第3話 夜の香り
第3話 1
腹が減った。
近ごろ、弟の薫が夜のバイトを始めたため、夕食の時間が遅い。夜のバイトと言っても、ホスト的なやつではない。ただのアパレルショップの店員だが、昼から閉店までの時間帯なのだ。
「ああ、腹減ったなぁ。かーくん、早く帰ってこないかなぁ」
コタツにハマりながら猛はぼやく。
しかし、では自分が食事を作ろうとはしない。可愛い弟のために家事を分担してやろうとはしないのである。猛はそういうやつだ。
いくら食費を蘭さんが出してくれるとは言え、持ち家の固定資産税まで払わせるわけにはいかない。光熱費やスマホ代だって、タダではないのだ。
探偵業が開店休業状態だから、いたしかたなくアルバイトを始めた弟の負担を軽くしてくれようともしない、このきわめつきの横着さ!
ハッ! いかん。いかん。なんか、僕が前に出すぎた。この話は猛の視点で書こうと決めたんだった。かーくんは消えます。ドロンッ!
気をとりなおして、コタツでテレビを見ながら、一人、退屈をもてあます猛。
蘭は二階で執筆中だ。そもそも美しすぎるこの同居人は、朝日ともに眠りにつき、もっとも太陽が高い位置にある正午に起きてくる。いや、正午を二時間ほどすぎていることも多い。なので、食事の時間が相対的に遅いのだ。今ごろは仕事に没頭して、夢中でパソコンのキーボードを叩いていることだろう。
時刻は二十一時を半分ほどすぎている。
いつもなら、そろそろ、ガラリと玄関の引戸があいて、「ただいま〜」と能天気な薫の声が聞こえてくるころなのだが……。
十分がすぎた。
声は聞こえない。
チッチッチと壁にかけた時計の針が小刻みに時を刻む。
十五分。
まだ帰らない。
チッチッチと時計の音が耳につく。
二十分……。
帰らない。
これは、残業の日か?
ごくまれにだが、残業で三十分くらいは遅れて帰ってくることがある。
三十分。
カラリと
「おかえり! かーくん」
猛がふりかえると、愛猫のミャーコが襖に前足をかけて立っていた。侮蔑的な目で猛を見て、だまってコタツに入る。
「…………」
かーくんが帰ってこない!
おれの晩飯はどうなったんだ?
なんで帰ってこないんだ? おれの晩飯!
時計は十時を十分もすぎた。
もう我慢の限界だった。
遅い。遅すぎる。
猛は祖父のお古のブルゾンに腕をとおすと、財布と家の鍵とケータイをひっつかみ、外へとびだした。
*
自転車をとばして、やってきたのは市外のショッピングモール。薫のバイト先のショップがなかにある。
しかし閉店後のこの時間、すでにショッピングモールは暗い。出入り口が閉まって客は入れなくなっていた。
猛は従業員出入り口の前まで行って、薫のスマートフォンにメールを送る。
いまだに自分だけガラケーなのは不満だが、「何言ってんの? 必殺破壊神のくせに、十万もするスマホ、持たせらんないよ!」と言われれば、いたしかたない。
それにしても腹が減った。
今ごろ晩飯はどこをウロついてるのだろうか?
こんなに遅いと兄が心配するということもわからないのか? まったく、いくつになっても手がかかる。
どこか近くから、香ばしい香りがしていた。
夜の空気にとけこむように漂うかぐわしい香りは、まちがいなく焼肉だ。
猛の腹の虫が盛大に、ぐうッと鳴った。
空腹時にこの匂いは酷である。
『かーくん。遅いぞ。何やってんだ? 従業員出入り口の前で待ってるからな?』
イライラすると帯電量が増加するので、クラッシュさせないかビクビクしながら、猛はメールを送った。
これが壊れると、今ここで晩飯との連絡手段が断たれる。行き違いになんてなったら、なおさら晩飯にありつける時間が遅くなってしまう。この時代遅れの電子機器がゆいいつの猛の命綱だ。
すると、まもなく、従業員出入り口から薫が現れた。
わが弟ながら、ばあちゃんにそっくりだ。可愛いなぁ。おれの焼肉——と、猛は胸の内でニヤける。
「わッ! 猛! なんで、こんなところにいるんだよ?」
「かーくんが遅いからだろ! メール見たのか?」
「見てない」
「何時だと思ってるんだ」
「十時すぎだろ? 今日は忙しかったんだよ〜! 明日からのセールの準備があるのにさ。ずっと帰ってくれないお客さんがいて」
「兄ちゃん、心配したぞ。かーくんがさらわれたかと思ったろ?」
「さらわれるわけないだろ! いくつだと思ってんの?」
「いいから、うしろ乗れ。腹が減った」
「へへへ。らくちん。らくちん」
まったく、気楽なものだ。
のんきな晩飯をうしろに乗せて、猛は自転車をこぐ。昼間なら二人乗りで捕まったかもしれないが、時間が遅いので人通りも少ないし、暗闇がささいな交通違反を
まっすぐ進んでいくと、あの焼肉の匂いが強くなった。
「このへんに焼肉屋があるんだな?」
「ないよ。けど、よく焼肉の匂いがするんだよねぇ。よっぽど焼肉好きな人が、このへんにいるんだろうねぇ」
「うらやましいな。うちも今夜、焼肉にしないか?」
「ムリ! 焼肉するほど肉の買い置きがない」
焼肉じゃないのか……せっかく迎えに来てやったのに、おれの焼肉……。
未練が思わず、心地よい香りの出所を探してしまう。たしかに、道路の両脇に建ちならんでいるのは背の高いテナントビルやマンションなどで、焼肉屋らしきものはない。イタリア料理の店はあったが、イタリアンで焼肉のメニューはないだろう。
(あれ? 変だな)
街灯が大きな桜を照らしている。三分咲きの桜は病院の敷地のなかに植樹されている。その桜の前をよぎったとき、匂いはもっとも強く感じられた。
病院で焼肉?
そんな不謹慎なことをする医者か患者がいるのだろうか?
不審に思いながら自転車をこいでいく。広いので歩道を走っていた。夜間だから歩道を歩いている歩行者はほとんどいないのだ。
匂いの源をたどるためにスピードを落として、病院の敷地の前を通りすぎる。歩道に面した表玄関は閉まっていた。しかし、看板は見えた。
(産婦人科から焼肉の匂いねぇ? 赤ん坊の誕生祝いかな?)
ぐうぐうと腹が不服の叫びをあげる。
猛の思考はそこで止まった。
あとはもう食い物をむさぼるまで人間であることを放棄した。
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