オシリスは夢のなか

涼森巳王(東堂薫)

プロローグ



 深い眠りから覚めると、悲しみがおとずれる。

 永遠に埋まることのない喪失感が心の翼を折る。


 ついさっきまで、たしかに自分は神だった。

 人智をこえた至高の存在として、すべてにおいて満たされていた。

 だが、こうして機械のなかの不自然な充足感から現実に戻ってみれば、ただの孤独な人間にすぎない。


 人々は自分を完ぺきな存在だという。

 しかし、それはまちがいだ。

 自分こそ、誰より不完全な存在だと思う。


 幸福なころの私は完ぺきだった。

 でも、今の私は半分。

 私たちは二人で一つの完全体。

 あの人がいなければ、私は、なんと中途半端な愚か者なのだろう。自分の感情さえ、ままならず、過去の自分にたよる始末だ。


「おはよう。オシリス。お目ざめの気分はいかが?」


 声をかけてきたのは、ナニーのメアリだ。

 私が生まれたときからの世話役である。

 メアリの声を聞き、私は専用のベッドからおりた。今回の眠りの周期は一年だった。いいデータは得られたのだろうか。


「いつもと同じだよ。おはよう。メアリ。今回は何日、起きていられる?」

「十二日よ。むこうに食事の用意ができてるわ。シャワーをあびたら来て。スケジュールは、ぎっしり、つまってるから」


 覚醒時の流動食を思うと、ため息がでる。

 そのあとは、どうせ、例にたがわぬデータチェックと頭脳労働。分きざみの処理が求められる。

 それだって、以前は幸福だった。

 いつも、かたわらに、あの人がいたから。


 ため息をつく私を、メアリが同情的な目で見ている。

「今日は、あなたに会わせたい人がいるのよ。楽しみにしていいと思うわ」


 さては、また複製体を造ったのだなと思う。

 だが、そう言われれば、心がはずむ。

 私自身がデザインして、どうしても以前と同じにならないのだ。ほかの人間が造ってもムダだ。期待はしないでおこう。

 そう思いながら、やはり心のどこかで希望が芽吹いてくるのを抑えることができない。


 抑制できない希望というのは、やっかいだ。

 今度も裏切られることになると、わかっているのに。その感情を抑えることができない。

 あるいは今度こそ、あの人に会えるのではないかと、はかない望みをいだいていしまう。


 だが、しょせんは、はかない望みだった。

 急いでトランスルームをとびだした私が見たのは、あの人ではなかった。待ちかねていたスタッフたちの表情も、私の顔を見て、みるみる、くもる。


「ダメなの? オシリス。彼女、とてもよく似てると思うけど。塩基配列の予測復旧率は99・6パーセントよ」


 99・6——そう。外見上は、ほぼ違いはない。あの人より少し鼻が高すぎ、ほんの少し指が短い。

 でも、そんなことが問題ではないのだ。

 わずか0・4パーセントの差異が、こんなにも決定的な違いとなるのだろうか。

 この人と私の波長はあわない。


 二つに割った一枚の絵皿のように。

 どんな細部の心のひだまで、ぴたりとあった、あの人の波長とは似ても似つかない。

「この人は、イシスではないよ」


 周囲で、ため息が嵐のように起こった。

 彼らが、私の悲しみをいやすために、精いっぱいの努力をしてくれているのは、わかっている。けれど、こればかりは気持ちをごまかすことはできない。


 やはり、不可能なのだ。

 失われた遺伝子情報のデータを一から組みなおすことなど。


 前回は99.18パーセント。

 その前は奇跡的に、99.67パーセントまで回復できた。しかし、99・99999%同一の遺伝子を持つ一卵性双生児でさえ、その指紋は異なる。

 ましてや、彼女の差異は0・4%だ。この違いは大きい。再生させた仕上がりは、とても満足できるものではなかった。


 何かが違う。

 口では説明することのできない何かが。

 しいて言うなら、魂の不在。

 姿形は酷似していても、それは魂のない人形。器だけの、なかみのない空虚ないれもの。


(あの人に会いたい。あの人をとりもどせるなら、どんなことだってする。たとえ、そのために罪を犯そうとも)


 その思いが年々ふくらんで、私の心を病魔のようにむしばんでいく。

 それは、神のごとく生かされるために生まれてきた者として、あってはならないことだ。

 思いを押しころしていた。


 ちょうど、そんなときだ。

 あの人の気配を感じたのは。


「——オシリス、聞いてる? こっちが、この一年間に発表された論文と科学誌。それと、こっちが、うちで続けてきた独自の研究データ。あなたの意見を聞きたいわ」


 ひろげられた電子ペーパーを読みながしていた私は、とつぜん、頭のすみに針をつき通されたような、するどい感覚を受けた。

 あの人がいると、はっきり感じる。


「オシリス?」


 私は、そくざに行動に移した。

 人類の英知をすべておさめた、この頭脳が、逃げだすなら今しかないと告げていた。


「メアリ。すまない」

「え……?」

 メアリが聞きかえしたときには、その体はイスのなかに深く沈みこんでいる。

 私のESPで催眠状態におちたのだ。

「お眠り。深く」


 監視カメラが、私の行動をとらえていた。

 セキュリティ機能が作動するまで、三十秒しか猶予ゆうよがない。

 その三十秒以内に、研究所のメインコンピューターに侵入し、プログラムを変更する。

 私にとっては苦もない作業だ。


(あの人は死んだのだ。私のイシスは。私は愚かなことをしようとしている)

 思いつつ、体は、すばやく正確に動きつづける。

 セキュリティの解除。

 逃走経路の確保。

 職員の足止め——

 コンピューターをあやつって、工作するのに二分とかからない。


(もうすぐ会える。あの人に……)


 その日、私は生まれて初めて、外の世界を見た。

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