14:26歳 社長賞

 うちの会社には、毎月『業務改善提案書』を提出する決まりがある。私が管理するチームの提案書に目を通すのも私の仕事のひとつだ。

 すでに二回提案書を見ているが「トイレの電気を消そう」とか「大きな声であいさつをする」などと言った提案がほとんどだった。

 だが三回目の提案書提出で、ナナはこれまでと違う内容の提案書を出してきた。きっとかなり時間をかけて書いたのだろう。おそらく先日の私の挑発に応えたものだ。

 それは三年前、私がジョブローテーションでここに来たときナナがつぶやいていたものだった。その内容は今の私が見ても充分説得力があるものだった。三年前ならば机上の空論と言われたかもしれない。だが今ならば、充分に実現できる可能性があるように思える。しかし残念ながら企画書の形式としては及第点には至らない。

 私は悩んだ挙句、ナナの提案書に手を加えることにした。手を加えたことを知ったらきっとナナはいい顔をしないだろう。だがこの提案が埋もれてしまうことの方が大きな損失になると思った。

 提案を本社に送付してから数日後、管理部の三浦課長から電話がかかってきた。

「ご無沙汰しています」

「うん、久しぶり。新しい環境にはもう慣れた?」

「はい。何とか。現場の方たちにも良くしてもらっています」

「そう、よかった。それで、森内さんのところから出た提案書を見ていたんだけど……塩原ナナさんの提案、これ、本当に塩原さんが書いたもの?」

 私はドキリとした。さすがは元上司ということだろうか。私が手を加えたことなんて簡単に見破ってしまったようだ。それでも私は「塩原さんの提案で間違いありません」とはっきりと言う。

「そう? 私はてっきり森内さんの提案なのかと思ったんだけど」

「いえ、塩原さんです。ただ、いい提案でしたが企画書としては分かりづらい点があったので、少し補足や手直しはしました」

「そう……それなら、連名にしたら?」

「企画を一緒に考えたのなら連盟にするべきでしょうが、私は添削をしただけなので……。必要なら、森内さんの原案も添付しますけど」

「いいわ。それには及ばない。一応確認したかっただけだから。そう、現場にもこんなことを考えてくれる人がいるのね」

「はい」

 電話を切り私はホッと息を付いた。三浦課長の目に留まったのならばナナの提案が取り上げられる可能性が高いということだろう。

 ナナの提案が実現すれば現場の効率もかなり上がるはずだ。何よりもナナにとって大きな自信になるだろう。

 だがそんな私の目論見は予想外の形で覆されることになった。なんとナナの提案が社長賞を取ってしまったのだ。いや、それ自体は非常にうれしいことだ。だが社長賞を取るとはさすがに予想していなかった。そのため私が添削した提案書をナナが目にすることになってしまったのだ。

 そして案の定、ナナは目を吊り上げて私のところにやってきた。

「これ、あんただろう」

 怒っているからか丁寧語を使うことすら忘れているようだ。

「添削をしたことを言っているんですか?」

 私は冷静さを装って答える。

「上が納得するようにちょっと修正をしただけですよ」

「こんなこと頼んでないだろう。アタシはこんな規模のデカいことは考えてなかった。これはあんたの提案だろう」

「部下の提案を自分の手柄にするつもりはありません。それに、言葉は直しましたが、すべて塩原さんが言っていたことですよ」

 これは嘘ではない。三年前、ナナが言っていたことを企画書の形に起こしただけだ。

「とにかくアタシが書いたものじゃない。これは受け取れない」

 そう言うとナナは社長賞の副賞として与えられた金一封を私のデスクに置いた。

「これはあなたのアイデアです。堂々と受け取ってください」

「受け取らない」

 どうしてだろう。最近はナナと顔を合わせるとこんな風に口論してばかりのような気がする。私はただナナと普通に話をしたいだけなのに……。そのときふとひとつのアイデアが頭に浮かんだ。

「じゃあ、今夜、このお金で夕食をおごってよ」

 笑顔を浮かべて同級生だった頃のような口調でナナに言う。心臓がバクバクと鳴って張り裂けそうだった。「冗談じゃない」そう言われることも覚悟していた。だがナナは、渋々ではあったが私の提案を受け入れてくれた。


 その夜、ナナを連れて行ったのは少し高級なレストランだ。以前、同僚がデートで訪れていい雰囲気だと言っていた。金一封の三万円を二人で使い切るにはこれくらいのお店の方がいいはずだ。というのは言い訳で、仮初でもいいから少しだけナナとデート気分を味わってみたかった。それにうるさい居酒屋よりも、こうした雰囲気のお店の方が口論になりにくいだろうと思ったからだ。落ち着いてナナと話がしたかった。

 さすがにコースメニューでは予算をオーバーしそうだったので、おすすめの料理とワインをボトルでオーダーする。

 慣れない店の雰囲気にナナは終始戸惑っているようで、それが妙にかわいく感じてしまう。

「ナナはなんでいつも怒ってるの?」

 と私が訊ねると

「怒ってないよ」

 とナナはそっぽを向く。

「目も合わせてくれないじゃない」

「別に、そんなことないだろう」

 そう言ってそっぽを向くナナに苛立ちながら、私はワインをビールのようにあおる。

「おい、そんなに飲んで大丈夫なのか?」

「平気よ。ナナは飲まないの?」

「こういう高級な酒は口に合わないんだ」

 そう言うとナナはもそもそと料理を口に運ぶ。お酒の力を借りれば少しだけ昔のように話せるかもしれない。それが余計に私のお酒を飲むペースを速めていく。

「それよりアタシなんかと飲んでていいのか? ソレ、相手がいるんだろう?」

 ナナはそう言うと私の左手を見た。自分でもすっかり忘れていたリングが光っている。

「これはただの男避けよ。いちいち断るのも面倒でしょう?」

 そう返事をしながら、私は顔がにやけるのを押さえられなかった。ナナが私のリングを気にしてくれていたのだ。これまでそんな素振りを見せたこともないのに。少しは私のことを気に掛けてくれているということなのだろうか。

「私より、ナナは誰かいないの?」

「んな暇ねーよ」

 そう言ってナナはグラスに少し残ったワインを一気に飲むと顔をしかめた。

「ねえ、ナナはどうして私のことセイラって呼ばないの?」

「は? なんだよ、いきなり」

「昔はセイラって呼んでたでしょう?」

「お前だって、会社じゃ塩原さんって呼んでるじゃないか」

「そうだけど……」

「なんだよ、酔うと面倒臭いな」

 ナナは眉を寄せて私を見る。どんな表情でも私を見てくれる。それは目を逸らされるよりもずっといい。

 オーダーした料理を食べ終えワインも空になると、ナナは「さて、帰るぞ」と言って立ち上がった。

 私はまだナナに聞きたいことがある。いや、聞きたいことはまだ何一つ聞けていない。

 テーブルを去ろうとするナナを引き留めようと立ち上がったとき、私は大きくふらついた。ナナが慌てて私を抱きとめる。

「おい、大丈夫かよ」

「大丈夫、まだ、大丈夫だよ」

 私は体勢を立て直そうとするがどうにも足元がフラフラする。

 ナナはワインを二杯ほどしか飲んでいない。残りをすべて私が呑んだのだから、この状況も仕方ないのかもしれない。そもそも私はそんなにお酒が強いわけではない。

「しょうがないな。つかまれ、行くぞ」

 私はナナの肩に体を預けながらレストランを後にした。

 レストランを出てタクシーを拾うため道路を見る。

「おい、一人で帰れるのか?」

「大丈夫、まだ、頭はしっかりしてる……」

「でも、足はフラフラじゃねーか」

「タクシーは座れる……」

 ナナは「仕方ねえな」と言いながら、私を抱えたまま道路脇で手を挙げてタクシーを止めた。そしてタクシーに一緒に乗り込む。

「ねえナナ、どうして連絡くれなかったの?」

 ナナの肩に頭を預けながら私は聞く。だがナナは答えてはくれない。

「ねえナナ、そんなに私のことが嫌いなの?」

「……別に、嫌いじゃねーよ……」

「ねえナナ……」

「あー、もう酔っ払いは黙って寝てろ」

 ナナはそう言うと窓の外に視線を移して黙ってしまう。そこからは何を聞いても答えてはくれなかった。

 そうしてナナは私を部屋まで送り届けて帰って行った。

 私はふらつく足でベッドルームに行く。シャワーを浴びるのも億劫だ。私はもたつく手でシャツのボタンに手を掛ける。するとフワリと先ほどまで私を抱えていたナナの香りが漂うような気がした。

 ベッドサイドに目をやると、そこには高校時代にナナと二人で写した写真がある。ずっと片づけられないまま色褪せている写真。

 私はベッドに倒れ込んだ。体を丸めるとかすかに残っているナナの香りをより強く感じられるようだった。

 顔を合わせれば口論になり私の顔をまともに見てもくれない。尋ねたことに答えてくれなくなった。そんなナナを見ていると、苛立ちや悲しさに襲われる。

 私を見てくれない、私とちゃんと話してくれないナナが嫌いだ。

 嫌いなのに私はナナのことが好きなのだと、どうしようもなく好きなのだと思い知らされる。

 その夜、私ははじめてナナを思いながら、高ぶった体を自分で慰めた。

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