こんなにも嫌いな女を好きな理由(ワケ)。
悠生ゆう
序:26歳 本当にムカつくのに
私のベッドに我が物顔で寝転がっている女がいる。
その名を塩原ナナという。
ナナは高校の同級生であり休職中の部下でもある。そんなナナがなぜ我が家のベッドにいるかといえば私が招いたからだ。
ナナは会社からの帰り道、奇跡的な確率でマンホールに落下。そしてこれまた奇跡的な確率で一命をとりとめた。
こう言ってしまうととてもお気楽に聞こえてしまうが、それほど気楽な状況ではなかった。医師は落ちたときに咄嗟に何かに捕まって衝撃を和らげたとか、深さが比較的浅かったとか、落ち方が良かったからか致命的な傷は負わなかったとか言っていた。
さらにナナが落ちたのは人通りの少ない道のマンホールの中だ。かなり出血もあったようなので、あと少し発見が遅れたら本当に命が危なかったかもしれない。
さて、そんな奇跡の生還を果たしたナナを我が家に招いたのは、退院しても一人では暮らせないだろうと思ったからだ。
どんな落ち方をしたのか分からないが、大きな怪我は左半身に集中しており、右手、右足は自由に動かせる。肋骨は骨折していたが背骨に大きな損傷はなかった。回復も順調で予想よりも早く退院することができた。それでも傷が完治したわけではない。
ナナの強い希望で松葉杖を使っていたが、退院時に医師からは車いすを勧められていた。そんな体で一人暮らしの家に帰っても生活に困難を極めるだろう。それにナナには家族がおらず、天涯孤独の身の上だ。世話を頼める人もいない。それが分かっていたから私は我が家で暮らすことを提案した。
ナナは自由になる右手でテレビのリモコンを操作して、チャンネルを次々と変えながら「テレビも飽きたな」なんてつぶやいている。
ちなみにナナが来てから私はベッドの横に布団を敷いて寝ている。まだ怪我が治らないナナと二人で寝るには、シングルベッドは狭すぎる。それに床に敷いた布団よりもベッドの方がナナは動きやすい。だからこれは当然の処置だ。しかし家主が疲れて帰ってきたとき、悠々と寝転がっているナナの姿を見ると、どうしても苛立ってしまう。
ひと言文句でも言ってやろうかと思ったとき、ナナが「セイラ、おかえり。何突っ立ってるんだ?」と私を見上げ言った。
「ただいま……」
「ん? ああ、そうだ。今日ちょっとキッチン使ったぞ。もうちょっと出来るかと思ったんだけどマイチだった。それで良かったら食べていいぞ」
ナナに言われて私はキッチンを覗く。ご飯が炊けている。冷蔵庫の中には不細工な玉子焼きと乱暴に盛り付けられたサラダが入っていた。それを見て思わず頬が緩んでしまった。
不細工で質素な料理をテーブルに並べる。
「いただきます」
料理はお世辞にもおいしいとは言えなかったが、ナナが普段の何倍もの時間をかけて一所懸命に作ったのだと思うとうれしくなる。
同時にモヤモヤとした不安が胸の奥から湧きだしてきた。
ナナはもうかなり動けるようになっている。もう私の家に住まなくても生活ができるかもしれない。それでもまだナナがこの家を出て行かないのは、ナナが借りていたアパートを解約してしまったからだ。入院が長期化することは分かっていたので、入院してしばらくしたときナナに頼まれて部屋を解約している。部屋の中にあった少ない荷物は、ナナが十七歳まで暮らしていた施設に一時保管してもらった。それらの荷物も今はこの部屋に運び入れている。
つまりひとりで生活ができるようになったとしても、ナナは私の家以外に住む場所はない。
それでもナナにできることがひとつずつ増えていくと、それがこの家を出て行くための準備をしているように感じてしまうのだ。ナナにとって体が回復していくのは喜ばしいことだと分かっているのに、素直によろこぶことができない自分が嫌だった。
そんなことを考えてしまうのは上司や同級生という関係以上に、私がナナのことを好きだからだ。できればこれからもずっとナナと一緒にいたいと思っている。けれどナナがどう思っているのか、確信が持てずにいた。
「ありがとう。セイラ、あいしてる」
という言葉を聞いたのは、病院のベッドでナナが目を覚ましたときだ。麻酔が残っていたのか怪我のためか、ナナはかなり朦朧としていたが確かにそう言ったように感じた。
ナナのことがずっと好きだったから、その言葉がとてもうれしかった。けれど私は自分の耳を疑った。ナナは私のことなんて好きではないと思っていたからだ。むしろ嫌われているのではないかと思っていた。
私はナナに好きだと告げていない。仕事中、ナナが私にそんな素振りを見せたこともない。それなのになぜ突然「あいしてる」と言ったのかが分からなかった。
私は毎日、仕事を終えてからナナが入院する病院に通った。どんなに疲れていても、どんなに仕事が忙しくても、ナナの世話をするために病院に行った。
ナナが心配だったということもある。それ以上に朦朧とした中で言ってくれた言葉の真意を確かめたかった。
しかし毎日顔を合わせていても、あの日以降、ナナがその言葉を発してくれることはなかった。私に対する態度にも変化が無いように見える。いや、仕事中よりは少しだけ高校時代の関係に戻れたような感覚はあった。
ただナナの口から発せられる言葉は、「完全看護だから毎日来なくていいのに」とか「忙しいんじゃないのか? 無理して来なくてもいいぞ」というものばかりだった。
その上、かわいい看護師さんに清拭してもらうとき、ナナが妙にうれしそうにしているように見えて腹が立った。私が清拭をすると言ったら、心底嫌そうな顔をしたし実際に清拭をすると痛いとか弱いとか強すぎるとか文句ばかり言っていた。プロの看護師さんのように上手にはできないけれど、もう少し言い方があるんじゃないかと思う。
仮に私のことが好きなのなら、体を見られて恥ずかしがるとか、触れられて喜ぶとか、ちょっといいムードになるとか、そんなことがあってもいいのではないだろうか。だから余計に腹が立ってちょっと乱暴な清拭になってしまうのだ。
しかししばらく経ったとき、ナナはもう一度「あいしてる」と言ってくれた。体を起こしたいと言われ、それを手伝っているとき、どさくさ紛れで私を抱き寄せて、耳元ではっきりと「あいしてる」と言った。私の頬にキスもしてくれた。
それは絶対に聞き間違いではない。うれしさのあまり私はナナが怪我人だということも忘れてギュッと抱きしめてしまった。ナナが「ギブアップ、痛い、ゴメン」と言うまでナナを抱きしめていた。
「付き合おう」なんて言われていないけれど、ずっと好きだった人から「あいしてる」と言われて、私はすっかり恋人気分になっていた。
けれど、ナナと一緒に暮らすようになってその気持ちが揺らいでいた。一緒に暮らしてかなりの時間が経っているけれど、恋人らしいことが全くないからだ。
恋人らしいことが何なのかといえば正直よく分からない。
まだ不自由な体で夕食を作ってくれていたのも、恋人らしいといえばそうなのかもしれない。私の部屋でナナがリラックスして過ごしているのも、恋人らしいといえなくもない。
別に毎日甘い言葉をささやき合い、愛を伝え合いたいというのではない。けれど何かが違う気がするのだ。
高校の同級生、会社の後輩、上司と立場を変えながら私とナナは長い時間近くにいた。それまでが長すぎたから今の新しい関係がしっくりしないのだろうか。私自身もナナにどう接していいのかいまだによく分からないでいる。
それにナナの態度を見ていると、私がナナのことを好きだと確信しているように見えるのだ。私の気持ちを確信していてからかったり、はぐらかしたり、怒らせたりする。
私が「あいしてる」と言われても尚、ナナの気持ちをつかみきれないでいるのに、ナナは余裕の態度を見せている。それがムカつく。
これを解決する方法が簡単だということは知っている。ナナに私のことをどう思っているのか聞けばいい。これから先どうしようと思っているのかを聞けばいい。ただそれだけのことだ。
ナナは自分からあれこれと話をする方ではない。けれど聞いたことにはきちんと答えてくれる。私はそれを知っている。
だからこそ私はナナに聞くことができずに、こうして悶々と悩んでしまう。私がナナに質問をすれば、それが私の望まない回答であったとしてもナナははっきりと答えてくれる。望まない答えが返ってくることが怖くて私はそれを先送りにしている。
だから私はナナのそんなところが嫌いだ。私が聞かなくても大切なことはナナから伝えてほしい。けれどナナはそうしてくれない。私はナナの言葉が聞きたくていつでも不安なのに、ナナはそんなことも気にせず飄々としている。そんなところがムカつくのだ。
ナナが作ってくれた夕食を食べ終えて食器を片付けると、私は再びベッドルームを覗いた。
ナナは相変わらずベッドの上で大の字にになってテレビを見ている。私の顔を見るとナナは少し考えるような素振りを見せた。そして、「ちょっと体を起こすの手伝ってくれ」という。
「もう一人でも起きられるでしょう?」
「まあ、そう言わずに頼むよ」
ナナに言われてため息を付きつつも私はナナを介助する。こうしてナナを甘やかしてしまうからいけないのだろう。もしかしたらナナは、私のことを便利な召使いくらいに思っているのかもしれない。
こんなに悶々とするのならばナナを家に呼ばない方が良かった。
生活が不便であればヘルパーさんを雇うなどの手段もあっただろう。それを選択肢から排除したのは私の欲のためだ。ナナの方から私と一緒に住みたいと言われたわけではない。
ナナは私のことを好きではないのかもしれない。私の想いを知って私を利用しているだけなのかもしれない。そう思うと無性に腹が立って、悲しくて、思わずナナの体を乱暴に扱ってしまった。
「イタタタタタタタタ」
ナナは絶叫する。
「ご、ゴメン、大丈夫?」
「イタ……」
ナナは顔を歪めて痛みを堪えている。
「どうしよう、すごく痛む?」
「ん、ちょっと、鎮痛剤……」
「わかった、鎮痛剤ってどこにあったっけ?」
「そこ……」
「どこ?」
「だからそこだって」
そう言うとナナは右手で私の左胸を鷲掴みにして、私が自分の胸に注意を向けた途端、絶妙なソフトタッチに切り替える。
ゾクゾクゾクッと背筋を電流が走る。
「あー、セイラのオッパイを触ると痛みが和らぐなぁ。いい鎮痛剤があってヨカッタ、ヨカッタ」
ナナは棒読みの台詞を言いながら私の胸を揉み続ける。私は力いっぱいナナの頭を叩いた。
「イタッ」
今度は同情なんてしない。痛がっていればいい。
これが恋人に対する愛情を込めた行為なら、私だってやぶさかでない。けれどナナは私のことをからかうためにやっているのだ。だから私はどうしていいのか分からなくなってしまう。
私はナナのことが好きだ。その肌に触れたいし触れてもらいたい。けれどナナは中途半端に私を焚きつけるくせに、体が痛いと言ってすぐに放棄する。私だけその気にさせられて宙ぶらりんになった気持ちをどうしろというのだろうか。
「我慢できなかったら、一人エッチしてもいいよ。見ていてあげるから」
ナナは私の心情を見透かしたように片方の口角を上げて言う。本当にこの女はムカつく。
「バカじゃないの! そんなことしない。本当にムカつく。一体何なのよ!」
私は力いっぱい怒鳴った。すると次の瞬間、ナナがやさしい表情を浮かべた。
「大きい声出して少しすっきりした? 会社で嫌なことでもあった? 仕事から帰ってから、ずっと眉間にシワよってたよ。それで、何か面倒臭いこと悶々と考えてたんだろ?」
すぐに私のことを見透かしてしまうナナが嫌いだ。
ナナは右手を広げて「おいで」と言った。私はナナに抱きつくいてその肩に顔をうずめた。するとナナは私の頭をやさしく撫でる。こうして急にやさしくするところもずるいと思う。
「何があった?」
「上司にボロクソに言われた。それでも頑張ってるのに内藤くんから、だから女は頼りにならないみたいなこと言われた」
「そっか、そんなの無視しちゃえばいいのに。全部受け止めようとするからダメなんだよ」
「無視できるはずないでしょう」
「とりあえずアタシが仕事に復帰したら、内藤のことは蹴り倒してやるから安心しろ」
「内藤くん、今はナナの上司になってるよ」
「マジか。じゃあ、こっそり内藤のロッカーのカギ穴にガムでも詰めておくか」
私がクスクスと笑うとナナはやさしい声で「あんまりがんばり過ぎるなよ」と言った。
ナナの言葉に私の心の中で固まっていた何かがゆっくりと解けていくのを感じた。
すると頭を撫でていたナナの手がゆっくりと移動する。スルスルと服の中に手を入れ、私の耳や首筋にキスをしながらブラジャーのホックを器用に外す。
「せっかくだから、一人エッチも手伝ってあげよう」
「バカッ」
私はナナを突き飛ばし、今度こそ痛がるナナを無視して浴室に向かった。
私の家に来てから、なぜだかナナは私に一人エッチをさせたがる。
マンホールに落ちて意識を失っているときに幽体離脱をしたという。そのとき私が一人エッチをしているところを見たと言っていた。けれどそんなバカげた話を信じられるはずがない。
そもそも目の前に好きな人がいるのに、どうして一人エッチをしなくちゃいけないんだろう。ナナはそういうプレイが好きなの? でも私にそんな趣味はない。
本当にいい加減にしてほしい。だから私はこの女が嫌いなんだ。やさしくしたり、からかったりして、簡単に私のことを振り回して惑わせる。ムカつくし、苛立つし、本当に大嫌いだ。
それなのに、どうしようもなくナナのことが好きだのだ。
私がナナとはじめて顔を合わせたのは高校一年の頃だった。
あのときも私はナナに対して苛立ちを感じていた。はじめて顔を合わせたときから本当にムカつく女だった。
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