狂った呪具と狂犬の子
白灰黒色
第1話
普通のものより大きめの馬車が、がたいの良い馬二頭に牽かれ、整備されていない荒れた道をガタガタと進んでいる。
灰犬、と呼ばれている彼は、そんな馬車の後部の上に座りながら、首にある首輪を片手でいじっていた。
「おい、犬!ちゃんと見張りはやってるのか!あそこに何かいるぞ!」
馬車の前方辺りから、男の張り上げた声が聞こえてきて、灰犬は鬱陶しそうに頭頂部にある犬耳を伏せた。
「してるよ。右前方に見えるのはただの動物。刺客じゃない。」
「本当だろうな!?」
疑うようにそう言う男に、灰犬は振り向きもせずに肩を竦めた。
「本当だって。獣臭いし、鳴き声からして鹿か何かだよ。」
「そうか。なら、いいんだ。」
ほっとしたように、男はそう言うと、むっつりと黙り込んだ。
男は、奴隷商人だ。ただ、国によっては法に触れそうなものも……というか、法に触れるものも扱っている上、決して少なくない人数から恨みを買っているので、結構な頻度で刺客が送られてくることもあった。
そんな刺客から男を守った事もあって、灰犬は奴隷ながらもそれなりに大切に扱われている。奴隷達が詰め込まれている馬車の中でなく、外に出されているのもそういう理由があった。
「せいぜいが犬扱いだけどな……」
ひとりごとを小さく呟きながら、彼は自分の頭の横にある耳に触れる。
灰犬は、灰色の髪に、同じ色の犬耳と尻尾が生えている少年だ。そして、普通の耳もちゃんとある。
この世界には獣人族という、獣と人が混ざったような種族が存在しているが、灰犬は獣人ではない。元々は普通の人間だったのだが、飢餓感で頭がイカれたのか、洞窟の中に転がっていた灰色の子犬の死骸を食べてから、気付けばそんな姿になっていた。
獣人族には、獣耳があれば人族の耳が付いていない。馬車の中にいる獣人族の奴隷がそうだから多分そうであろうと、灰犬は思っている。
だから、灰犬は獣人族ではないのだが、今は人間であるかどうかも怪しかった。
この姿になってから、十年が経つ。だが、彼の姿は幼い時のままで、一ミリも成長していなかった。
そんな背景もあって、灰犬は売れ残りの奴隷だったりする。皆、気味悪がって買わないのだ。まぁ、鉱山で使い潰される奴隷もいるようなので、そうなるよりはよっぽどマシなのだろうが……
そんな事をつらつらと考えていると、空にまるまると肥えた鳥が飛んでいるのが目に留まった。
灰犬の口内に、唾が湧き出てくる。そういえばお腹が空いたなと、溢れ出そうになるそれを飲み込みながら、灰犬は携帯している投げナイフを構えた。
手首のスナップを効かせて、ナイフを鋭く投げると、飛んでいる鳥の首に吸い込まれるようにナイフが深々と突き刺さる。鳥は、潰れたような声を上げ、空中から地面へと落下を始めた。
素早く馬車から飛び出して、鳥が地面に落ちる前に灰犬が掴むと、馬車の操縦席に座っていた奴隷商人の男が、呆れたように溜息を吐いた。
「またか、犬!お前に渡したナイフは、狩りをする為に渡したものじゃないんだぞ!分かっているのか!」
「はいはい、ご主人を護衛するためのものだよ。」
適当にそう言いながら、鳥の首からナイフを抜き、灰犬は自分の粗末な麻の服でナイフに付いた血を拭う。
刃こぼれがないか確認をしている灰犬の、血で固まった赤黒い色で染まった服を見ながら、男は額に手を当てて溜息を吐いた。灰犬が売れない要因の一つに、その血で染まった跡のある赤黒い服があったりする。
ちなみに、それが原因なら着替えさせればいいだけなのだが、男は売れない奴隷に金をかけるのを嫌がって、灰犬の服を買わないし、灰犬もそれを気にしていなかった。
灰犬は、ナイフに刃こぼれがないのを確認すると、投げナイフをしまい、馬車に駆け寄って馬車の後部に飛び乗った。
そして、鳥にそのままかぶりつく。
血で口元が汚れるのも気にせず、鳥を生で食べる灰犬に、男が溜息を吐いた。
「よくも、生で食って腹を壊さないもんだ……」
「ご主人も食べる?」
独り言の内容は聞こえていたが、あえて聞き流して灰犬がそう言うと、男は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「誰が食うか!」
「ごめん、もう食べちゃった。」
「相変わらず早いな!?」
最後に残った鳥の頭をバリバリと噛み砕きながら、僅かな笑みを浮かべて灰犬がそう言うと、男は疲れ切ったように更に深い溜息を吐いた。
自分と同じくらいの大きさの鳥を全部食べた灰犬だが、空腹感は紛れても満腹感は無かった。灰犬は、生まれ変わってから、一度も満腹したことはなかった。
奴隷であるが故に試した事はないが、恐らく、いくら食べても満腹になることはないだろう。そんな妙な確信を灰犬は抱いている。
灰犬は、口回りにべっとりと付いている血を舐め取ると、ちらりと後ろに目をやった。
草原の向こう、遠くに見える森の影に潜むそれを見ながら、灰犬は目を細め、おもむろに指を鳴らした。
「うおっ!?おい、犬!何か弾けるような音がしたぞ!?刺客じゃないのか!?」
「ああ、その音は俺の指パッチンの音だね。」
「指パッチン……?って、お前のかよ!まぎらわしい事をするな!」
ひとしきり、男はぶつぶつと文句を言うと、また黙り込んだ。
灰犬は、肩を竦めると、お腹を擦りながら、またちらりと後ろを見遣った。
僅かに漏れ聞こえてくる怒声と、森の中から漂ってくる血の匂いを嗅ぎながら、灰犬は鼻を鳴らした。
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