隠し扉、僕の場合

桐中 いつり

第1話 閉じる

 日本海付近で急速に発達した低気圧は寒冷前線を伴って北上し、全国的な荒天をもたらした。

 3月から5月にかけて、北からの寒気と南からの暖気がぶつかり合い上昇気流を生み、暴風雨や猛吹雪を引き起こす、春の嵐。

 今日は僕の住む関東地方にも影響を及ぼすだろうと予報が出ていた。

 バスの窓を雨が叩きつける。

 気温が急激に下がり、バスには暖房が入った。僕が座る座席も暖かい。

 僕はスマートフォンのゲームに飽きて、ぼんやりと外を眺めていた。目の前を滲んだ街明かりが通りすぎる。

 時計を見ると18時半を少し過ぎていた。今日は悪天候ということもあり、日没時間を過ぎると辺りはすぐに暗くなった。

 明日は大学の入学式だ。

 高校の卒業式直後から春休み最後の今日までずっと、図書館に入り浸る生活を送っていた。

 市の利用者カードがあれば、市内にある大小20ヶ所以上の図書館を利用できる。

 曇天に生ぬるい風が吹く中、今日も1日を潰すため、朝9時に家を出て、地元の図書館に入った。読むと言うより、見る本は、旅行雑誌と乗り物や動物の図鑑だけ。他の分野に興味はないし、持ちたくもない。

 予報通り、図書館に入って暫くすると、風が強くなり、雨が降り始めた。

 僕は昼食を摂りに外へ出て、ふと思い立ち、バスと電車を乗り継いで「西町公園」へ向かった。

 最寄り駅に着いた時には土砂降りになっていた。

 ……やめようかな。

 駅の出口に吹き込む冷たい雨を見上げて躊躇したが、チャンスは今だけかもしれないと思い直して一歩を踏み出した。

「西町公園」の出入口にある案内板の下に、細いカッターが埋めてある。

 僕が3年前、通り魔事件を起こした時、犯行に使ったカッターだ。

 僕は犯罪者だ。けれど、誰も僕の仕業だとは気付いていない。

 まあ、僕の場合、歩いている人を自転車ですれ違い様に切りつけるのが精一杯だった。

 ほんのかすり傷程度。2件目に至ってはその女性が持っていた鞄に傷を付けただけだ。

 ゴールデンウィークの早朝、5時頃。

 あの日も霧のような雨が降って肌寒かった。

 1件目はベージュのジャケットを着た男性。2件目は赤いレインコートの女性。

 2件目は切りつけた時の勢いでレインコートの女性がよろめいて側の電柱にぶつかった。飛んできた傘を避けて、カッターと自転車の右ハンドルを握りしめ、一目散に逃げた。ポケットに仕舞う余裕もなかった。

 その途中、犬の散歩をしていたお爺さんに見られた気がした。

 公園が目に入って、石畳の敷かれた真ん中を突っ切ろうとした時、出口の、腰高まで積まれた花壇の植え込みにカッターを突っ込んで埋めた。花壇には「ボールで遊ばないで下さい」などの注意書きのある案内板が立っていたと記憶している。あの時は反射的な行動だった。自暴自棄な犯行のくせに、いざとなると身を守りたくなった。

 あれから3年が経つ。僕は警察に捕まる事もなく、ただ生きている。ずっと僕を守ってくれたカッター。まだあるかわからない。けれど、今日はそれを回収したい。

 何故、こんな事件を起こしたのか、当時は自分でも理由がはっきりしなかった。

 いつの頃からか、自分の感情は動かさないように、閉じるようにして生きてきた。

 感じ無ければ、哀しむ事も、苦悩する事も無いという、単純な理由からそうした。

 人間関係が描かれるようなドラマは見ない。映画もSNSも本も音楽も。僕の気持ちを動かすようなものは一切閉め出した。

 それが僕なりの、世間から身を守る術だった。

 こんな具合だから切りつける相手はもちろん誰でも良かった、はずだった。

 1件目の事件を起こした直後は不思議に達成感があった。それで2件目も起こしてしまった、と思っていた。

すぐに捕まる。

覚悟はした。けれど、警察は来なかった。3日、3ヶ月、半年と日常を過ごすうちに、あの事件は無かったのではないか、夢だったのではないかと思うようになった。

 そう思う時、必ず服の上からカッターの存在を確かめたけれど、やっぱりあるわけが無かった。

 通り魔事件以降、僕の気持ちは晴れていた。ストレスを発散出来たからだと思う。ところが、2年近く過ぎて、また進路を決める時が来ると、暗雲が垂れ込める。

 高校受験は第一志望校に落ちてしまい、両親や塾の先生を失望させた。今回の大学受験も同じ結果になった。浪人は考えられない。1つ下の弟と一緒に受験勉強をするのはごめんだ。

 大学の次は就職か。自分の働く姿が想像出来ない。

 今までの日常で僕なりに考えて行動した事が報われた経験はないし、そんな事をすれば返って叱責される事が多かったと思う。

 先の事を考えると、酷く疲れる。

 日常は僕にとって急な流れだった。どの岸にも辿り着けず、溺れながら流れに身を任せるしか無かった。

 このまま苦しい思いを一生し続けるのかと思うと、それは絶望でしかない。けれど、自分の終止符は自分で打てるんじゃないか。そんな考えが浮かぶ様になると、少し気が楽になった。

 そういう訳で、僕はこの夏に自分で自分を終わらせる計画を立てている。

 犯行に使ったカッターは、僕が中学生の頃から持ち歩いていた物で、心の拠り所にしていた。手元に無いままなのは心残りなので、今年に入って一度、回収しようと試みたけれど、思った以上に公園の利用者が多くて断念していた。

 この公園が「西町公園」だと言う名前なのは、カッターを回収しようとして調べて初めて知った。

 住宅街にある中型の公園で、柵と樹木が四角く囲っている。出入口は中央に2つあり、石畳でつないでいる。

 回収しようとした日は、冬場の良く晴れた午後だった。時間帯も悪かったのかもしれない。遊具と砂場スペースには数人の幼児がいて、例の案内板のある花壇の側には母親達が輪になって何やら話し込んでいた。

 僕は案内板のある入口を素通りした。折角来たのに回収出来ないのが悔しい。この公園は2件目の事件現場に近い。もう二度と近づきたくないとの思いもあり、隙がないかと遠巻きに母親達を見ていたけれど、僕と同じ通りを歩いている買い物帰りおばさんが、こっちをジロジロ見ているのに気付いて諦めた。

 けれど今日は、折からの雨にこの冷え込み。公園で遊ぶ者などいないだろうと思い立ち、寄ってみたのだった。

 3年近く経っているから、残っている可能性は低い。公園の整備が入った時にでも見つかって回収されたかも知れないし、誰かが掘り起こして別の場所に捨てたかも知れない。

 可能性は低いけれど、この目で確かめるまでは諦め切れない。

 案の定、今日は公園には誰もいない。雨が降り注ぐ静かな公園。

 僕は太めの木の枝を拾うと、通りからなるべく見えない様に公園の中に移動してから植え込みに手を伸ばして地面を掘り起こしてみた。

 ――無いか。

 範囲を広げたり、深く掘り下げてみたけれど、目当ての物は出てこない。

 ある程度諦めてはいたけれど、やはり落ち込む。

 仕方ない。

 僕は掘り起こした土を戻して木の枝を放り投げた。

 心残りだけれど無い物は無い。諦めるしかない。諦めるのは慣れている。

 捨てた物に捨てられた情けない思いを抱えて駅へ戻った。

 まだ午後2時。

 近くにイートインのあるコンビニを見つけて遅めの昼食を摂り、別の図書館へ移動して時間を潰し、今、帰宅途中という訳だ。

 収穫無しで落胆していたが今日は最後に一つ良い事があった。

 帰りのバスは新型車だった。

 乗り物ファンと言えば、すぐに思い付くのは鉄道だろう。もちろん、鉄道も好きだけれど、どちらかと言えば僕はバス派だ。

 興味を持ったのは小学校4年の時、駅前の塾に通いだした頃、いつもバスを使っていて愛着が湧いた。元々小さい頃に見たクルクル回る行先表示器の方向幕が好きだったというのもある。塾に通いだした頃はほぼ、LEDに切り替わっていたけれど、夜、オレンジ色の温かい光を見ると安心した。

 あまり物事にハマる性格ではないから自分では「おたく」という認識はないけれど、ただの移動手段だと考えている人から見たら立派な「おたく」なのかもしれない。

 新型車が導入されて約1年、これまで目撃したことはあっても乗った事は無かった。

 けれど明日からは念願のバス通学が始まる。中学、高校時代に叶わなかった夢が明日から叶う。新型車に乗る機会も増えるだろう。

 計画の実行を夏にした理由は色々あるけれど、バス通学を楽しみたかったから、というのもある。

 さて、夢が叶ったら最期の場所は何処にしようか…。

 僕が何処にあるのかもわからない森林風景を思い浮かべていると、ふいに降車ボタンの音が鳴って我に返った。

 2、3人が降車口から降りて行く。

 新に乗車する客は無く、暫くしてバスは発車した。次の停留所案内や広告アナウンスが済むと車内はまた静かになった。

 平日の夕方だというのに、乗客はまばらで、皆、一様に下を向いてスマートフォンをいじっている。従来車では横向きだった優先席が新型車では前向きに変わり、そこに座る老人だけがじっと進行方向を見据えていた。

 傘から雨水が滴り落ちて床を濡らす以外、不快なものは何もない。誰かが話す声もなく、ただ窓にぶつかる風と雨の音がするだけだ。

 外は更に暗さを増し、悪意を持ったような闇が透明な窓ガラスから忍び込もうとするところを、室内灯が白く照らして退けていた。

 渋滞で遅々として進まないけれど、この快適な空間に少しでも長く居たくて、渋滞がずっと続けばいいとさえ思う。そう思っていても、無情にも僕が降りる停留所になり、仕方なく降りて走り去るバスを見送った。

 今は19時20分。

 冷気が増して、風も強い。

 風に飛ばされないように傘の柄を短く持ち家へ急いだ。そろそろ夕飯が出来ているだろうから、食べてすぐ風呂に入れば弟に会わないで済む。父はこのところ宴会で遅いから大丈夫だろう。

 こんなに居たくない家なのに、帰るところがこの家しかないという現実に辟易しつつも空腹には逆らえなかった。

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