第5章

真実

 翌日の夜明け前、私は草木の生い茂る丘にいた。風の色と霧の荒野の境界にある場所だ。


 一本だけ生えている木のそばに立ち、闇の中にうっすらと浮かぶ街の景色を眺めている。


 空は深い紺色に染まり、街灯が天から落ちてきた月のかけらのように瞬く。 


「綺麗だね」


 私は無意識のうちにそう呟いていた。


「そうでしょう」


 木の枝にぶら下がっているコウモリも同意した。


「毎日こんな綺麗なものを見ながら眠っているなんて、コウモリさんは贅沢だよ」

「じゃあアンタもそうしなさいよ」

「私はほら、夜行性じゃないし」

「そうね。アタシはそろそろ寝ないと夜更かしになっちゃうけど」

「夜更かしじゃなくて、朝更かし?」


 私はクスクス笑った。


 それから、私たちは少しの間黙った。

 できることなら、これからもずっと綺麗な景色を眺めたり、他愛もないお喋りをしたりしながら穏やかに生きていけたらいいなと思った。

 でも、それは叶わない夢だ。


「最後のピースは見つかった?」


 コウモリが口火を切る。


「うん」


 私はまだ、淡い光に包まれた街並みを眺めていた。風が頬を撫でていくのが心地良い。たまには早起きもいいもんだな、と能天気なことを思った。


「会社の先輩で梶原さんって人がいてさ。その人が機械とかネットとかに強くて、見つけてくれたんだ」


 私はお世話になった小森さんと梶原さんと課長の顔を思い浮かべた。


「私って、本当に色んな人に助けられて今ここに立っているんだ。私一人じゃきっと何もできなかったと思う」


 私は振り返って、コウモリを正面から見据えた。


「インターネットの小説投稿サイトに投稿されていた作品、『雨の街から』。作者はカナデの姉、椎月ユカ。それが最後のピースだよ」


 コウモリは一瞬黙った。


「小説? カナデの姉? それが異物混入事件と何の関係があるの?」


 私は下唇を少し噛んだ。

 ここまで言ってしまったら、もう進むしかない。


「問題はその小説の内容なんだけど、あらすじはこう。雨の街で食品異物混入事件が発生し、主人公の女の子がその原因を探すため、コウモリと一緒に風の色へ行く――」

「…………」

「ねぇ、どこかで聞いた話だと思わない?」


 私はコウモリを睨んだ。


「そうね。どっかで聞いたわね、そんな話」

「本文を読んでみても、なぜかこの小説のストーリーは私が体験した出来事と一致している。偶然という言葉では片付けられないほどに。まあ、主人公とコウモリが雨の街から出るために霧の中へ突っ込んでいくところまでしか書かれていないんだけどね」

「ふーん。それで? なんでカナデの姉があんたの体験談を小説にしてるの?」


 そう、それこそが最も重要な要素。

 しかし、私はそれを口にするのが恐ろしかった。本当にこんな突拍子もない話を信じていいのか、未だに分からずにいる。


 だけど、もう後戻りはできない。


「それを説明するには、二つのポイントを押さえなくちゃならないの」

「ほう」

「一つ目は、さっきも言った、この小説が未完であるということ。霧の中へ入るシーンから先は、投稿が止まっている」

「…………」

「そしてもう一つのポイントは……」


 私は息を呑んだ。足が震えそうになっているのを感じた。


「もう一つのポイントは、カナデがいた魔法研究所で行われていた『魂の移動実験』」

「魂の移動ですって?」

「そう。人間の魂、つまり意識や記憶を別の人間に移すの。とても信じられないことだけど、魔法研究所ではそういう実験が行われていた。そして、その実験で興味深い結果が出た……」

「……何?」

「それは、魂を移しても、強い想いや記憶だけは移らずに元の体に残留するということ」


 雨の街へ向かう途中の霧の荒野で、カナデから聞いた話だ。

 やっぱり、これは重要な意味を持っていたんだ。


「ふーん」


 コウモリは枝にぶら下がったまま、翼をパタパタさせた。


「それが何なの? なんか異物混入の話からどんどん離れてない? 結論を言ってよ、結論を」

「もう、分かっているくせに……」


 胸が苦しくなり、呼吸が荒くなってきた。


「アンタの口から言うのよ」

「私の体はユカの体で、私の魂はユカの残留思念! 霧の中へ入るまでの出来事は小説が元となった記憶であり、実際に起きた出来事ではなかった!」


 私は叫ぶようにその真実を口にした。


、異物混入事件など起きていなかった!」


 涙が零れそうになっているのをなんとか堪えた。


「……は?」


 コウモリはその小さな瞳を見開いた。


「いやいや、そんなの滅茶苦茶でしょ。現実味がなさすぎる」

「でも、そう考えると全ての辻褄が合うの。私が雨の街に帰ってきたとき、私が雨の街で育ったことや、数ヶ月前から異物混入事件が起きていたことはになっていた。そりゃそうだよね、それらは私の記憶の中でしか起きていないことなんだから」

「ちょっと待って」


 私の話を慌てて遮る。


「アンタは雨の街の景色や住民の顔は覚えているんでしょ? 仮に『雨の街から』に関する記憶が残留しても、小説という文字媒体だけじゃ視覚的な記憶は残らないじゃん」

「ユカは実際に雨の街に行ったことがあるとカナデが言っていた。そのとき住民にも会っているはず。同じ体である私が気付かれなかったのは、おそらくユカが行ったときから月日が経ち過ぎたのと、髪を染めたせい」


 あるいは、髪を染めさせられたか。


「今思えば、ユカの部屋にあった服のサイズが、下着まで私にピッタリなのも不思議だった。でもユカと同じ体なんだから、別に不思議でもなんでもなかったんだね」

「そんなの、ただの偶然よ」


 反論するコウモリを無視して私は続ける。


「整理すると、ユカは魂の移動実験の被験者となり、実験の結果、彼女の体には小説も含めた雨の街に関する記憶だけが残留した。実験後、彼女の体は意識を失ったままこの丘まで運ばれ、何らかの方法で目覚めさせられた。それが私。私は小説の内容を今までの記憶と誤認し、起きてもいない異物混入事件を解決しに風の色へ向かった――」


 私は、六年前に失った記憶をずっと追い求めてきた。

 自分が何者なのかということを知りたかった。

 大雨の夜にあの子と会ったのは夢だったんじゃないかと不安に思ったこともあった。


 けど、今となってはそんな全てが馬鹿馬鹿しい。


 六年前に記憶を失って雨の街に捨てられたということ、それ自体がユカの創作だったんだから!


「…………」

「ねぇコウモリさん、訊かないの?」

「何を?」

「そもそも、って」

「それは重要なことなの?」

「私もそれがすぐには分からなかった。でも今となっては、答えは一つしかない」

「…………」

「ねぇ、そうでしょう、コウモリさん? いや、椎月ユカ!!」


 そう叫ぶとコウモリの口角がグイッと上がった。


「大正解~」


 ここまで醜悪な笑顔を、私は今までに見たことがなかった。

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