第四話 絶望と希望

 暗黒神・蠍王ディレナークとの戦いをうたった「始まりの詩」は吟遊詩人たちが今でも語り継ぎ、ガルフバーンの民であれば誰もが知っている。ラガーンダイも魔の棲む岩山として古くから恐れられている。

 しかし「始まりの詩」にでてくる封印の地と聞いても、この魔の山と結びつける知識を二人は持たなかった。

 それでも、この洞窟へ一歩足を踏み入れたときから本能で感じ取っているものがある。

 体の表面にまとわりつき、全身の毛穴から中へ入り込もうとするかのような負の瘴気しょうきだ。

 生ある者として、ここにいてはいけない、危険だ、と内なる声が響く。

 それでも足を動かして逃げ出すことが出来ないのは、ビヤリムの術なのか恐怖からなのか。


 穴の縁からは、寺院の釣り鐘クロチェを思わせる赤黒い甲殻こうかくが覗いていた。鈍い光沢を放つそれは、巨大な蠍のようだ。


 怖いもの見たさで、男は恐る恐る穴の中を覗き込もうとした。

 少しずつ穴へと近寄っていくと、動かぬ蠍の下に見えてきたのは――太い首、そして逞しい胸だった。常人の三倍はあろうかという大男の頭が赤黒く大きな蠍に替わっている。


「うわぁっ!」


 男は声を上げて飛び退り、尻もちをついた。

 目を見開き、口を開けたまま言葉が続かない。


「我らが神、蠍王ディレナーク様がここに眠られておるのだ」


 やっと満足のゆく反応が得られて、うれしそうにチャザイが言う。

 女の方は瘴気しょうきに当てられ、既に気を失っていた。


 もうから元気を見せることもなく、一気に歳を重ねてしまったかのように男はうな垂れている。床に向けられたその目は、どこも見ていない。


「お前たちがここを抜けようというなら、この向こうにあるもう一方の出口を行くしかない」


 チャザイが指し示した先には、入ってきた木戸と同じくらいの穴が壁に開いていた。しかし、そこは大小さまざまな大きさの岩々で塞がれている。


「たとえ魔力を込めた石だとしても、あの程度のものをいくら積み上げようと何の役にも立たぬというのに。愚かなものだ」


 誰に言うとでもなくチャザイがかすれた声でつぶやく。


「あやつらめがたかが魔道ごときで、不死の体を持つ我が神を封印したといい気になりおって。そもそも魔道こそあのお方が伝えたものであるのに」


 苛立たし気にハザメが口にすると、影の者たちは黙って頭を下げた。

 彼らの言葉は、倒れたままの女にはもちろんのこと、男の耳にも届いてはいなかった。再びビヤリムに促され、石造りのへ入った彼らは、他の者と同様に濡羽色のフード付きマントをあてがわれた。

 こうして、恐怖と絶望に支配されたしもべたちがまた生まれた。



 この城そのものが薄暗く冷え冷えとしているのだが、特にこの部屋は他よりもさらに寒さを感じさせる。

 寝台に横たわる男が周りの熱をも奪い取っているかのようだ。


「ミレイオ、右肩を持ち上げて体を横向きにして」

「こうでしょうか」

「そう、そっとね」


 男の服をまくって背中に触れた後、燭台を手に持ちながら顔を近づける。


「床ずれも起きていないようだし、戻していいわ」


 体を起こしながら、リゼイラは小さな声で伝えた。

 ミレイオがゆっくりと男を仰向けに寝かせる。

 明らかに彼女の方が年も若いのだろうが、医術を身につけた者として尊敬を得ているようだ。


「こうしていると、本当に眠っているようにしか見えませんね」


 寝ている男を起こさぬようにそっとつぶやいた。

 包帯を外した右目を注視したまま、リゼイラが答える。


「仮死のときと言うそうよ。私たちには分からない、闇の魔道なのでしょう」

「ここに運ばれてからもう二十日になろうとしているとか。何も口にせずにこうしていられるなんて気味が悪い」

「そのようなことを軽々しく口にしない方がいいわ」


 体を起こし、彼女は入り口の方へ目を移す。

 男の体を拭いていた手を止め、ミレイオがフードを深く被り直した。


「新しく連れて来られた者は薬を扱えるとか」


 もとは陽気でおしゃべり好きな男だったのかもしれない。あの魔導士たちの目が届かないせいか、彼は饒舌だ。


「ええ、ジョセアは薬の調合を生業としていたそうよ。でも、精神を病んでしまったのか、食事もろくに取らずだいぶ弱っているわ」

「気持ちは分かりますけどね。もう、あきらめるしかないのに……」


 否定も肯定もせず、淡々とリゼイラは手を動かしている。

 処置が終わり、新しい包帯を巻き終えると静かに寝台を離れた。

 戸へ向かう彼女の後に続いて歩き出したミレイオが、何の気なしに振り返った。


「あっ!」


 大きな声に驚いた彼女も振り返る。

 寝台に横たわる男の左手が、ゆっくりと頭の方へ動いていた。

 慌てて駆け寄り、リゼイラが男の顔を覗き込む。

 左手を頭に当てたまま動かなくなった男の瞼が、うっすらと開いた。


「誰だ……お前は」


 億劫そうに男は左目だけを動かした。

 リゼイラを一瞥すると再び目を閉じる。


「その辛気しんきくさいフードは……あの者の仲間か」


 まだ意識がはっきりしないのか、ゆっくりと言葉を確かめるかのようだ。


「ここは……どこだ? 俺は――」


 言葉を飲み込んだかと思うと、かっと左目を見開き、いきなり半身を起こした。

 栗色の長い髪が肩に広がる。


「おのれブリディフーっ!」


 腹の底から絞り出したような声が石壁に響いた。

 驚いたリゼイラが男の背中に手を添えたところへ、小柄なチャザイがマントを引きずるのも気にせず部屋へ駆け入ってきた。呼びに行っていたミレイオもその後ろから続く。


「気がつかれましたか」

「お前の仕業か」


 再び体を横たえ、男は目を閉じた。

 彼の意が分からず黙ったままのチャザイには顔も向けず言葉をつづける。


あの場闘技場から俺をここへ連れてきたのはお前なのだろ」

「御意」

「余計なことをしおって」


 頭を下げたチャザイへ冷たい言葉を吐き捨てる。

 そんなことは意に介さず、口元をほころばせながら濡羽色のマントを引きずり寝台へと半歩近づいた。


「とにもかくにもあなた様が回復されて何よりでございます」

「ふっ……何を企んでいる?」


 すぅっと消えたチャザイの笑みも、目を閉じたままの男は気づいていない。


「まぁいい。俺はもう少し休ませてもらうぞ」


 そうつぶやくと呼吸がゆっくりと静かになっていく。


 チャザイが首を回しリゼイラを見上げた。


「まだ体力が回復していないものと思われます。再び仮死の刻へ入ったのでしょう」

 後ろでじっと見ていたミレイオが口をはさむ。

「また何日も眠ってしまうのですか」

「いいえ。かなりしっかりとした意識だったから、徐々に眠りも短くなっていくはず」


 その言葉を聞いてチャザイが何度もうなづいた。


「そうかそうか。引き続き、この男の面倒を頼むぞ。ギャラナは我々の――いや私にとっての希望そのものだからな」


 最後の一言は己自身へ言い聞かせるようにささやくと、ハザメの元へと向かう。

 左の額にある瘤の下からは妖しい光を放つ小さな目が覗いていた。


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