第2話 その四 2

 *



 北区についたのは八時ごろだ。うちが夕食の時間、遅いもんだから、腹ペコだ。


 なぜか、待ち合わせの指定場所があの児童公園だった。

 戸川先生はさきに来て待っていた。


「この時間なら、もう工藤さんのお母さんも帰宅されていると思います。こっちです」と言って、先生は歩きだす。


 蘭さんが言いだした。

「僕はここで待ってますよ」


 汚い子が出てこないか、見張っているつもりなんだろうな。


 一瞬、考えて、猛は返した。

「かーくん。蘭といろよ。いいな?」


 いいな? 蘭を守れよ——と。

 そういう意味だよね?


 汚い子が出没する夜の公園に、蘭さんと二人か……なかなか厳しいな。

 蘭さんは絶対、はしゃぐだろう。

 オバケ出るかもしれない恐怖に耐えながら、はしゃぐ蘭さんをなだめなければならないのか。


「……わかった」


 猛は戸川先生と歩いていった。


 ん? その行くさきが……アレ? 目の前のマンションのなかに入っていくんだけど?

 まさか、あそこが工藤さんの自宅?

 ということは——


 ぼおっと考えていたときだ。ドン、と何かが背中にぶつかってくる。はて?


 ふりかえると、蘭さんだった。

 蘭さんは両手で口元を覆って、ふるふる、ふるえている。


「蘭さん?」


 たずねると、蘭さんは片方の手をそおっと伸ばして、それ指さした。

 蘭さんの白くて長い指。

 きれいにみがいた桜色の爪。

 そのさきをながめると……。


 ああっ! ウソでしょ? いつのまに?

 ブランコに、女の子が、す……すわってるぅー!


 出たー! 汚い子!

 ウワサどおりに、汚い。

 茶渋で染めたようなブラウスに、泥まみれの赤いスカート。

 どこからどう見ても、パーフェクトな汚い子だ。


 ふるえていた蘭さんは、あまりの怖さに泣きだして——いや、なんか違うぞ。おえつのように聞こえたのは、しのび笑いだ!


 くくく、アハハと笑いながら、蘭さんは汚い子に向かって走りだそうとする。


「ぎゃあああー! 蘭さん、何やってんの? ダメ、ダメ。ノーサンキュー! そっち行っちゃダメー!」


 混乱して自分でも何言ってんだかわからない。


 僕はかろうじて蘭さんの腕をつかまえると、必死で足止めした。もう綱引きの要領だよね。両足をひらき、腰をしっかり落として、ふんばる。


「止めないで! かーくん。武士には負けるとわかってても行かねばならないときがある!」

「負けるとわかってるなら行かないの! 第一、蘭さん、武士じゃないでしょ? お公家さんでしょ? さわられると死ぬんだから、ダメったらダメー!」

「せめて写真をとらせて! もっと近くでェ」


 と、そのときだ。

 こっちは蘭さんをひきとめるのに必死だっていうのに、なんと、女の子が立ちあがったじゃないか。


 なんだ? 今度はなんだ?

 僕もう泣くよ?


 女の子は不気味に立ちつくしている。

 すうっと、その顔が上を見た。あのマンションのほうだ。


 すると、どこからか悲鳴が聞こえてくる。

 かん高い女の子の泣き声。


 最初、汚い子がわめきだしたのかと思って、僕はゾォッとした。が、なにやら遠くから響いてくるような気も?


 どこからか、ガラッと大きな音がした。

 見れば、あの部屋だ。

 カーテンのすきまから誰かがのぞいていた、あの部屋の窓が、大きくあけはなされている。


 そして、そこに女の子が立ち、今まさにベランダの柵を乗りこえようとしている!

 あ、危ない!


 僕は心配のあまり、ベランダの女の子に目が釘づけになった。まだ、蘭さんの腕にはぶらさがったままだ。


「あれ? 手招きしてますよ。かーくん。汚い子が僕を呼んでいるぅー!」


 浮かれた蘭さんの声で、ハッと我に返り、今度はそっちを見る。

 うん。手招きしてるね。蘭さん、霊にまで好かれてるね——って、感心してる場合じゃない。


「違うから! 呼んでるの、蘭さんじゃないから! ほら、よく見てよ。ベランダの子に手招き……手招きして……」


 えっ? これって、どういうことだ?

 汚い子が呼んでるのは、あのベランダから身投げしようとしてる女の子か?


 ベランダの高さは四階。

 落ちたら確実に無事じゃすまない。

 ハラハラしながら、汚い子とベランダを交互に見てると、一瞬、目をそらしたあいだに、女の子が二人になった。


 え? 分裂したのか?

 いや、まさか。そんなわけないか。部屋のなかに、もう一人いたんだな。


 もう一人が何やらわめきながら、必死に飛びおりようとする子を止めている。


 だけど、女の子の細腕だ。とても引き止められそうにないふんいきだ。マズイぞ。ほんとに、あのままじゃ落ちちゃう!


「あッ!」と、とつぜん、蘭さんが叫んだ。

「えッ? 何?」


 あわてて汚い子をふりかえる。

 むっ? こっちは——消えてるじゃないか?

 汚い子、どこ行った?


 ちょんのま、ぼうぜんとしてると、ベランダでは新たな動きが。


 僕が見あげたときには、ベランダに颯爽さっそうと猛がかけてくるところだった。飛びおりようとする子の腰をつかんで、自分をクッションがわりにして、背後に倒れこむ。


 よかった! まにあった!

 さっすが、猛ぅー!

 カッコイイ……。


 僕はまたまた、自分の兄に見とれてしまうのであった。

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