超短編集
みり
十分間
眼球に異物が触れる奇妙な感触がして、私は反射でギュッと目を思い切り瞑った。
「あー…」
なんとも間抜けな声を出しながら洗面台の鏡を覗きこむ。そこに映る、目の下に黒いマスカラインクをべったりつけた、これまた間抜けな下着一枚の私の姿。 失敗。 少し苛立って、横に置いたティッシュを数枚毟るように取り、雑に目の下を擦る。
スマートフォンの画面に表示される時刻は六時十五分。 集合七時。 目的地まで電車で三十分、家から駅まで十分。 乗り換えを考えるとプラス五分。
遅刻だ。 頭の中でシミュレーションを終えると同時に考えるのをやめた。
まぁ、いいか。早々に諦めた私はメッセージアプリで「遅れる」と素っ気ない文を送り、新しく取ったティッシュを水で濡らして、今度は丁寧に目の下を拭った。 急ぐからマスカラだって失敗するのだ。あいつは今更遅刻なんて怒らない。
もう一度ファンデーションとマスカラを塗り直して、今度は強く目を瞑らないように気をつけながら髪を整え、丸めたタイツに脚を通す。
まだ濡れたインクがまつ毛の上にある、少し重たい不快な感覚。タイツが素肌を覆っていく布地の感触。
今日の「私」が作られていく。
あぁ、なんて気色悪い。
あいつは数ヶ月前まで毎日同じ制服を着て、顔を突き合わせてたような奴だ。きっと今日も、安いファストファッションの店のTシャツとジーンズで待っているに違いない。何も変わらない。愛しい恋人なんかじゃなく、ただの友人、悪友。お互い何も気にしない。
それなのに、あいつを置き去りに、私は変わっていく。変わってしまった。 寝不足の顔を剥き出しのまま、指定ジャージのポケットに手を突っ込んで馬鹿みたいに笑いかけていた私はもういない。 綺麗に顔を整えて、かわいい洋服で着飾らないと会うことすらできない。
自分を良く見せたいんじゃない。
かわいいと思ってほしいんじゃない。
義務感。強迫観念。矛盾するような確固たる自分の意志。 もう、私は私でいられないのだ。
洋服を着終え、マスカラが乾いたのを確認し、口紅を塗る。はみ出したところをマスカラインクで黒く汚れたティッシュで拭う。
「私」が出来上がっていく。
ティッシュを咥えながら時間を確認する。 六時二十五分。 通知欄には「了解」という二文字だけ、いつも通りの素っ気ない返事。
私は少し微笑んで、インクの苦味がするティッシュを口から離し、丸めてゴミ箱に投げ入れた。
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