その2 妊娠七ヶ月
結局、妻とロクに会話も出来ないまま、次の定期検診になってしまった。
「私はやっぱり、死なせたくありません」
朝からずっとだんまりだった妻が医者の目の前に座るや、私に確認もせずにそう言った。
記憶の消去を申し出てくると踏んでいた医者は複雑な表情を見せた。困ったのか驚いたのか、それとも怒ったのかわからない顔であった。
「では、治療で運命を少し変えてみましょうか?」
と、医者は何とか知恵を絞り出し、唸りながら提案してきた。
「治療というのは?」
妻がそう前のめりで聞くのを、私は冷めた感じ見ていた。そもそも、そんなものがあるなら前回の検診で真っ先に言われているはずだ。
「お薬を処方します。奥さんと旦那さんに1日二回、飲んでいただきます。それでお二人の性格を少しだけ変えていきます」
「それで運命は変わるんですか?」
「性格が変われば、行動が変わり、お腹の子の周りの環境も変わりますから……一応スピンパネルに多少の影響が出ると思います……けど」
医者は私に助けを求めるような視線を向けてきた。
それから私と妻は朝、晩と錠剤を飲む事となった。
薬の中に入っているナノマシンが、我々の遺伝子の眠っている部分を呼び起こしているそうだ。
そのせいか、数日で私の性格に多少の変化し始めた。
朝起きてテレビのニュースを見るのが日課であったが、集中ができないというか、どうもニュースが頭に入ってこない。むしろ後ろから聞こえる声に食事を妨げられている気がして、ついにテレビを切ってしまった。
いつも着ているセーターの襟元のタグが皮膚に当たっているのが妙に気になりだした。タグを破ってみたが、今度は襟元の毛糸が肌に当たることが煩わしくなり、パーカーなどスポーティなものを着るようになった。
鼻をかんだティッシュを投げても、いつもよりもゴミ箱に入らなくなった。
どうも、性格が少し大雑把になってきたようだ。
妻も就寝前はいつもドラマに夢中になっているのに、足を組んだままピクリとも動かず読書をしている。
「おい、足を動かすなよ」
私は足をこちらに向けて組んでいる彼女にイライラした。
ほんの少しの性格のズレで黙って妻と一緒にいるのさえ、少し煩わしく感じるようになってきた。
案の定、薬の成果は実らず、次の検診でのスピンパネルも結果も前と変わらなかった。が、それでも妻は必死に医者に食い下がって治療を続けたいと言った。
「しかし、これ以上やったとしても……」
医者の困り顔を見れば、なにも手の施しようのない事ぐらい解らないのだろうか。
私は内心でイライラし、貧乏ゆすりが大きくなっているのに気づいた。
「どうでしょう? もしあれでしたら……同じ症例でBプランの治療を行なった親子とお話をしてみますか?」
医者が話を変え、体を妻から私側へ向けた。
医者は最初からBプランを選んで、早くこの問題を終わらせたいのだろう。私も記憶が消えるなら、お腹の子には残念だが致し方ないと覚悟は決めている。
これは妻を説得するための助け舟なのだろう。
「Bプランというのは? お腹の子を別の子に変えるプランですよね?」
「ええ。実際に会ってみて、どれほど記憶が消えるのかを確かめてみるのもいいかもしれません。あくまでも選択肢としてですけど」
私は妻の手前、少し考える素振りを見せた。本当は二つ返事で乗りたかった。
「まぁ、可能性を広げる上で、会ってみるのもいいかもしれませんね」
先生の提案に賛成し、「初めての出産に悩んでいる夫婦」という肩書きで、妻とプランBで別の赤ん坊を授かった母親を観察しに行った。
「そりゃ、生まれてきたこの子の姿を見れば、そんな不安なんか飛んで行きましたよ」
話してみると医者の言っていた通り、彼女の前の子供の記憶は全て無くなっていた。
私は「これなら安心だ」と自分の中に残っていた記憶を消すことへの不安は全て消えた。
だが、その帰りの車の中で、妻はまた駄々をこねた。
サンプルの母親の記憶は完全に消え、幸せそうに次に授かった子供を抱きしめてたにも関わらずだ。「一体なにが不満なんだ」と性格変化の薬で短気になっていた私は、車内で初めて妻に怒鳴ってしまった。
そもそも、この性格の薬だって妻のせいで飲まされているのだ。
本当に勘弁してほしいという気持ちである。医者だって困っているのに。妻のワガママに全員が振り回されいるのだ。
「五歳で死んだ子供の両親に君は『幸せな人生でしたね』って言えるのかい?」
「私たちの人生だって、神様から見たらたった百年程度じゃない」
論理が破綻している。負けていることに気付かない人間と議論などしても意味がない。
苦し紛れに言い返してきた妻に、私は呆れてしまい、そこから家に帰るまでなにも話さなかった。
妻は私を「事なかれ主義」だと言ったが、私に言わせれば、彼女こそ勝ち目のない戦いを挑んでいる無謀な人間だ。
大きな災害や自然の力に人間が立ち向かっても勝てるはずがないのだ。それに挑むのは勇敢ではなく、ただの無謀だという事が世間知らずの彼女にはわからないのだ。
せっかく医者にとても良いサンプルを紹介してもらったのに、結局彼女は頑固な考えを変えようとはしなかった。
それどころか、何が不満なのかと聞けばダンマリを決め込んで、窓の外をずっと眺めていた。
私も流石に子供すぎる彼女に我慢の限界だった。
家に帰ると、私は今まで溜まっていたものが爆発し、自分に処方されている薬をゴミ箱に思いっきり投げつけた。
「こんな薬を飲んでも無駄なんだよ! 君は困ってる医者の顔が見えないのか! 記憶を消してリセットすればいいだけの話だろ! もう、それで決めてるんだよ、みんな! わからないのか!」
私は次々と妻に向けて、殴るのに近い言葉を吐き続けた。
しかし、妻は言い返してこなかった。むしろ最初は私の罵る言葉を歯を食いしばって聞いているように見えた。
私の何かを待っているような目であった。私には彼女が何を考えているのか全く分からない。
その後、妻は無言で一人寝室に入って行った。
「夫婦の決別は食事から始まるんだよ。朝起きてキッチンからする朝食の香りに食欲が失せたら、離婚へのカウントダウンだと思え」
次の日の朝。
教授のその言葉が胃袋に直撃した。いつもは香ばしい香りだったはずなのに、今日は何故かその匂いが食欲を奪ってくる。
流石に言い過ぎたと反省した私は「一度、妻の話を聞こう」と仲直りをする決意をし、重い体を起き上がらせ、リビングに向かった。
「おはよう」
最初の挨拶が肝心だ、と、いつもより明るい声で言ったつもりだった。が、返事は返ってこなかった。
それどころか妻の姿が見当たらなかった。
テーブルには私の分だけの朝食の準備がしてあり、人の気配が家のどこからもしない。
「おい! おい!」
慌てて玄関に走ると、妻の靴だけが無くなっていた。
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