第63話 BACH CODE

「とにかく聞いてみてくれ。聞いて自分の耳で判断してくれ」


 友人に勧められてシャコンヌを聴く。それまでシャコンヌという言葉も知らなかった。一般に人はどのくらいこの言葉を知っているのだろう? 興味が湧いたのでネット上であれこれ調べてみる。シャコンヌというのは音楽の1つのスタイルを示す言葉だとわかる。友人に勧められてぼくが聴いているのは、シャコンヌの中でも有名な(ぼくは知らなかったけれど有名な)ヨハン・セバスチャン・バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番ニ短調」の第5楽章だということがわかる。最初の4楽章はどれも4分以内の曲なのに、最終楽章のシャコンヌだけが13分もある。


「表面上言っていることはどんどん変わっているが、彼らなりの主張があるようだ」


 シャコンヌを定義づけようとすればそもそも中南米が起源でドイツ・イタリアで完成された舞曲、ということになるらしい。なんとなくバロック音楽というのはがちがちに純ヨーロッパ産の芸術だという思い込みがあったので、シャコンヌは中南米が起源だと知って軽く驚くことになる。スペイン植民地時代のメキシコあたりが元になっているためか「スペインが起源」と記したものも多い。でもスペインが起源というのと中南米が起源というのではずいぶんイメージが違う。トウキョウ名物というのとオガサワラ名物というのよりもイメージのギャップは大きい。英国文化の代表のように思われている紅茶が元を正せば中国文化をインド経由で持ち帰ったものだと初めて知った時の驚きが近いかもしれない。


「しかしもうこれ以上維持できないというのが植民星政府の判断だ。先住民の要求がつかめない」


 シャコンヌを繰り返し聴く。いままでにどこかで耳にしたことがあったかも知れないが、はっきりとは覚えていない。でもおよそ現代的な意味での「中南米が起源のダンスミュージック」ではない。いま「中南米が起源のダンスミュージック」と聞くとルンバやサルサを思い浮かべてしまう。シャコンヌはそういう音楽とは全然違う。もっとずっと内省的で緩やかで宮廷的な音楽だ。この曲で踊る? 踊るにしても上品に気取った足運びをするしかないだろう。貴族社会に属する音楽家だったドイツ人のバッハは、この大がかりな曲にシャコンヌと名付けて、どんなスペイン植民地を想像していたのだろうか。海の向こうのダンスステップを妄想するうち止まらなくなってこの長い長い舞曲になったのか。


「このままだと我々は1世紀にわたる開拓地を失うことになる。現地からのレポートに耳を傾けてくれ」


 シャコンヌを聴きながら、18世紀ヨーロッパ人の頭の中のメキシコを想像する。それはあまりに回りくどい方法だが、いま我々の置かれた立場にとても近いようにも思われる。肝心なのは「なぜ当時のヨーロッパ人はそのように解釈したのか」ということだ。なぜメキシコの実像とかけ離れた像を結んだのだろう。そのギャップは何を生みだしたのだろう。植民星でのトラブルを総括したレポートはいわばシャコンヌだ。様々な観測と憶測が積み重ねられているが、注意深く耳をすませばそこには一つの主題(テーマ)が鳴り響いているはずだ。


「PS.前のメールにあった『植民地時代のヨーロッパ白人になるな』というのはどういう意味だ?」


 固定された低音部の主題が繰り返されるのがシャコンヌの本来の形式だという。しかしバッハの曲にその固定された低音部はない。無伴奏ヴァイオリン曲だから固定低音部を省略したのか。あるいは、とぼくは考える。バッハのように妄想する。バッハは固定低音部を省略することで、妄想するしかない遥かなるメキシコをあえて空白にして提示したのではなかろうか。想像せよ。想像して聞き取れ、と。様々な形で変奏される表面上の表現の底で変わらず提示されているものを聞き取れ、と。時間はかかるかもしれないが、表面上ころころ変わる先住民の要求の底に通底する、彼らの一貫した意志が必ずそこにあるはずだ。このままでは我々は無理解による愚行を再現することになってしまう。空白の固定低音部。我々が聞き取らねばならないのはそれだ。


(「シャコンヌ」ordered by カウチ犬-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

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