二月、ブラック・マジック・チョコレート(パート1)
「あ、その話、これ食べ終わってからでいい?」
意を決して切り出したわたしの言葉をさえぎって目の前のクラシカルなチョコレートケーキにフォークを入れる目の前の女。
不知火頭突。
わたしの彼女。わたしが彼女でもある。あった。
「別れましょう」
わたしはそう言った。彼女はその言葉をまるで無視するかのように、目の前のデザートに夢中だ。
まあ、喫茶店にはよくある風景なのだろうと思う。別れ話をしようとしている、という点を付け加えても、ありふれている。
「で、なんだって?」
「だから、」
「別れないよ」
遮るなよ。聞いてたんじゃないか。
わたしは彼女のこういうところが嫌いだ。細かな、といってもそれは単品で十分火種になりうるレベルの、ストレスを積み重ねた結果、もう限界といわざるを得なくなってしまった。
「そもそもさ」
彼女はメニューを眺めながら話を続ける。追加で何を頼もうかな、と目が言ってる。これだけ大事な局面に於いてすらわたしの顔を見ようとしないのだ。
「よくバレンタインにそんな話する気になるよね」
ちょっと性格悪いんじゃない? なんてそれはむしろそっちの事だろうと返したくなるが、黙る。
確かに、わたしも考えがなかった。衝動のまま別れ話を切り出すべく彼女を呼び出してようやく今日がバレンタインだと気付いたのだ。
もっと言えば、彼女が持ってきた手作りのチョコレートによって。
言い訳させてもらうならば、わたしの精神状態はすでにバレンタインに浮かれ騒げるような状況ではなかった。スーパーやデパートの地下で、普段ならば目に痛いほど入ってくる薄い赤色のグラデーションが、驚くほど他人事に思えたものだ。
「どうあっても」
彼女はようやく目線をこちらに寄越した。
「これを受け取る気はないの?」
「ええ」
それだけは断言しなければならない。
彼女の手作りチョコレート。受け取ってしまえば、思い出にすることが出来ないだろうから。
彼女の一方的な愛情に絡め取られて、このストレスフルな日常を続けなければならなくなる、から。
可愛いとは思っていなかった。
きれいだな、ぐらいには思っていた。
結局のところわたしはロマンチストか、あるいはただのバカの類であって、恋に落ちた理由、であるとか、どこが好きか、といった点を言葉にすることができない。
本当に、ちょっとしたきっかけだったのだと、思う。もう思い出せない。付き合ってからもドラマチックなことなんて何もなかった。今が一番、特殊な状況だろう。
こんな言い方ばかりしているが、わたしは彼女のことが嫌いではない。別れ話を切り出しておいて何を、と思われるかもしれないけれど、それはそうなんだとしか言いようがない。わたしたちの関係は愛とか憎とか一文字で表せるようなものではないし、それは彼女にとっても。
どうなのだろう。
ここへきて自信がなくなってきた。だから別れたい、というわけではない。そんなことを確かめるまでもなく、わたしは今とても疲れているのだ。それは日曜なのに家族サービスを強いられる父親のような、それを引き延ばしたようなものであればいつか改善することもあるのかもしれないが、あいにくと彼女と過ごす限りそのきざしは見られないのだ。
彼女にとってわたしはプラスの存在だったのだろうか、なんて実利ばかりを求めるような、そんな無粋な人間ではないつもりだが、それでも。
幸せだったと、思わせられたなら。
わたしのそれを、この幸せを押しつけるようで忍びない気もする。けれどもわたしは現に幸せだったのだから、きちんと返せているか不安になるのだ。
それは言葉をすり替えているだけで、ようは利害の関係でしかないのかもしれない、とも考える。考えてしまう。
弱気なだけなのだろう。わたしはいつだって人の顔色をうかがうような人間だということだ。
思えば、それで一度彼女に本気で怒られた。もう少しポジティブな考え方は出来ないの、と。
そんなだから、彼女にとっても、わたしはストレスだったんじゃないかと思ってしまう。そんなことはない、って確かめたい。確かめたかった。
でもやっぱり、無理なのだ。思考が袋小路で泣き崩れる。わたしは少しだけ悲しい気持ちになる。
「そもそもさ」
彼女は繰り返す。
「何が不満なの?」
彼女は気付いていないのか、ふりをしているだけなのか。
「わたしが魔法使いだから?」
「は?」
あまりにも間抜けな声が出た。
「やっぱりさ、こう、人間界? には溶け込めないところあるじゃん、わたし。それってやっぱ魔女だからだと思うんだよね」
「は?」
今度は怒りの声だ。
ふざけてる?
「怖いな。魔女狩り? はよそでやってよね」
中世とか、ってその言い方はなんなんだ。
「わかったわかった。信じてないんでしょ。ほれ」
彼女はポケットから長方形の小さな箱を取り出す。『都こんぶ』と書いてある赤いやつだ。
「見ててよ……いち、に、の」
さん、で手のひらに載せた箱を軽く握り、再度開くと箱は消えて、そこには小さなピンク色の花があった。バラに似ている。
「これ、バレンタインついでに作ったやつ。もちろん食べられるよ」
もちろんこんぶの味じゃないよ、と言って呆気にとられるわたしの口に放り込む。ケーキとかの上に載ってる砂糖菓子の味がする。というか、そのものだろう。
「どう?」
「……」
いや。
「それは手品でしょ」
「そう見える?」
「そうとしか見えない」
「じゃあさ」
魔法って見たことある? って、言われても。そりゃ、無いけど。
「だからさ、言うじゃん。なんだっけ、『高度に発達した科学は魔法と見分けが付かない』みたいなさ」
「違うでしょ」
「そっか、まあ、そうか」
いつものふたり。いつものやりとりが、少しだけ戻ってきた。手品が出来るのは初めて知ったけど。
こういう時、彼女にわたしが見透かされているような気分になる。それにしては、えらく不器用な人だとも、思うけれど。
不器用さを愛おしいと思うこと、に引け目を感じてしまう。
わたしは悩む。考えすぎだとよく言われる。けれどそういう性分なのだ。しょうがない。
彼女はそんなわたしを愛してくれる。少なくともわたしは、そう思っている。
でも、当人は、どう思ってる?
堂々巡りだな、とようやく気付いたので頭から振り払う。
やめよう。
もう、やめるのだ。
「ねえ」
「……なに」
「わたしはさ、やっぱ、別れる気はないんだよ」
「そう」
「でもさ、そっちは別れたいんでしょ」
「……うん、そう」
「で、きっと意見は曲げないよね」
どっちも、と言って彼女は交互に指さす。
「そうね」
「じゃ、これだ」
そう言って、彼女は手作りのチョコレートが包まれてる袋を手に取る。
「もうこんななっちゃったから、開けるよ」
がさがさと音を立てて包装を解いていく。喫茶店でこれはいいのかと一瞬思ったけど、もうなんかそういう雰囲気でもないので黙っておく。店員が気付かないか、見ない振りをしてくれることを祈る。なんでわたしがそんなこと考えなきゃならないんだろうと思わないでもない。
「実は、この中に一個だけ、中に唐辛子のペーストが入っています」
なんで得意げなんだ。
目の前に広げられた、六粒のあまり大きくないチョコレートに視線を落とす。いびつな形がいかにも手作りですよと主張しているが、美味しそう、に見える。
「なんでそんなことしたの」
「いや、楽しいかなと思って」
「誰が」
「わたしが」
「でしょうね……」
ため息。そしてなんとなく後の展開も想像が付く。
「要するに、これから二人でこのチョコを食べて、その唐辛子ペースト? の入ったやつを引いた方が負け、ってこと?」
「お、よくわかったね。エスパー?」
「ここまで言われればだいたいわかるって……」
そもそも、貴女のやりそうなことなんて。そう言いかけて、流石に止めた。
「そうそう。交互に食べても、せーの、で一個ずつ食べても、どっちでもいいよ」
「……どうせ、貴女だけにわかるような目印とか付いてるんでしょ」
「付いてないって。そもそもこんなことするために作ったんじゃないんだから」
信じてもらうしかないけど、って、この言い方は本気の時のそれだ。
「どう?」
「……いいわ、付き合ってあげる」
「そうこなくっちゃね」
あらためて、テーブルに広げられた六粒のチョコレートに目を向ける。さっきまで美味しそうに見えたそれらは、一気に怪しく、どれもこちらを拒絶しているような気がしてくる。
「どっちからいく? 一緒にする?」
「……わたしからでいい」
こうなったらしょうがない。真ん中の一番目立つ位置にあるやつを手に取ってそのまま口に入れる。
「どう、かな」
「……美味しい」
先ほどの手品といい、器用な子だったのか、なんて今更になって気付く。たぶん、この味はただ市販のチョコレートを溶かして固め直したものでは無いはず。
「ほんと? 良かったー」
「良くないんじゃないの」
「んなことない! ……あ、でも負けるわけにはいかないけど」
嬉しそうな表情から一転、真面目そうに、でもどこかそんな振りをしているような感じでチョコレートを眺める彼女。
「えい」
彼女が、少しだけ端の方に転がっていたチョコレートを口にする。
「……」
明らかに顔色が変わった。
「ねえ」
「……」
むせ込みながらわずかに残っている冷水に手を伸ばし、漫画みたいな顔色をする彼女を、どうしてだかわたしは笑う気にはなれなかった。
そうして、わたしたちは別れた。
つづく
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