悪臭

negipo

悪臭

 最初に反応するのは、同僚と談笑していた若い女性だ。先週末に友人宅で行われたホームパーティの話を中断して(スパークリングワインに凍らせたぶどうを沈めると薄まらずに冷えて良いらしい。今度妻と試してみたいと思う)くすくす笑いながら同僚の肩を肘で突いているのが見えた。僕の前に立っていたマネージャー然としたダークスーツの男性が軽く咳払いをしたので、もともと小さかった女性の声はずっとひそやかに、露骨な内容を示すようになる。ティーシャツ姿のエンジニア(たぶん)が顔の前で軽く手のひらを振って、その行動の無意味さに気づいたのか、おどおどした様子であたりを見渡した。視界の端に表示していたレポートを視線のジェスチャーで消して、僕は短いため息をついた。

 今日のオナラは昨日よりも臭かった。


 僕が設計をリードしたビィツは、ティンタン社の統合感覚インターフェイス、ヘイミンジュの最新機能だ。網膜投影機能を持ったコンタクトレンズによって視覚を操るイェン、超小型スピーカを耳内に設置して聴覚を操るアルドゥオ、電気的刺激によって味覚を操るコゥに続く、鳴り物入りで発売された嗅覚の操作インターフェースだ。

 バイオチップの集積密度がシリコンチップを超え、電子的に合成されて直接脳に送出される疑似感覚がヒューマンインターフェースにおける全盛期を迎えたとき、人類は十年単位でゆっくりと進行する著しい脳髄の萎縮という未曾有の流行病に見舞われた。発見者の名前を取って、それはイーヌオ病と呼ばれた。疑似感覚がその主要因だったと突き止められてからは、人間の感覚を擬似感覚で騙すことは世界的な条約で禁止された。

 友人が何人もそれに罹患した。

 学生時代、そのうちのひとりをよく見舞いに行っていた。木々を透かして短く陽光を見上げたあと、キャッチボールの続きのために振りかぶった彼の病院着が天光のようにまぶしくひらめいたのを僕は覚えている。「俺が俺でなくなるようだよ、李」と僕に笑いかけながら、彼は病人とは思えないスピードでまっすぐにその硬球を投げた。

 それから十五年、かつて『アナログ』だと揶揄されながらも外部機械による感覚インターフェース付与をほそぼそと続けていたティンタン社は、今やその分野における最大手企業となっていた。

 ビィツの機構は非常に複雑だ。同一の分子を同一量生成しても、個人の嗅覚はそれを同じレベルの同じものと捉えることができない。頭部に埋め込まれたヘイミンジュのモジュールで脳活性をマッピングしながら、ユーザーが命令した『特定の香り』を感じるためのパーソナライズされた量や組成の分子生成を行うことになる。生成を担当するのは鼻腔内に存在する細菌だ。それに対する生化学的な刺激によって、分子生成オーケストレーションが行われる。要するにこの技術のコアは、ビィツと脳を連結させている電子的なブリッジと、細菌の発現系を操作するリアルタイムなエピジェネティクスの両輪にあるということになる。

 そして、我々は人類がこれまで遭遇したことのない問題に直面する。

『仕事に向かうエレベーターに乗ると、必ずオナラの臭いがする』

 それがビィツを利用しているひとびとの一部におとといから起きているバグだ。


 ティンタン社本社ビルの九十六階では、フロアのすべてを技術局が占めていた。エレベーターを降りるひとびとは全員サイエンティストかエンジニアだ。エレベーターから大地へと降り立って、頭のモードが仕事へと切り替わった途端にその臭いは消え去った。僕ははるかな旅から帰ってきた宇宙飛行士のように大きく深呼吸をする。仄かに設定された、あおあおとしたミントの香りが華やかに頭の隅々まで駆け巡り、陰鬱な気分が少し晴れた。そのかがやかしい成果に自然と笑みが浮かんだとき、肩を叩かれた。「よう」と気安く言った彼に、僕は「ミハイル」と応えた。

「何かあったのか? いい笑顔だ、李」

 僕は少し気恥ずかしくなって、真顔になる。ミハイルは疲れのにじんだ口元を綻ばせて、「どうした、笑っていればいいのに」と言った。「ああ……」と、僕は気のない感じで答えた。

「今日は残念だったな、ミハイル」

「まあ、この際だ。仕方ないよ。それにしてもきみのスーツ姿を久々に見た。意外と似合うな」

 僕は吹き出した。

「お前……毎年それを言ってるな」

「はは。佐々木はどうしてた」

「変わりないよ」

「だろうな。あー、このあと少し雑談する時間はあるか?」

 肩をすくめて「第一技術部統括様より、はるかに暇」と言いながら、僕はミハイルに少し同情した。何しろ彼は現在も続くインシデントに対する直接の責任者なのだ。誘われて壁際のコーヒーベンダーへたどり着き、二人でそのまずい液体を啜った。コゥを立ち上げると微かにピリッとするのを嫌って、慣れている人間ほど起動するタイミングを選ぶのだ。

「うちのプロジェクトはとくに進展がないよ。来る途中で調査レポートを見たが、何も分かってないようだ」

「や、俺も定期報告は見た。どちらかと言うと、きみの悲観的な意見を聞きたくなって」

「僕の?」

 こと、という頼りない音と共に紙コップが置かれた。スタンドテーブルの上で頬杖をつくと「学部のときから思っているけれど、きみの個人的な意見はごくまれに参考になるんだ。経験上」と、彼は言った。

 僕は「光栄だな……」と苦笑した。

「二千二十六年のトゥール社の事件は知っているか? ミハイル」

「クラウドコンピューティングサービス最大手のサーバーがすべて吹っ飛んだやつか? 長期の調査でも、結局根本的な原因まではたどり着かなかった」

「そうだ。ビィツで起きてることも同じだと思う。クラウドを管理する人工知能エージェントだろうが鼻腔内の細菌だろうが、膨大な意志を統合して実用化することには困難が伴う。ブラックボックスに入ったたくさんのブラックボックスだ」

 僕は短く息を吸って、「今からでも、すべてを停止すべきだと思っているよ」と言った。

「ビィツが結合している神経ネットワーク周辺のあそびは、プロジェクト初期の見立てよりもはるかに少なかった。停止するとなると、再結合は無理だろう。多くの顧客を失う」

「それが、役員会が頭を押さえつけている理由?」

「たしかに役員会のプレッシャーは激しい」

 ふ、とミハイルは子どものように笑い、コーヒーをひとくち飲んで「そうだな……」とつぶやいた。イェンの網膜投影であやしくゆれる、緑の瞳をそっと指で差した。

「ダンテは神曲で天国のひとびとについてさまざまな描写をしている。目はよろこびにかがやき、口は溢れ出す信仰にきらめく。一方で」

 口を指し示していた人差し指は、とん、とテーブルを叩いた。

「鼻の描写はない。鼻は人間の器官として重要じゃない。エレベータでオナラの臭いがするのは、些細なことだ」

「『些細なこと』で、会社が死ぬぞ」

 僕が指で作ったダブルクオートを目で追って、「かもな」とミハイルは言った。

「でも俺たちが死ぬわけじゃない。気楽に行こう」と、笑顔を大きくした。

「どうだか」と、僕はつられて笑みを浮かべた。


「外部センサを配布しましょう」と誰かが言って、ほかの誰かがそれを鼻で笑った。憮然とした声が「でも実際にオナラがされてないとは限らないじゃないですか。とにかく調査では何も出てこないわけだし」と反論した。「我々の会社でおとといから毎日、出社のたびにオナラをしている人間がいると本気で思ってるのか?」と誰かが混ぜっ返して、「オナラよりも、固形のやつを探したほうが早そうだな」と別の誰かが言うと爆笑が起こった。

 記憶を辿る限り、インターフェース設計の世界的権威が集まる統合感覚プロジェクトの定期ミーティングでウンコの話が出たのは初めてだった。オナラだのウンコだのの話は、確かに笑いを誘う。カスタマーサービスのレポートによれば、ティンタンに寄せられているクレームの量も僕の勝手な想定よりはるかに少なかった。問題のバカバカしさが、真面目な反応を産まなかったのかもしれない。

『重要じゃない』というミハイルの言葉を、僕は思い出した。

 しかし、ビィツをハンドリングできていないということは根本的な問題だ。放置すれば致死的な分子が細菌に生成されうると僕は考えているし、ミハイルの視座からは、もっと大きな危機が見えていてもおかしくないと感じていた。

 ミハイルはそういう奴だ。キツいときでもずっと笑っている。

 ビィツはいま、春の雨のような湿った香りを僕に与えている。傘を叩く水滴の、とんとんという幽かな音が聞こえるかのようだ。業務時間中、ヘイミンジュには一定のロックが掛かっているが、僕は自分の権限を最大限利用して実装にバックドアを仕掛けてある。続く議論をアルドゥオで遮断してチャイコフスキーをかけた。統合感覚プロジェクトの面々の声は無音になり、短いため息が僕の口をついて出た。

「エレベーター、エレベーター……」

 口の中で小さくつぶやきながら、人が密集したエレベーターにおける外的要因の短いリストをもう一度眺める。気圧、気温、湿度、二酸化炭素をはじめとする空気組成の変化。同僚が既に行った調査をざっと見直したあと、追試のためにゼロから脳と感覚器、菌の集合を電子的に組み直して、新しく建てた計算インスタンスでシミュレーションを回し直した。同じ結果。少し外的要因パラメーターを組み直す。同じ結果。手で短いスクリプトを添えて、パラメーターの組み合わせを自動的にパターン化する。

 同じ結果。

 口元を手でこすりながら「現象の主因は細菌に対する直接の外的要因ではない」と、レポートの結論をなぞった。僕はチャットでミハイルを呼び出す。彼の視野の広さが持つ価値は、第一技術部の統括になったあとも著しい。

『議論する時間ある?』

『ない。忙しい』

『いつでもいいから、朝のエレベータで、他にはない何か、とくべつなことが起きていないかを考えてほしい。気圧・気温・湿度・空気組成以外で』

 推測に反して、すぐに答えは帰ってくる。

『人がいっぱいいるね』

『いる』

『あとは』

 インジケーターがタイピング……と、彼が何らかの方法でデバイスを操作しているのを示している。

『仕事が始まるな。朝だし』

 僕は脱力しながら『当たり前だろう』と書いて、視線操作でチャットウィンドウを追いやった。ふー、と短く息をついて顔をあげると、部長が僕を見ていた。「失礼?」と言いながらアルドゥオのはたらきを戻すと「合意できるか、李」と、彼は渋い顔で聞いた。

 皆の前にある電子ボードには『ユーザーのパーミッションを取り、上昇中のエレベータという状況下を検出した際、ビィツの活性を抑制するように外部から操作する』と結論が書かれていた。僕はため息をつきながら「ああ、ゴーです」と言って、「通ればね」と小さな声でつぶやいた。自動オーケストレーションとルールベースの制御の組み合わせは最悪だ。無限にルールが増え、管理できなくなる。緊急時とは言え役員会を通るはずが無かった。


 黒いスーツに軽くブラシをかけながら、「お墓参り、どうだった?」とミチは聞いた。

「ミハイルも他のみんなも忙しくてね、僕ひとりだった」

「そう」

 クローゼットへとしまわれるそれを椅子に腰掛けて見送っていると、「お疲れさま」と背を向けたまま彼女が言った。次に袖を通すのは、きっとまた一年後だろう。ダイニングにはいつもより手間のかかった食事が用意されていて、ミチはそれ以上何も聞かなかった。だから僕たちは当たり障りのない仕事の話をすることになる。

「それで、その提案は通ったの?」

「まさか」と、僕はフリッターの刺さったフォークを細かく上下に振る。「うちの役員会は理性的なんだ、きわめて。そこがいくつかある救いのひとつ」と続けた。白ワインのボトルを傾けて、彼女の空いたグラスを埋める。ミチは微笑んで「ありがと」とお礼を言った。テーブルにふたつだけ置かれた本物のろうそくめいてゆらぐ照明が、彼女の秀でた額に前髪の微妙な影を落としていた。この炎がかがやきはじめたとき、どのような光が火をつけたのかが気になって、それはすぐに僕を高い壁で囲い込んだ。そういうふうに集中がビィツの奇妙な活性に対する探索へと奪われてまもなく、ミチの柔らかな手のひらがそっと僕を思考の渦からすくい上げた。

 顔を上げると、「めっ」とミチはやさしく言い、触っていた僕の手を軽く叩いた。「はは」と僕は軽く笑って、発泡したミネラルウォーターを口にすると、ことりと音を立てて分厚いリネンの上にそれを戻した。

「テーブルについているときは」とミチが言って『食事と会話に集中』と、唱和した。くすくすと二人分の笑い声がダイニングに広がった。

「僕の失敗はミチの職場では話題になってる?」

「どちらかというと笑い話ね」と彼女は言った。「真剣に怒っている人は一人もいないと思う。あまりにバカバカしいもの。臭いも昨日に比べたら、大したことなかった」

「大したことない?」

 僕は少し笑って、

「ドリアン畑に作られた肥溜めの中心で、死にかけの老人の排泄物を頭からかぶったような臭いだと思うけど」

「まさか!」

 ミチは驚きの表情を浮かべて言った。

「天使みたいな赤ちゃんが、ボリショイ劇場の真ん中でオムツを交換されて微笑んでいるような臭いだわ」

「ミチは修辞が意外と苦手みたいだね」

「あなたこそ」

 僕たちはじっと見つめ合った。ささやかな秋風が開け放たれた窓から吹き込むと、照明がゆれて、ジジッと短い音で鳴った気がした。

「……そう言えば私たち、エレベーターで臭いの程度について話したわ。話し合ってみると、けっこう違った」

「ん」

 僕は口に入れたトマトリゾットを吹き出しそうになった。口周りを拭いてる間に考えをまとめると、はじめはわずかだった興奮の波が、大きく湧き上がっていった。

「ひょっとすると活性には個人間で大きな違いがあるのかもしれない、気づかなかったな。同じエレベーターということは、同じ環境のはずなのに……」

 ふうん、とサチは考え込む。

「違う人間なのだから、たとえば鼻の中で同じ香りが同じだけつくられても、感じ方が変わってしまうんじゃない?」

「その通り、なんだけどね」

 すうっと後頭部が冷える感じがして、僕は水を胸のあたりに抱えながら炎を見つめた。いくつか仮説があった。ビィツとヘイミンジュのコネクションログに特筆すべきスパイクがなかったから、僕たちは最初からビィツ側の、特に細菌の活性に直接の重点を置いていたが――。

「なにか著しい関連はないかな。臭いの程度に対する、人間的特性、性格――」

「みんないい人よ」

「あるいは、状況、感情」

「……ああ」

 ミチは僕のほうをまっすぐに見ながら「もっとも顔をしかめていたひとは、ここ半年で一番ひどいクレームを担当していた」とつぶやいた。


「やっぱり」と僕は言った。

 プロダクションモデルの実装をそのまま使ったシミュレータの外的要因を固定して、僕は社内ライブラリから感情モデルをできる限り準備した。意味空間の三次元グリッド上に離散的に可視化されたその結果のなかで、一つの感情を中心とした一部だけが爆発したばかりの超新星のように青白く光っていた。

 しかし、それが意味することは……。

 九十六階にある誰もいないラボの端っこで、物理キーボードを叩いてその中心にある感情モデルを拡大し、そのラベルを読み上げたとき、「李」と僕を呼ぶ声がした。

「お疲れ、意外だな」とミハイルは微笑みを浮かべて言った。彼が持ってきたコーヒーは音を立てずに僕のデスクへと置かれた。

「奥さんに怒られないのか? 朝は墓参り、夜はデバッグ――」

「ミハイル、お前は」

 僕が彼を見上げた勢いに驚いて、ミハイルは自分のコーヒーをこぼしそうになった。「……悪い」と僕が謝って下を向くと、彼は笑顔を大きくしたと分かる、気づかいをこめた声で「きみらしくないな」と言った。

 僕は自分の視界を埋めている資料を操作して、ミハイルに共有した。

「希死念慮」と、それは読み上げられた。

「死にたいと思う、気持ちなんだ」と僕が言うと、ミハイルは彼にしか見えない中空にある資料から、僕に視線を移した。

「仕事に行くとき、それを天職とは思っていないひとや、そこまででなくとも、なにか小さな問題があると感じているひと……そういったひとびとの死にたいという感情がもっともふくらむのは、オフィスへと登るエレベーターの中だ」と僕は言った。

 ミハイルは黙ってコーヒーを口にする。ちら、と彼が注視点を動かすと、大きく開いた窓ぎわに彼から共有されたらしい資料が現れた。僕はそれを無視して、彼に向かって話し続けた。

「細菌の活性以外のあらゆる経路ログが存在しなかったから、僕たちは最初から細菌への直接的要因を探していた。だけど、間違っていた。特定の感情をヘイミンジュが受けたとき、動的にビィツがオナラの臭いを活性化させていた。おそらくログがすべてマスクされていて、誰もそれに気づけなかったんだ。……ミハイル」

 僕がミハイルに呼びかけても、彼はずっと窓を見つめていた。

「お前が気づかないはずはない。すべてをモニターしているし、注意深い。それに……『仕事』というキーワードを、お前は――」

 彼が僕を遮り、ついに窓を指差したので、僕はやっとその資料へと目を向けた。単純なグラフだった。二本のバー。片方は著しく高く、片方は著しく低い。低いほうのバーのてっぺんには、クリスマスツリーみたいに星が手書きで追加されていた。

「希死念慮に基づいた動的な悪臭の有無による自殺者数」と、タイトルを僕は読み上げた。

「ユーザーのパーミッションなしでやったのか」

「そうだ。概ね五パーセントのユーザーに公開された。限定公開の仕組みに乗ったから、ティンタン社の社員は全員対象だけどね」

 ミハイルは僕のデスクに腰掛けた。

「役員会が承認するはずがない。こんなおぞましいリスクを取る理由がない」

「役員会は実はこの件について何も知らないんだ。もっと上」

「取締役会」

 上、上、上。ミハイルは人差し指を天へと何度か差した。僕がぼそりと「犯罪だ」と言うと、彼はふっと小さく笑った。

「神の被造物がみずから死のうと図る、罪の大きさに比べたら大したことはない」

「それが理由なのか?」

 ミハイルは口をつぐんだ。僕が静かな湖面のように穏やかな声に隠したはずの、はるかな怒りの大きさにきっと気づいたのだった。

「それがお前の目的なのか? ユーザーの意志を無視し、行動を大きく変えさせる。その設計の目的が、自殺を何が何でも防止するということなのか?」

「そうだ」

「許せないよ」

 僕はその『希死念慮』というラベルを見つめた。「許せない」ともう一度言った。

 ミハイルはしばらく黙ってから、「きみにこのことを話したのは理由がある」と言ってデスクから立ち上がった。潰された紙コップがゴミ箱に投げ捨てられて、乾いた音を立てた。

「死への願いを矮小化するために悪臭を使うというアイディアは実に目覚ましい効果を上げた。だがいくらなんでもオナラはひどいと思ってるんだ。最適化の道を探るために、異なる領域の専門家が必要だと感じてる。話し合えば、きみはきっと協力してくれると思ったんだ。きみに譲れないことがあるのなら、妥協点を見つけたい」

「妥協点なんてないよ、ミハイル」

 自分の声がまとっている地獄の底から湧いてくる蒸気のような調子に少し驚きながら、「お前は傲慢すぎる」と続けた。

「じゃあどうするべきだと思う?」

「イーヌオ病の自殺対策か?」

「そうだ。疑似感覚禁止条約からこっち、自殺者は増え続けている」

「世代はもう交代しつつあるだろう」

「俺たちの世代は罹患比率のスパイクのど真ん中だ。友人が死に絶えてもいいと言いたいのか?」

「……だったら言うが」

 僕は立ち上がる。

「僕は、お前がやった感覚の操作による意志決定のゆるやかな自動化は、根本的には疑似感覚が孕んでいた問題をなぞっていると思う」

「……つまり?」

「イーヌオ病と同じ結果を産むということだ。脳が萎縮する」

「根拠がない。きみは悲観的すぎるよ」

「疑似感覚は用いればかならず求めるものを手に入れることができた。人間が求めるちからそのものを奪ったんだ。だから禁止された。人間は意志なしでは生きられない」

 僕は右手で空中をつまんだ。「ミハイル、それを奪ったら、人間は死ぬんだ」

 ミハイルは長々とため息をついた。ふううう、というそれに乱された部屋の空気が静まる前に、「李」と彼は僕の名前を呼んだ。

「これは、佐々木が求めていることだ。彼がみずから命を絶ったあと、俺たちは――」

 彼の言葉と、その姿は、どろどろの銅のように真っ赤に溶けて消えた。気づくと顔を上腕で覆った彼の上に僕は馬乗りになって、「佐々木のことを!」と大声で叫んでいた。「知ったように、言いやがって」と、激しい息切れの合間に、掠れた声で続けた。石のように握り込まれていた右手がひどく傷んで、それでミハイルを殴ったのだと分かった。僕は立ち上がって、彼から離れた。ふ、ふ、という、何かに追われている動物のような息を抑えるために、目蓋を閉じて、永遠に音もなく瞬き続けるはるかな光を思い浮かべようとした。

「お前だけが、あいつのことを分かっているような顔をするなよ」と、ミハイルが床に横たわったまま言った。目を開くと、彼は痛みに顔を歪めながらまっすぐに僕を見ていて、視線が絡んだ。その電子のひとつぶのような瞬間で、けして彼が諦めることはないのだと分かった。

 ただ、悲しくて、僕は「う」と呻いて自分のシャツの胸のあたりを掴んだ。ひどい悪臭がした。

 僕はそのままふらつく脚を自分のデスクに向けると、物理キーボードを操作した。ことことという静かな打鍵音だけがしばらくラボに響いていた。ミハイルは短い悲鳴を上げながらようやく上半身を起こすと、「お前もバックドアを仕込んでいるんだろう」と言った。ぼたぼたと垂れた鼻血が彼のシャツを点々と染めていた。彼がそれを言い終えたときと、僕がその小さな実装を終えたときは同時だった。僕はビィツを停止させるスクリプト片を定期アップデートに混ぜ込んで、申請するためのキーに指をかけた。理論上は、それで二度とビィツは既存のヘイミンジュ上で起動できなくなるはずだった。

「自分の顔を見てみろ」とミハイルは言った。

「俺が傲慢だと言うなら、きみはどうなんだ」と言った。

 僕は自分の顔が映っていることを期待して、窓に映る自分の姿を見ようとした。しかし僕の顔はそこには映っていなかった。そこにはただぼんやりと亡霊のように立ち尽くしている男がひとりいるだけだった。その顔は、ちょうど照明の加減で黒く塗りつぶされているように見えた。

 傲慢ゆえに顔を潰された、名前のないひとびとのようだと思った。

「佐々木」と僕は救いを求めるように彼の名前を呼んだ。自分の意志が持つ耐えきれないほどの重さがことりとキーを押して、それで全てが終わった。涙で前がほとんど見えなくなり、僕は子どもみたいに泣きじゃくった。あまりにも長いあいだ激しく泣きすぎて頭が痛くなったころ、誰かが呼んだ気がして顔を上げた。窓に映るグラフに描かれた星が鮮やかにかがやいて、そのまなざしを僕に向けていた。

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