、その敷地内に足を踏み入れた。

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