第99話 ヒットメーカー

「社長」戸口のところで声がした。「社長!」

「ん? あ!」まだその呼ばれ方に慣れていないのでなかなか反応できない。「何?」

「キマイラドリンクの社長がお見えです」

「え? キマイラの? 柏社長が?」社長が直々来るとは何ごとだろう。アポイントもなしに。何か問題でもあったんだろうか。「なに。どんな様子?」

「どんな……様子、ですか?」聞いてから、先週アシスタントで入ったばかりの子に、そんな微妙なニュアンスを聞いてもわかるわけがないことに気づく。「ああ、いや、いいんだ。すぐ行く。会議室にお通しして」


 この数年、キマイラドリンクのキャンペーンを一手に引き受けるようになって、あわてて構えた事務所が年々拡張して、以前はデザイナーの仲間と2人で小さなマンションの1室を借りてのんびり細々とやっていたのが、いまや社員は20人に増え、とうとう会議室まで持つようになった。人はサクセスストーリーと言うが、とてもとても。内情はそんなものではない。


「柏社長、これはどうも。わざわざお越しいただいて」

「いやいや、お忙しいところすんませんな。長居はしませんから」

「まあ、そう、おっしゃらず」よかった。特に怒っているとか緊急の問題とかいうことではなさそうだ。「しかし社長直々お出ましと言うことは何か大きなお話でしょうか」

「大きな話?」キマイラドリンクの社長が一瞬遠くを見る目つきになって、またおれを見る。「大きいと言えなくもないが、どちらかというと雑談です」


 はあ? 雑談? こっちはおたくの次のキャンペーンのプレゼンで追いまくられているのに?


「雑談、いいっすねえ」自分でも呆れてしまうのだが、おれはこういう、心にもないことを言えるようになってしまった。「仕事とは関係なく?」

 その時アシスタントがノックをして、お盆にキマイラのペットボトルとグラスを乗せて入ってきた。すると柏社長は思いがけない早さで言った。

「ああそれはいりません。ちょっと飲み過ぎなのでね。普通に入れたお茶があればお願いします」

 きょとんとしているアシスタントに、あわてておれがフォローする。

「熱いお茶、入れてきて。水野におれがそう言ってたって言えばわかるから」


 熱いお茶を一口すすって柏社長が言う。

「先日ね、聞いてしまったんですよ」

「は」

「部下に連れられましてね、おいしいカクテルを飲ませる変わった店があるからって」

「は」イヤな予感がした。「へえ、いいですねえ」

「火星の石を飾ってる」

「ああ。MARS STONE」予感的中。「わたしも時々いきます」

「はい」柏社長は微妙な表情でおれを見つめた。「その時、いらっしゃいました」

「え゛?」すごくイヤな予感。「い、いつ? 声をかけてくださればよかったのに」

「ちょうどマスター相手にすごく話しておられたので」

 まずいよまずいよ。うわあ。まずいよ。それはまずいよ。

「そもそもあのプレゼンは通すつもりがなかったって」

 あいたたたー! 新しいカクテル「王様の耳」を飲んだときだ。キマイラドリンクの製品のネーミングの裏話を洗いざらいしゃべったのを聞かれてしまったんだ!


 そもそもあのプレゼンは落ちるためにやったプレゼンだった。あの時おれたちはもう、この会社を、というかこの仕事自体を辞めようと思っていたんだ。だから普段なら出さないような、めちゃくちゃなネーミングをたった1案だけ持っていった。ロゴもデザイン以前のラフ段階のものを用意し、ごく普通の書体を使って「水」の肩に二乗の「2」をつけて、ビタミンCの「C」で〈水2C〉というだけの色気も何もないものだった。それは落ちるためのプレゼンだったのだ。柏社長だって最初は「すいつーしー?」なんて読んだ。それでよかったんだ。読めやしないということで落っことしてくれればよかったんだ。正解は「みずみずしい」というのがその読み方だったんだが。


「ええとつまりそれは〈水2C〉のプレゼンの話で」

「全部聞きました。辞めるおつもりだったんですね」

「はあ」聞かれたんなら仕方がない。「あの時は。でも採用していただいたおかげで、あんな大ヒット商品にかかわらせていただいて……」


 そう。採用されたのも驚きだったが、〈水2C〉が大ヒット商品になってしまったのはもっと驚きだった。確かに機能もよかったし味もよかったが、ヒットするほどの個性はなかった。ましてや「みずみずしい」というネーミングで大ヒットするとは全く予想していなかった。あれ以来おれの肩書きは「みずみずしい感性のコピーライター」とか何とか、もう顔から火が出そうなことになっている。才能もセンスも枯れきったからこそやめようと思ってプレゼンしたのに、みずみずしい、だなんて。


「わたしも驚きでしたよ」キマイラドリンクの社長が言う。「『輝く笑顔に〈水2C〉』『一口飲んだら〈水2C〉』『乾期が来ても〈水2C〉』……。どのキャンペーンも大当たりでした。あなたのおかげです。」

「いやいや。製品がいいんですよ」

「しかし今日はそういう褒め合いをしにきたわけではありません」来た。来たぞ。やっぱりクレームだ。クレームなんだ。「わたしもね、同じなんです」

「え?」クレームではないらしい。「同じ、とは?」

「〈水2C〉を採用した時にはね、こけるつもりだったんです」

「へっ?」

「もう会社をやめるつもりだったんです。同じなんですよ」


 呆気にとられてあいづちをうちそこなった。キマイラドリンクの社長は特に気にもせず、淡々と続けた。

「それでね。ひとつお願いがあるんです」

「はい」口封じだろうか。ああいうことを外でべらべらしゃべるなとか。「何でしょう」

「次の新製品なんですがね」

「は、はい」

「やっぱり終わりにしたいんです」

「はい?」

「だからあなたも狙わないでいただきたい。〈水2C〉の線も狙わず、ヒット商品も狙わず、落ちそうなネーミングも狙わず」

「むずかしいですね」

「むずかしいです。けれど会社をやめる覚悟を持って、通りそうもないネーミングをたったひとつ持ってきてください。ひどければ採用します」

「本気ですか」

「本気です。これが最後の新製品です」


 少し間があって、おれたちは同時に笑った。みずみずしい。うん。おれはともかく、この親父はみずみずしい感覚を持っているよ。


(「みずみずしい」ordered by オネエ-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

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