白い雨

西田井よしな

白い雨

 白糸のような梅雨がさらさらと降っていた。

 ホワイトノイズに似たその雨音は校内の喧騒をにじんだ水彩画のようにぼかして、どこか現実味のない空気を生み出していた。


 僕はファイルの入った段ボール箱を抱えて階段を下りている。廊下には充満していた雨音はふと遠のいて、代わりにコツコツという気の抜けた足音が耳につく。

 僕はどうやら少々お人好しが過ぎるらしい。今こうして自分がやらなくてもよかったはずの頼みごとを引き受けてしまっているのも、その証左であるわけで。


 僕は人から嫌われること、反感を買うことを人一倍恐れる。結局人間というのは誰かから居場所を与えられなければ平穏に暮らせないわけで、僕は常に追われるようにして好感という名の保証を買い求めていた。しかし僕はその癖を疎ましいと思ったことはないし、ひとつの立派な処世術だとして改める気もなかった。

 校舎一階の突き当りにある保健室の前まで来ると、その引き戸を軽くノックした。


「……」


 しかし返事はない。鍵こそ開いてはいるが、養護教諭は不在なのだろうか。この荷物を抱えたままここで突っ立って待つか、うろうろと探し歩くか。うん、どちらも嫌だな。

 仕方なく、僕は保健室の扉を開けた。


「失礼します」


 一応声をかけてから中に入る。果たして先生の姿はなかった。僕はデスクの上に段ボール箱を置いて、取りあえずベッドに腰をかけた。使用感のない、潔癖なくらいに白くてシワのないシーツがくしゃりとなった。


 さて、どうしようか。スマホを取り出して見ると、時刻は十二時半。昼休みが終わるまでまだ時間はあるが、ずっとここで待っていても退屈だ。運ぶものは運んだし、もう教室に戻ろうか。

そう考えていた時だった。


「失礼します」


 背後から女子の声が聞こえた。振り向くと、前髪の長い女の子と目が合った。


「えっ、あっ……」


 女の子は先生が不在の保健室に居た見知らぬ男子生徒を見てうろたえたが、すぐにぷいっと視線を逸らして扉をくぐってきた。


「ああ、先生はいないみたい、だね」

「……ですね」


 何だか気まずくて僕から声をかけるが、女の子の反応は素っ気ないものだった。見慣れない顔だが、上履きの色から一年生の後輩だと判る。向こうも同じように僕を二年生だと判断したようで、敬語で返事をしていた。

 女の子は向かいのベッドに背中を向けて腰かけると、ベッドの上に置かれたバッグからスマホを取り出していじりだした。まるでここを使い慣れている様子だった。というかベッドを一つ占有しているようにも見える。


「あの」


 そんな僕の視線に気付いたのか、彼女がこちらを見ないまま声をかける。少し苛立たしげな声色であった。


「具合でも悪いんですか?」


 それは心配しているのではなく、恐らく「何の用ですか。いつまでここに居るつもりですか」というようなニュアンスだった。僕に対する拒絶の気配を隠しもしない。それが僕にはけっこう応えた。


「あ、いや、荷物を運んでくるように頼まれて来たんだけど、先生がいなくて。もう出て行くよ」

 そう言っていそいそと立ち上がると、女の子がにわかに振り向いた。


「あー、はい。あの……」

 その目には警戒の色が濃かったが、次第に不安らしき感情がにじんで見える。


「何か、すみません。追い出すみたいで」

 不意にしおらしく謝られて、僕は拍子抜けになった。


「いいよ別に。君こそ、具合が悪いならゆっくり休んでね」

「私も別に具合が悪いって訳じゃ……」


 罰の悪そうに視線を逸らす彼女。その反応で、僕は何となく察しがついた。


「ああ、そういう……まあ、いいんじゃないかな」

「そうやって変に気を遣わなくてもいいです」


 そうばっさりと言い捨てられては、僕は苦笑いしながら頬をかくしかなかった。


「私、ここ二か月くらい全然授業に出てないんです」

 自分のことなのにどこか呆れたような口調で言う。


「いわゆる保健室登校ってやつですよ。だからちょっと、知らない人がいる状況が不安で」

「そうか。なら尚更悪かった」

「え? あ、ええ……」


 努めて穏やかに返すと、女の子は頭に疑問符を浮かべて曖昧に返事した。


「先輩、よくお人好しって言われませんか?」

「は?」


 急にそんなことを聞かれて今度はこちらが首をかしげたが、


「そう、だね。言われてるかも」

 と答えるしかなかった。すると、


「ぷっ」

 あ、笑った。相手に笑われたことによる恥ずかしさや不快感よりもまず心に沸いて出たのは、ずっと仏頂面だった彼女が見せた笑みに対する嬉しさだった。僕もつられて笑い出した。


「先輩って、ちょっと面白いですね」

「ほめ言葉として受け取っておく」


 そうして、僕は今度こそ教室に戻ることにした。


「じゃあ」

 僕が片手を挙げると、女の子もぺこりと会釈を返してくれた。


「また会えるといいね」

「セクハラです」

「酷いなあ……」


 そうして僕らは、いつもと少し違う昼休みを過ごした。







 それから僕が彼女と再会したのは数日後のことだった。


「あ」


 と僕らが声を上げるのは同時だった。

 昼休みになると、玄関ホールにパンの移動販売がやって来る。それを昼食の当てにする生徒も少なくないのだが、やはり宿命と言うべきか、総菜パンは風のごとき速さで売り切れる。だから弁当を食べた後にのんびりと塾の前の軽食を買いに来た僕の前には、残り物の菓子パンしか残されていなかった。

 そして同じタイミングで保健室から出てきたのが、先日出会った保健室登校の後輩だった。


「や、やあ」

「……こんにちは」


 お互いに打ち解けているとはとても言えず、曖昧なあいさつを交わす。


「これからご飯ですか?」

 先に口火を切ったのは彼女の方だった。


「まさか、夕方に食べるやつだよ。そっちは?」

「そのまさかです」


 何でもないような乾いた答えが返ってきた。


「菓子パンなんかで大丈夫なの?」

「別に。だいたい混んでいる時になんか行けるわけないじゃないですか。いつもは家からパンを持ってくるんですけど、今日は忘れたんです」

「じゃあ普段はどんなパン持ってくるの?」


 その問いに対して「何でそんなこと答えないといけないんですか?」とでも言いたげに怪訝な目を向けられたが、彼女は一拍のため息を置いて言った。


「ジャムサンド。イチゴの」

「……」


 結局菓子パンなのかよ。とは思ったが言わなかった。女子の小食と甘味好きのアンバランスさはよく解らない。「女の子はお砂糖で出来ている」とか何とかいうフレーズは中々どうして真理のように思えてきた。


「えと、じゃあ先に選びなよ。もうあまり選ぶ余地もないけれど」

 そう言って僕は手振りで促す。彼女は小さく会釈をしてからトレーの中をのぞき込んだ。

「……じゃあ、これください」


 そう言って手に取ったのはミニクロワッサン三個入りの袋。くっ、僕が欲しかったやつだ。しかもそれが最後の一つ……。いや、仕方がない。譲った以上は、そう、仕方ないのだ。


「……何ですか、食べたかったんですか?」

 またぞろ僕の視線に目聡く気付いたらしく、彼女が買い終えたクロワッサンの袋を持ち上げて見せる。僕はふるふると首を横に振ったが、返ってきたのは「くすっ」と呆れたような笑い声だった。


「保健室に来たら分けてあげてもいいですよ」

 彼女はそれだけ言って踵を返して去って行った。その瞬間感じたのは、彼女が案外きれいな顔立ちをしているなということだった。




 それから僕は自分の分を買って、一、二分ほど悩んだ挙句保健室に足を運んだのだが、そのミニクロワッサンだけは受け取らなかった。


「ほんとにあげるのに」

「たった二つじゃ体が持たないだろ。気にしなくていい」

「だったら何で来たんですか?」

「う……」


 身もふたもないことを言われては返す言葉もない。


「なんか、あのまま帰るのも違うかなーって」

「……そうですか」


 彼女はどこか戸惑うような表情と共にクロワッサンにかじりついた。リスが木の実を食むような小さな一口だった。


「なあ、そう言えばまだ名前を聞いてなかったよね?」

「天野、美咲です」


 意外と素直に教えてくれた。


「僕は藤崎晶。よろしくね」

「よろしくって、何に対してですか?」


 天野が少し困ったような目で見る。


「……よろしくしたくなかった?」

「その言い方、なんかヤラシイです」

「ご、ごめん」


 もどかしい思いで萎れていると、天野は神妙な顔つきで言った。


「だってですよ、私なんかと仲良くなったってしょうがないですよ」

「どういう意味?」


 天野の言外に言いたいことは何となく分かったが、僕はあえてそう尋ねた。


「どういうって……私根暗ですし、不登校ですし、なんて言うか、先輩に何もメリットがないっていうか。それとも何です、私と付き合いたいんですか? それなら予めお断りしておきますね」

「告白してもないのに振らないでくれよ」


 僕は肩を落としながら苦笑を作った。ただこの時の僕は、別の理由で少し悲しい気持でもあった。


「それに、そうやってちょっと棘を作って予防線を張るの、あまりよくないと思う」

「っ……」


 図星だったらしく、天野ははっと顔を上げて目を見開いた。こちらをにらみつけているようであり、恐れを抱いているようでもあった。


「先輩に私の何が分かるんですかっ」

「分からないよ」


 僕は努めて冷静に答えた。


「分からないから、話をするんだ。知りたいと思うから、よろしくお願いするんだよ」

「……意味が分かりません」


 天野はふいと目を逸らし、やけになってクロワッサンを頬張った。


「じゃあ、こうしよう。僕らがこうして知り合ったことに明確な意味を与えるんだ」

「意味?」

「うん。僕が天野の話し相手になる。学校のこと、勉強のこと、知りたいことは何でも教える」

「そうして私に社会復帰させるって訳ですか?」


 警戒と猜疑心を込めた目がこちらを射抜いたが、僕は諦めずに続けた。


「好きにすればいい。戻る気になれたのならそれに越したことはないし、戻る気になれなくても僕はどうもしない。別にスクールカウンセラーをやりたいわけじゃないから」

「で、それで先輩になんのメリットがあるんですか?」


 どこまでも損得勘定にこだわる天野。そんな彼女の言動に自尊心の低さが透けて見えた。自尊心や自己愛といった感情が希薄な人間は、どうにも他人事に思えなくて放っておけない。僕はこの子のために何かしてやりたいと思っていた。


「……自己満足だよ」

「は……?」


 天野があ然として口を開いた。傑作だ。そりゃそうなるだろう。今のは僕の本心だ。本質的すぎてどうしようもない理由だ。


「僕が天野にそうしてやることで僕が満足する。自分が素晴らしい人間だって酔っていられる。それとまあ、天野ともっと話をしてみたい。それだけ」


 しばらくの沈黙。天野は驚いているようだったし、動揺で少し頬が赤らんでもいた。しかし次第に肩が滑らかに落ちていき、それと共に元のクールな顔つきに戻っていった。そして一言、こう言ったのだ。


「サイテーです」

 そして、わずかに目もとを緩めた。


「でも、先輩のことは嫌じゃないです」

「え、ああ、ありがと」


 照れ臭くなって横目をすがめた僕に、天野はすっと手を差し出してきた。


「だから、先輩の好きにすればいいです」

「……うん、そうさせてもらう」


 そうして、僕はその手を握り返した。細くて柔らかくて、打てば折れてしまいそうな手だった。







 それから、保健室で天野の勉強を見る日々が始まった。


「先輩、これどういう意味です?」

「ああ、ここはこの公式を使って、こう……あれ? あ、うん、そうだね。こうだ」


 数学というものは如何せん苦手だが、紗凪の問題を解いてやるくらいの習熟度はギリギリあったようで安心する。

 ふと、保健室の扉が開けられる音がした。


「微笑ましいねえ」

 入って来たのはうちの養護教諭だった。何のことはない四、五十代の痩身の女性で、物静かであまり笑わないものの至って穏和な人物だった。


「あ、お邪魔してます」

「いいえ。君がこの子のことを見てくれるお陰で助かっているよ。美咲ちゃんも放課後になるといつもそわそわしてねー……」

「してません」


 きっぱりと、先生の言葉を全否定する勢いで口を挟む天野。それに対して先生は


「はいはい」とさして意に介する様子もなく自らのデスクについた。

「……してませんからね」

「分かったよ」


 こちらをにらみつけて再度訂正を試みる彼女に、僕は呆れ交じりの苦笑いで返した。

 と、天野はそそくさとノートと問題集を鞄に仕舞い始める。


「あれ、数学はもう終わり?」

「疲れました」


 相変わらずマイペースに振る舞いながらも、本当に体の糸でも切れたかのように机に突っ伏す天野。


「……大丈夫か?」

 すると、天野は首を動かしてこちらを見た。図らずも上目遣いのようになって、僕はわずかに息を飲んだ。


「今日、授業出たんです。だからすごく疲れました」

「え、すごいじゃないか!」

「いや、二時間だけですし、今までも何度かやってたんでまあ、普通ですけど」


 彼女は謙遜しているが、僕は実質不登校の天野が勇気を振り絞って教室に戻ろうとしているという事実が素直に喜ばしかった。


「私だってこのままじゃ駄目だって分かってるんです。だから嫌でも我慢しなきゃいけない時だってあります。でも、それでも苦しいものは苦しい……っていうか、難しいっていうか」


 彼女の独白を、僕は静かに相槌を打って聞いていた。すると、天野がにわかに目を逸らして、


「だから、その……私、頑張りました」

 文法的にはちょっと変な台詞。でもそのぎこちなさに彼女の葛藤や本音といったものが伝わってきた。そして、その言葉に込められた言外の意味にも、僕は精一杯寄り添おうとした。


「ああ、よく頑張ったよ」

 僕はそっと、その手を天野の頭に置いた。ぽんぽんと叩くと怒られそうな気がしたので、控えめに、本当に控えめに、まるで野良猫にするような手つきで撫でた。


「っ……」

 天野はにわかに頬を赤く染め、ますますこちらから顔を背けようとした。だが少なくとも、嫌がっている様子ではないようだった。


「……」

 それからしばらくの間、沈黙が流れていた。嫌とも言われず、嬉しいとも言われず、僕もこみ上げる感慨からついこうしてしまった所もあって止め時が見つからず、結果としてGIF画像のような光景が出来上がっていた。

 が、とうとう文字通り音を上げたのは天野の方だった。


「あ、あの、もう十分、です」


 天野は両手で口もとを覆い隠すようにしていた。それが恥じらいだということくらいは、僕にも分かる。それに「十分」と言うことは、僕の行為を肯定的に受け取っていたと解釈していいのではないか。と、思わず心臓を掴まれたような心地がした。


「あ、うん……」


 僕は大人しく手を引っ込めながらも、どこか落ち着かない気分でいた。

 すると、


「先輩……私、頑張りますね」

 そう言って天野は、ほんの少しだけ微笑んだ。僕は彼女に何と言葉をかければいいのか一瞬悩み、それからこう告げることにした。


「無理はするなよ」







 それからさらに一ヶ月が経った。

 七月になり、梅雨もじきに明けるかという季節。その日も薄い雲からは残り雨が滴り、夏のむんむんとした熱気を少しだけ匂わせていた。


 天野との関係は良好に続いていた。彼女は不登校による勉強の遅れを少しずつ取り戻し、教室におもむいて授業を受ける頻度も増えていった。未だ友達ができる様子はないが、その辺はまだまだ焦ることはないと思うし、いじめや嫌がらせを受けていないのなら上々だ。

 天野が少しずつ自分の人生を取り戻そうとしているのは嬉しかった。だが、そんな気分もこの日ばかりは台無しにされることになる。





「おい藤崎、ジュース買ってきてくれよ」


 そう声をかけてきたのは、同じクラスの派手目な男子生徒だった。大きく引き締まった図体と浅黒く焼けた肌、刈り込んだ短髪。どれもが僕を威嚇しているようだった。そして何より、その目と声色が。


「え? まあ、いいけど……」

 僕は少し尻込みしながらも、いつもの癖で二つ返事をしてしまう。だが本当の問題はこの後だった。


「よっしゃ! じゃあお前のおごりな」

「はっ? 何でさ。それはあんまりだよ」


 さすがに抗議の声を上げた。しかし彼はそれを上から被せるような気勢で、


「あ? いいじゃねーかジュースくらい。お前優しいから信じてるぜ?」

 拒否を許さない態度。背中に隠したナイフをちらつかせるような気配。それを正面から跳ね除けられるほど、僕は強い人間ではなかった。


「俺とあいつらと、三人分、コーラでな! よろしくっ」

 彼は下卑た笑いと共に僕を送り出した。


「そんな……」


 教室の外で、僕は大きくため息をついた。一回のパシリで済むのなら、せいぜい五百円の消費とその場限りの屈辱に耐えるだけで済む。だが一度そうした行為が許されてしまうと、それを皮切りに同じことが繰り返され、最悪より過酷な目に遭うことになるかも知れない。

 それは、先の見えない人間関係、その中でどうにか得られていた安寧が突き崩されていくような恐怖をもたらした。いま自分の立っている床が酷くぐらついて、頼りないものに感じた。


 ……教室に戻りたくないな。

 ふとそんなことを思った。そして、そこで初めて、僕は天野の気持ちの一端を真に理解できたような気になった。


「天野……」

 校舎裏の自販機に立って、三本目のコーラを取り出して、ぼそりと、不愛想だが健気で可愛い後輩の名前を口走った。


「――呼びましたか?」


 はっとして振り返る。

 果たして、そこには天野美咲が立っていた。相変わらず仏頂面に見えて、少し得意げな目をしていた。


「はあっ! ああ、いやいやいや! 呼んでない! 呼んでないぞっ」

「そうですかじゃあさようなら」


 天野は澄ました口調で踵を返す。反射的に引き止めてしまいそうになったが、しかし僕は伸ばしかけた手を下ろした。

 が、


「……何で止めないんですか」

 天野は勝手に立ち止まって、こちらに非難の眼差しを向けた。面倒くさいが、今は助かった。


「……すまん」

「はぁ……」


 天野は呆れたようにため息を吐き、こちらに歩み寄ってきた。


「先輩ってそんなにコーラが好きなんですね」

「……炭酸はあまり得意じゃない」

「ええ。前に聞きました」

「よくそんな話覚えてたな。で、だいたいの察しは付いてると言いたいのか?」


 すると彼女は無言でうなづいた。


「私にも覚えがありますから」

「そうか……」


 けっこう似た者同士なんだな、僕たち。


「……どうにもならないことだ。僕だってこんなことは初めてだ」

「ええ、知ってます」


 やけに物分かりのいい天野のことが、なんだかくすぐったかった。


「先輩」

「何だ?」

「今日の放課後、私の家に来ませんか?」

「……え?」


 その提案に、一瞬頭が真っ白になる。まさか天野の口からそんな言葉が出るとは思

わなかった。


「なぜ?」

「なぜって……勉強もいいですけど、たまには遊ばないかって言ってるんです」

「あ、ああ……そうだな。名案だ、天才」

「私のこと馬鹿にしてます?」


 テンションが空回りしたせいで変なことを言ってしまった。


「て言っても、何して遊んだらいいのか分かりませんけど」

 ノープランかよ。


「……あ、じゃあ映画でも見るか。何か借りてこよう」

「映画、好きなんですか?」


 興味を惹かれたのか、天野の瞳が少し広がった。


「物語はいいぞ。日々を潤してくれる。天野はどんなのが見たい?」

「そうですね……ホラー映画とか?」

「あー、そういうのは守備範囲外だ」

「じゃあサメ映画」

「お前も大概映画好きなんじゃないか?」

「あとはえーと……恋愛もの、とか? できればシリアスなやつ」

「よし、それでいこう」


 そうして僕らの間に、初めて遊びの約束が交わされた。いくばくかの苦汁をなめれば、天野との約束が待っている。それだけで僕はパシリの一件をやり過ごすことができたのだった。







 放課後、僕らは通学路から少し外れた所にあるレンタルショップで一本の映画を借りて出てきた。梅雨は白い尾を引いて未だ降り続け、僕らは各々に持ってきた傘を差す。僕は緑色の折り畳み、天野は黒地にレースのあしらわれたお洒落な傘だ。


「天野の家ってけっこう近いのな」

「ええまあ。先輩は電車使うんですよね。大変そう」

「まあ、何事も慣れれば、ね」


 そんな話をしている内に到着する。住宅街の中に埋没するような、どこにでもある白カベ二階建ての一軒家だった(天野の前では口が裂けても言えないが)。


「入ってください」

「お、お邪魔します」


 女子の家になど、記憶の確かな限りでは初めて上がる。僕は緊張し浮足立つのを必死に抑えながら玄関を通り抜け、天野に導かれてリビングに入った。芳香剤と香辛料の混ざった、よその家の匂いがした。


「綺麗な部屋」

「褒めてもお茶は出ませんよ」

「お茶くらい出してくれてもいいじゃん……」


 僕の突っ込みを軽く受け流しつつ、結局はお茶を淹れに行ってくれた天野。


 ともかくとして、本当にきれいな洋室だった。ゆったりとしたベージュ色のソファーや重厚感のあるテーブル。高い天井で回っているアンティークな照明付きファン。棚一杯に収納されたCDの数々。少なくとも僕の家はもっと野暮ったい。


 ほどなくして二人分の紅茶が用意され、僕は借りてきた映画のDVDをセットした。部屋の明かりを落とすと雨雲で薄まった日光で丁度良い灰色のシアターが出来上がり、僕らは大きなソファーに人ひとり分の隙間を開けて座った。

 海外の映画の予告がしばらく流れ、お互い無言で紅茶をすする。やがて操作画面に映ると、そこには真っ白な雪景色が広がり、悲壮なインストが流れ出した。


「モールス……」

 天野が、ぼそりと映画のタイトルをつぶやく。


 『モールス』……ラブストーリーとホラーの二面性を持つ洋画で、僕が最も愛する映画の一つだ(ホラーが苦手だといっても、この映画に限っては例外であった)。

 雪に閉ざされた田舎町で、いじめられっ子の少年が吸血鬼の少女と出会い、惹かれ合い、やがて吸血鬼のヒロインの「全て」を受け入れて結ばれるという、退廃的かつ残虐でありながらも繊細で美しい物語だ。


 不穏で暗い画面がしばらく続き、最初は退屈そうに身をよじらせていた天野だったが、次第に視線が画面に縫い付けられたように動かなくなり、途中「わぁ」とか「ひゃあ」とか小さな悲鳴を漏らしていた。


 僕はもちろん、目の前の映画体験を存分に味わっていた。普段は見返すという習慣のない僕だが、本当にいい物語というのは何度見てもその感動が色あせない。

 だがそれ以上に、隣で誰かが一緒にそれを共有してくれている、楽しんでくれているという体験が新鮮で、琴線に触れるものがあった。いや、誰かではなく、それが天野だから感慨もひとしおなのかも知れない。




 映画のエンドロールが流れると、天野は「はあー……」と長い嘆息を吐いた。


「すごかった。なんか、うん、よかった……」

 感動でちょっと語彙力を失っている天野。


「な、よかっただろ?」

 僕もそれに同調しながら、ひっそりと得意になっていた。


「なんか、私たちに似てません?」

 不意にそんなことを言われ、僕は少し驚いて眉を吊り上げた。


「え? まあ、言わんとしていることは分からないでもないけど……」


 社会という枠組みから脱落しかけた天野はさながら孤独で異質な吸血鬼の少女、そして学校内で自分の立場が揺らぐことに怯えている僕は主人公のいじめられっ子。その二人が秘密の逢瀬を重ねる様は、確かにダブっていた。


「でも、天野はちゃんとした人間の女の子だよ」

「そういうことを聞いたんじゃないんですけど……まあいいです」


 と、天野には小さく鼻で笑われてしまった。


「真面目ですよね、先輩は」

「悪いか?」

「いえ、その、素敵ですよ? ただ、疲れないのかなーって思っただけです」

 その気遣いは素直に嬉しいが、余計なお世話だとも、正直思わなくはなかった。だから僕はその言葉に対して無言を返した。


「私の前では、ちょっとくらいふざけてもいいんですよ?」

「僕がふざけたらどうなるのさ?」

「そんなの自分で考えてくださいよ」


 そっちから言い出したことじゃないか。そんな非難がましい目を向けると、天野は神妙な面持ちのままこう言った。


「まあ……例えば、私にちょっかい出したり、とか」


 ……それって、つまり。いや、考え過ぎだ。ちょっかいって言ったら、もっとこう、くすぐるとか、意地悪言ってからかうとか、そういうことだろう。ああそうだ、この状況が僕の思考を不健全にしている。他意は、ない。ないはずなのだ。


「……しないよ」

「どうしてですか?」

「そんなことをしたら、天野がかわいそうだ」

「そんなことって?」


 まるで足に絡まりついて離れない縄のような質問に、僕は苛立たしげに立ち上がった。


「聞くなっ!」

 と、思わず声を荒げてしまったことをすぐに後悔し、僕は口もとに手を当てた。


「……ごめん」

 すると、天野はソファーから立ち上がって僕の手を掴んだ。


「いいですよ。先輩がしたいなら、何しても、私は」

 彼女の目は真剣だった。だが、そこに色恋の気配があるかと聞かれれば、非常に謎めいていたのだった。


「自分の言っていることの意味、分かってるのか? お前、たくさん傷ついたんだろう? だから教室に行くのが嫌で、それでも戻ろうって今頑張っているんじゃないのかよ?」

 真正面から言葉をぶつけ、それから一息飲み、意を決し、あえて強い言葉を選んだ。


「例えばここで、僕が天野を押し倒して、犯されても、それでもさっきと同じことが言えるのかっ? よく考えてものを話せ!」

 だが、彼女の返事は、


「だから、いいですよって」

「なっ……」


 今度こそ僕の思考はフリーズした。分からない。お前が何を考えているのか分からないよ。


「私、先輩を私のもとに繋ぎ止めていられるなら、何だってできますよ」

「それは……」


 つまり、僕を離したくないのか。


 僕は確かに、学校での彼女の居場所を一つあげるつもりで接した。助けになろうとした。天野はそれに応え、思っていた以上に心を開き始めてさえいた。

 だが、こんな風に僕に執着していただなんて、思いもよらなかった。

 依存? 何にしても、彼女の表現は歪んていた。

 そもそもだ、


「何で僕が天野から離れる前提でいるんだ?」

 その問いに、天野は感情の死んだ声で答えた。


「人ってそういうものでしょ? ずっと裏切られてきたんですもん。皆が私を排除しようとする。皆いつかは私のそばから離れていく。だからそれが私の前提なんです。その上で、先輩にはどうしても離れてほしくない。……駄目ですか?」

「天野……」


 何もかもが、悲しかった。

 天野がそんな風にしか考えられないことが、そうならざるを得ない程に彼女が味わってきたであろう苦痛と絶望が、それを天野美咲のような可憐で繊細な少女が背負っていることが、そして今までそれを癒すことができなかった自分自身が。


「やっぱり、こんな私は、駄目な子ですか……?」


 一筋の雫が頬を伝った。そして、涙は堰を切ったように次から次へとあふれ出してきた。天野が少し遅れて、自分が泣いているということに気付いて頬に手を当てる。


「あれ……? ごめんなさい、何で涙が、出るんだろう」


 天野は必死に涙をぬぐい、止めようとするが、それが止む様子はなかった。なのに嗚咽で喘ぐこともしない。

 ただ淡々と涙を流し続ける。まるで心と体が乖離しているかのような不思議な光景だった。


「もういい、天野」


 僕は彼女の手を優しく包み込んだ。

 大丈夫。僕は決して離れない。だから自分を大事にしろ。

 ……口にするのは容易い。だが、そんな無責任な言葉で彼女の心が癒せるとは到底思えなかった。


 彼女のことは放っておけない。そしてそれは自分の心を満たすためにも必要だった。自己満足だと、僕は初めに白状していたが、あえてもっと高尚な表現が許されるのなら、これはそう……愛情で結ばれた絆が欲しかったのだ。


 だから僕が天野を離さないのは、初めから決まっていることなのだ。僕はただ、愛というものの実在をこの目で確かめてみたかったのだ。

 天野が僕を求めてくれる限り、それはいつかきっと叶う。だから今は、彼女に安心してもらいたかった。


「そんなに頑張らなくてもいいんだよ。天野が僕を信じられないなら、それも仕方ない。でも、どうか思い詰めないでくれ。僕の前ではもっと力を抜ていてよ。僕は僕の好きで天野と一緒にいる。今が幸せなんだ。だから、天野が無理してまで僕を喜ばせるのは、悲しい」

「先輩……」


 少し顔を上げた彼女の目に、光が戻ってきた。


「今は分からなくてもいい。だから時間をかけて、僕が教える。いいよね?」

 すると、今まで強張っていたのであろう天野の肩が、ふっと下がった。


「……私、やっぱり馬鹿な子だ」

「教えがいがあるな」


 そう皮肉を言ってやると、天野は「ぷっ」と吹き出した。


「ふざけないでください」

 意趣返しか、さっきと真逆のことを言う天野。しかし、


「でも……ありがとうございます」

 そう言って、天野は不意に顔を近付けてきた。


 思考も反応も追いつかないような刹那のこと。

 その小さな唇が、僕の頬に触れた。

 すぐに離れた。甘い余韻を残して。

 窓の外で降る白い雨のように、儚くて瑞々しい瞬間だった。


「えへへ……」

 天野は得意げな微笑みを浮かべ、その頬を桃色に染めていた。


「おい、今……」

 目を白黒させる僕に、天野は言った。


「今のは、私の純粋な気持ちからです」


 ……まったく。

 こいつは、まだまだ変われる。ずっとずっと大きくなる。そんな気がした。


「もっと色んなことを教えてくださいね、先輩っ」






fin.

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

白い雨 西田井よしな @yoshina-nishitai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ