とある放浪猫の猫生

@shirogane-kotetu

話し上手と聞き上手

 どうも猫です。


 生まれも野良なら育ちも野良、オマケに生き方まで野良の、生粋の野良猫です。


 思えば随分と長い間生きてきやした。


 暖かい日が来て暑い日が来る。涼しい日が来た後、寒い日が来る。そしてまた暖かくなる。


 忙しいったらありゃしません。


 いやまぁ、あっしはそれが好きなんですけどね。


 自由気ままに生きてきたあっしですが、たまにゃあ昔を懐かしむ日もあります。


 そこのだんな、暇ならちょいとあっしの昔話に耳を傾けてくれちゃくれませんかね?


 なーに、そんなに硬くならないで、ただの老猫の独り言だと思って聞き流してくだせぇ。




 物心ついた時、あっしは一人でした。


 いや、親はいたんですよ。朧ろげだけど、母親の母乳を飲んでたのは覚えてるんでさ。


 ただいつだったか、ある日出かけた母親がいつまで経っても帰って来ねえんですよ。


 今にして思えば事故にあったか「保健所」に連れて行かれたんでしょうな。


 けどその頃のあっしはそんな事とは露知らず、ただただ親の帰りを待ってたんでさ。


 でもね、時が経つに連れて不安と恐怖が体中を蝕んでいくんでさぁ。


 子供心にわかっちまったんですね。もう親は帰ってこないって。


 その日からあっしは心に誓ったんでさぁ。


 たとえ一人でも絶対に生き抜いてやるって。


 それからしばらくは地獄でしたよ。


 なんせまだ子猫でしたから、餌も満足にありつけねぇ。


 たまにありつけても他の猫に横取りされちまう事も珍しくねえですから。


 けど、それでも食わなきゃならねぇ。


 あっしは生きるために故郷を捨てました。


 あっしは人間の縄張りで生きることに決めたんでさぁ。




 初めて人間の街に来た時は、そりゃあ驚きやしたね。


 夜なのに街中が光って、まるで空の星が落ちてきたんじゃないかと思ったぐらいでしたから。


 その光の中に人間がうじゃうじゃいて、それがみんな歩いてるのを見たときの恐怖と言えば、そりゃあもう…。


 とどめとばかりにあちこちから聞こえてくる騒音に震え上がっちまって、思わず路地裏に逃げ込んだんでさ。


 けど、逃げ込んだはいいけど、怖くて出て行けなくなっちまって。


 あの頃は何も知らないガキでしたから、人間に見つかったら喰われちまうと本気で思ってたんですよ。


 それからどのくらい経ったか、いくら待っても人間は少しも減りゃしない。


 途方にくれてたあっしの目の前に、一匹の黒猫が現れたんでさぁ。


 体中真っ黒、怪しく輝く黄色の瞳、自分の倍はあろうかという大きな体、あんときゃビビリましたよ。


 前には大猫で後ろは人間の群れ、おまけに腹が減ってろくに動けないときたもんだ。


 わが生涯ここに潰える!


 そんな事を本気で考えたのも、あん時が初めてでしたね。


 でもすぐに様子がおかしいことに気づいたんでさ。


 その黒猫、何をするわけでもなくずっとあっしの事を見ているだけで襲ってこないんですよ。


 どうやら命は助けてもらえそうだと思って、あっしも気が抜けたんでしょ、腹の虫が盛大に鳴り出したんでさぁ。


 さすがに相手もこの状況で腹の虫が鳴るとは思ってなかったんでしょう、黒猫は面食らったように呆けると突然笑い出したんでさ。


 そこで黒猫が話しかけてきたんですけどね、てっきり「すぐに出てけ!」とか「喰っちまーぞー」とか言ってくると思ったんですけど、その黒猫なんて言ったと思います?


 飯が食いたきゃついて来い小僧、ですよ。


 これがあっしと兄貴の出会いでした。




 あっしは兄貴の後を必死でついていきやした。


 するとね、兄貴は古い人間の家の庭に入っていったんでさ。


 兄貴は縁側に向かって何度も呼びかけてやした。


 じいさーん! 俺だ! また飯喰わせて貰いに来てやったぞ!


 たしかこんな事を言ってた様な気がしやす。


 すると家の奥から人間の爺さんが出てきやした。


 人間は兄貴に向かって何か喋ってましたが、人間の言葉なんてとんとわかりゃしやせん。


 家の中へ戻った爺さんは、大量の煮干しを手にして戻ってきやした。


 爺さんは兄貴に向かってひょいひょいと煮干を投げていたんですがね、不意にあっしの方を見たんでさぁ。


 見つかっちまった!


 あっしは逃げ出そうとしたんですがね、やっぱ空腹には勝てやせんでした。


あっしは素直に顔を出したんでさぁ。


 腹の減ってたあっしは、爺さんの撒いた煮干しにむしゃぶりつきやした。


 そしたらその爺さん、とんでもなく上機嫌になって、あっしに何やら話しかけてきたんすよ。


 まぁ全部無視してやったんすけどね。どうせ何言ってっかわかりゃしなかったし。


 今思うと爺さんは、あっしを兄貴の子供だと思っていたのかもしれやせんね。


 けど、あの時の煮干しの味は今でもはっきりと覚えてやすぜ。


 あんなうまい煮干しを食ったのは、後にも先にもあれ一回きりでしたね。




 それからというもの、あっしはいつも兄貴の後ろに付いていきやした。


 兄貴はあっしに色んな事を教えてくれやした。


 人間の社会で暮らしていくためのルール、飯をくれそうな人間の見分け方、困った時の対処法、他にも生きていくための知識をあっしに惜しげもなく教えてくれやした。


 特に飼い猫と関わるなってのは、口をすっぱくされて教え込まれやしたね。あん時は何のことかわかりゃしやせんでしたが。


 おかげで季節が一周する頃にゃあ、あっしも立派な猫に成長してやした。




 あっしは今でも兄貴を尊敬してやす。


 兄貴は一見無愛想で滅多に喋ったりしなかったんですがね、その代わり背中で生き様を教えてくれやした。


 あれはあっしがまだ半人前の頃でさぁ。


 あっしはその時、若気の至りって言うんですかね、体がでかくなったもんで事あるごとに他の猫たちと喧嘩をしてましてね。


 自慢じゃねぇですがそれまであっしは負け知らずでした。


 あっしは有頂天になって流儀も仁義も忘れて隣町のシマを荒らし回ってたんでさぁ。


 あっしには兄貴から盗んだ技がある、どんな猫が来たって負ける気がしなかった。


 あっしはバカだった。


 数日後、隣町を仕切ってるボス格の猫がね、突然あっしらの前に現れたんでさぁ。


 あっしはね、いい機会だと思った。隣街のボスとはいえ、あっしに勝てない相手じゃなかった。


 今こいつを倒しちまえば隣町はあっしらの物。そう思ったあっしはボスに飛び掛りやした。


 だけどあっしの爪はボスに届かなかった。あっしは強烈なパンチをもらって吹き飛ばされたんでさぁ。


 訳が分からなかった。


 あっしを殴ったのは隣町のボスでも、その子分でもありやせん。他ならぬ兄貴だったんでさぁ。


 あんな強烈なパンチ貰ったことがねぇ。喧嘩に明け暮れて負け知らずだったあっしが、たったの一発で立ち上がれなくなっちまった、それぐらい兄貴の一発は強烈だった。


 遠のく意識の中、無抵抗で相手の猛攻を受ける兄貴の姿が見えやした。


 何で? 兄貴ならあんな奴一撃で倒せるのに……。


 あっしのなけなしの意識は、そこで途切れやした。




 目を覚ますと、すべて終わってやした。


 ボス猫もその子分もいやしません。ただ、奴らがいた場所に、ボロボロになった兄貴が横たわっていやした。


 あっしはすぐに兄貴の傷を舐めて手当しやした。そのおかげで兄貴は何とか一命を取り留める事ができやした。


 兄貴の容態が落ち着くと、あっしは隣町へ駆け出そうとしやした。あのドグサレ猫に、兄貴にした仕打ちを百倍にして返してやろうと思ったんでさぁ。


 だけど兄貴はそれを許しちゃくれやせんでした。


 あっしは悔しくてね、兄貴に言ったんでさぁ。


 なんで兄貴はあんな猫にいい様に殴られてたんですか! ってね。


 兄貴は何も語っちゃくれなかったんですけどね、あっしは兄貴の傷だらけの背中を見て、何となく分かったんでさぁ。


 元々の原因はあっしだった。あっしが調子に乗って隣町で暴れなけりゃこんな事にならなかった。


 あそこであっしがボス猫と戦えば、勝敗はともかく必ず隣町と大規模な喧嘩になってやした。


 兄貴は無用な喧嘩を避けるため、あっしの代わりにケジメをつけてくれたんでさぁ。


 あっしは兄貴のように生きたい。あっしの人生の目標はこの時誕生したんでさぁ。


 それからは、常にあっしは兄貴の生き様を学びやした。


 喧嘩をやめ、口を慎み、義理と人情を第一に考えるよう、いつも心がけるようになりやした。


 人間の言葉も多少は分かるようになりやした。


 兄貴はどうやら人間たちから「くろ」と呼ばれてるみてぇで、この街じゃ結構な古株のようでやした。


 人間は最近、あっしの事を「とら」と呼ぶようになりやした。意味なんてわかりゃしやせんが。


 保健所の連中さえ気をつけていれば、この街はあっしらにとって居心地のいい場所でやした。


 けど、そんなあっしと兄貴の日々は唐突に終わりやした。




 区画整理っていうんですかね。大きな車や重機がわんさかと街に押し寄せてきたんでさ。


 その頃のあっしは、工事や重機なんてこれっぽっちも知りやせん。


 てっきり外から怪獣が攻めて来たもんだと思って、そりゃあ慌てやした。


 兄貴に教えてもらうまであっしは、この世の終わりってヤツを疑似体験してたんでさぁ。


 それから街はどんどん変わっていきやした、それも悪いほうに。


 餌をくれた人間達の家はあっという間になくなっちまって、後にはでかい建物がどかどか増えていったんでさ。


 水はまずい、空気は汚い、おまけに食い物がさっぱりなくなっちまって、あっしらはほとほと困り果てやした。


 怪獣が攻めてきたってあっしの言葉は、半分当たっていたのかも知れやせんね。


 そんな時、兄貴が言ったんでさ。


 この街で生きていくのはもう無理だってね。


 あっしもその通りだと思いやした。とてもじゃねえけどこのまま住み続ける事なんてできやしねえ。


 けどね、兄貴はあっしだけこの街を出ろって言うんでさぁ。


 あれはショックだった。兄貴にお前なんていらねえって言われた気がしやしたからね。


 でも、そうじゃなかったんでさ。


 兄貴はこの街で生まれ、そして育った。いわばこの街は兄貴の家みたいな物。


 住みにくくなったからって簡単に故郷を捨てるなんて事は、兄貴にはできなかったんでさぁね。


 兄貴はあっしにこう言いやした。


 お前は若い。自分の目と足でこの世界をもっと見て、感じて、経験してこいってね。


 あっしは嫌でした。


 世界なんて見てまわらなくても、兄貴と一緒に居たかった。


 けど兄貴は許しちゃくれなかったんでさ。


 結局あっしは兄貴に叩きのめされて街を追い出されやした。


 今思うと、あれは兄貴の優しさだったんでさぁね。


 あっしはバカだから、あの時、兄貴に捨てられたと思いやした。


 兄貴を怨んだ時もありやした。まったく……兄貴の気持ちも知らないで。




 それからあっしは色んな場所を放浪しやした。


 危ない目にも遭ったし、死ぬかと思ったのも一度や二度じゃありやせんでした。


 でも、それだけに楽しいことも多かったでさぁね。


 あれは兄貴と別れてどのぐらい経ったでしょうかね。


 あっしは、とある街に厄介になってやした。


 その街はなかなか住み心地がいいもんで、つい長居しちまってたんでさぁ。


 ある日、あっしはぶらぶらと街の裏通りを散歩してたんですがね、たまにゃあコースを変えてみるかって事で、高級住宅街ってとこに足を向けてみたんでさぁ。


 うわさにゃあ聞いてたけど、思ったよりずっとでっけえ家ばかりでねぇ、あっしも驚きやした。


 まぁ、特に目的もなかったんで塀の上を気ままに歩いてたんですがね、一軒の家の前であっしは固まっちまったんでさ。


 その家は周りよりさらにでかい、ちょっとした城ぐらいあったと思いやすね。


 でもあっしが固まったのは、そんな事じゃねぇんですよ。


 あっしが釘付けになったのはその家の庭の向こう、ガラス越しに見える真っ白な猫でやした。


 思えばあっしはあの時、生涯で最初の恋ってやつを経験しちまったんですね。


 そのせいであっしは、野生の猫の禁を犯しちまいやした。


 兄貴に教わった教えの一つ「飼い猫には絶対に関わらない」って言葉が、その瞬間消えちまったんでさ。


 あっしはすぐに飛び出しやした。


 白猫に真っ直ぐに突っ込んでいきやした。


 体中の血液が沸騰したような感覚、彼女以外何も見えない、あんなに我を忘れたのは今まで生きてきた中で初めての体験でやした。


 ついでにガラスの存在を忘れて顔面を叩きつけたのも初めての体験でやした。


 ぶつかったあっしを見て、白猫の彼女は驚いて目を丸くしてやした。


 後で気づいたんですがね、額に大きなコブができてたんでさぁ。


 けどそんな事は露知らず、あっしは起き上がると、必死に彼女に話しかけやした。


 最初は驚いていた彼女も、あまりに必死なあっしの姿を見て可笑しくなったんでしょう、次第に笑顔を見せるようになりやした。


 ガラス越しにあっしは話し続けやした。


 なにを話したかは自分でもさっぱり思い出せやしやせんが、とにかく猫生(人生)の中であれほど饒舌になった事はありやせんでしたね。


 自分としたことが、うっかり時間も忘れちまうぐれぇ夢中になっちまいやした。


 だから人間が近付いた事に気付く事が出来なかったんでさぁね。


 どうやらその人間は彼女の飼い主のようで、彼女は人間に抱きかかえられて部屋の奥へと消えてしまいやした。


 ガラス越しのあっしにそれを止めることはできやせんでした。


 気がつくと夕日が半分沈んでやした。




 それからというもの、あっしは彼女のことばかり考えてやした。


 あっしは毎日彼女の元へやってきては、ガラス越しの会話を楽しんでいやした。


 会話といっても、彼女から話しかけてくる事はほとんどなかったですけどね。


 恥ずかしい話でさぁ。相手の都合も考えないで自分のことばかり喋ってたんですからね。


 ただ彼女は、そんな自分の話を聞いて笑っていてくれやした。


 あっしはそれがたまらなく嬉しくて、ついつい話し込んじまったもんです。


 けど最後は決まって人間が、あっしと彼女の中を引き裂くんでさ。


 人間は良く思ってなかったんでしょう。自分の可愛がる猫が、どこぞの馬の骨とも知らない野良猫と仲良くなることが。


 でもあっしは幸せでした。彼女と、ガラス越しとは言え一緒に居ることが。


 あっしらの関係は季節が変わっても続きやした。


 たとえ降りしきる雨の日でも真っ白な雪が降り積もる中でも、あっしは何の苦もなく通い続けやした。


 だけどある日ね、とんでもない事件が起こったんでさぁ。




 あっしはいつものように彼女の元へ向かったんですがね、なぜかその日はガラス戸が開いてたんでさぁ。


 おかしいなって思ったあっしはね、気になって中を覗き込みやした。


 けど家には人っ子一人いやしやせん。あっしは妙な胸騒ぎがしてね、家の周りを見て回ったんでさぁ。


 結果を言うとね、あっしの悪い予感は的中しやした。


 あっしは庭の方を歩いてたんですがね、見ちまったんですよ。


 何を見たと思いやすか? カラスですよ。


 数羽のカラス達が、あろう事か彼女に襲い掛かってたんでさぁ。


 真っ白い綿のような彼女の毛にね、所々血がついてやした。


あっしはその時、頭の糸が切れちまって、そのままカラスの群れの中へ突っ込んで行ったんでさぁ。


 どうやって戦ったかなんて覚えちゃいやせんがね、気がつくとカラス達は一羽も残っちゃいやせんでした。


 だけどあっしの身体もボロボロ、体中血だらけで起き上がることもできやしやせん。


 その時あっしは思いやした。ああ、あっしはここで死ぬんだってね。


 けどね、いやな気分じゃあないんでさぁ。いや、むしろ誇らしい気分でやしたね。


 惚れた女を護って死ねる、あっしは彼女の役に立ったってね。


 意識が遠のいていく中、あっしは彼女の声を聞いたような気がしやした。


 なんて言ったかは覚えちゃいやせん。もしかしたらあっしの幻聴だったのかも知れやせんね。


 あっしが意識を取り戻した時、もう夜が顔を見せ始めてやした。


 妙に傷口がくすぐったいんでね、あっしは何事かと思って顔を上げやした。


 するとね、彼女があっしの傷を舐めてくれてたんでさぁ。


 おそらくあっしが気を失ってる間、ずっと舐めてくれてたんでしょう。


 あっしは嬉しくてね、つい目が汗をかいちまって彼女を見ることができやせんでした。


 彼女はあっしが目を覚ました事に気付くと、丁寧にお礼を言いやしたね。


 その時彼女はとても悲しそうに泣いてやした。誰のためでもない、あっしのために泣いてくれたんでさぁ。


 あの日の月はとても綺麗でね、あっしと彼女はいつまでも寄り添って空を見上げてやした。


 あっしはその時、二度目の誓いを立てやした。彼女を絶対に幸せにするって誓いを。


 けどね、それからしばらく経ったある日のことでさぁ。


 何の前触れも無く彼女はあっしの前からいなくなりやした。


 彼女だけじゃない、飼い主の人間まで、まるで霧のように消えちまったんでさぁ。


 残ったのは誰も住んでない豪邸だけ。


 あっしは戸惑い、そして泣きやした。泣き続けやした。


 それからあっしの心は空っぽになっちまいやした。あん時はまるで自分の心がこの世からなくなったようでしたね。


 けどね、あっしは彼女を忘れられやせんでした。


 その日からガラス戸の前で待ち続ける日々が始まったんでさぁ。


 暖かくなって暑くなって涼しくなって寒くなって、毎日毎日あっしは彼女を待ち続けやした。


 いつも同じ場所に座ってたんですがね、あまり長く座ってるもんで、気づくとその場所だけ草が生えなくなっちまってやしたね。


 あっしはあの時、人生のすべてを使っても彼女を待ち続けるつもりで待ってたんでさぁ。




 しかしね、そんな日々もついに終わる日がやってきやした。


 その日もいつものように彼女の家に向かいやした。


 でもね、いつもと様子が違うんですよ。


 彼女の家の前に来た時わかったんでさ、彼女が帰ってきたって。


 あっしは走りやした。すぐに彼女に会いたい、会ってこの気持ちを伝えたいってね。


 あっしはすぐにガラスの前へたどり着きやした。そして彼女を見つけやした。


 あっしの目に映った彼女はあの時のまま、あっしの心を掴んだあの姿のままの彼女でした。


 あっしはどうにか気付いてもらおうとガラスを叩きやした。


 けど一瞬で手が止まりやした。いや、手だけじゃなく頭のてっぺんから尻尾の先まで、それこそ呼吸すら止まってしまうほどの衝撃が駆け抜けていきやした。


 何を見たと思いますかい?


 子猫ですよ。


 彼女の周りに沢山の子猫達が集まってきたんでさぁ。


 全員彼女とそっくりでね、驚きやしたよ。


 ダメ押しにね、お乳をあげてる彼女に一匹のオス猫が近付いてくるんですよ。


 あっしとは似ても似つかない、いわゆる血統書つきってヤツでさぁ。


 あっしは怒りのあまり発狂するかと思ったんですけどね、逆になにか冷静になっちまって、じっと彼女たちを見てたんでさぁ。


 しばらく見てるとね、子猫が一匹あっしに近付いてくるんですよ。


 その子猫が可愛くてね、あっしに話しかけてくるんでさぁ。


 「おじさん、あそぼ」ってね。


 あっしは彼女を見ました。


 するとね、彼女とっても幸せそうに笑ってるんでさぁ。


 あっしはね、彼女のことを忘れることにしやした。


 今彼女が幸せならって、あっしはその家を後にしたんでさぁ。


 この時、あっしは初めて兄貴の教えの意味がわかったんでさぁ。


 兄貴が言ってたのは、こういう事だったんだってね。


 あっしはすぐに街から出て行きやした。


 それ以来あの街に行った事は一度もありゃしやせん。


 ま、若き日の思い出ってやつですよ。


 それからね、傷心旅行って訳じゃないんですがね、日本中を歩き回ってたら、いつの間にかこんな歳になってやした。


 時が経つのなんて、あっという間でさぁねぇ。


 おっと、いつの間にか単なる愚痴になってやしたね。


 こんな老猫の話を最後まで聞いてくれてありがとうございやす。


 だんな、猫生なんて考えたって疲れるだけですぜ。猫生は前にありゃしません、今まで生きてきて通ってきた道、振り返った時に歩んできた軌跡こそが猫生てやつでさぁ。


あっしの話を最後まで聞いてくれた猫はだんなが初めてでさぁ、ありがとうごぜぇます。


「おっちゃん、おっちゃん」


「ん? なんだいぼーず。今この猫にあっしの半生を………」


「さっきから話してるそれ、猫の置きものだよ」


………………ほんとだ。


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