12.九条坂 その5

「よー、櫂の兄貴」

 その声が聞こえたが、久吾は無視した。


 深夜のコインランドリー。

 店内には新規客向けの設備投資など無駄だと言わんばかりに旧式の器機が並び、照明も少なく暗い。

 半年前に家の洗濯機が壊れたのを機に、久吾は時折ここを利用していた。古くとも広い店内には逆に維持費が嵩みそうな洗濯機が並んでいるにも拘わらず、いつも閑散としている。家の洗濯機はとうに新しいものに買い換えているが、何かを一人で考えたい時にこの場所は最適だった。


「なぁ何、無視してんだよ」

 したがって届いた声は不必要なものでしかなく、無視の継続が有益と言えた。

「おーい、聞こえてますかー、おーい、不良刑事ー」

 だがそれも忖度してくれる相手でなければ意味を為さなかった。久吾は相手へと殊更不機嫌な表情を作って向き直ると、言葉を返した。

「うるさいな。俺が何も言わないのは、お前と話すことなど何もないからだ、秋」

 霧原秋。

 反社会組織、霧原組組長霧原一の次男。霧原組自体は三年前に消滅しているが、長男の霧原冬人が残った基盤を利用し、些か怪げな貿易業に精を出している。

 秋は周囲の人々が想像し得るバカ息子像を常に体現していた。

 兄の金で高層マンションに住み、毎夜よからぬ輩と馬鹿騒ぎをし、入学した高校も数ヶ月で退学した。薬物依存で暴力的。双子の妹、霧原留可同様避けて通るべき相手だが、二人とも櫂の友人であるという得難い事実がある。


「はいはい、どーもすみませんでしたー」

 表情とは裏腹の言葉を吐くと、秋は持参した汚れ物を洗濯機に放り込んでいる。二番地区に住む彼が、わざわざここまで出向く必要はない。自分に絡むためであることは重々承知しているが、それを指摘して通じる相手なら何も苦労はしていない。

「なー、九条坂。留可とはもうヤッた?」

 相手からは続いてそんな言葉が届く。

 答えるのも馬鹿馬鹿しいが、久吾は顔を上げた。そのことに関しては強固に否定したい事柄ではある。

「はぁ? 冗談だろ? この世の終わりが来てもそれはない」

「へー、ガキは好みじゃないってか? だけどそれこそ冗談だろ? あんたは櫂に執着してる。半分しか血が繋がってないにしても妹だろ? 兄貴のくせに変態か?」

「くだらない」

 久吾は言葉を吐き捨てると、置き忘れられた雑誌を手に取った。櫂の件に関してはもっと馬鹿馬鹿しいとしか思わなかった。秋はいつもこの件で絡む。だが自分が櫂に執着していたとしても、櫂に特別な感情を抱いていたとしても、クソガキには元より関係ない。


「なぁ、そっちもう少し詰めろよ」

 操作を終えた秋は歩み寄ると、なぜか隣に座ってくる。店内には座り心地悪いベンチがあちこちにあるが、まるで嫌がらせのように身体を擦り寄せてくる相手には辟易する。薬物に依存しても煙草を吸わない秋からそれらの匂いはしないが、吐瀉物の臭いがする時が多々ある。

「お前、もっと離れて座れ」

「えー、別にいいじゃん」

「お前はいつもゲロ臭いんだよ」

「えっ、それマジ?」

 告げると気にしたのか、秋は慌てて服や腋を嗅いでいる。しかし全てが許容範囲だったのか今度は不満そうな顔を向けた。

「なんだよ、全然ゲロ臭くなんてないじゃん。でもそう言うあんたこそ臭いんだけど」

「だったら、余計離れてろ」

「あんたさ、さっきからすげぇ血の匂いがするんだよな。なぁ今夜一体どこで何をしてきたんだ?」


 相手は怪訝な表情でこちらを見ている。

 でもその答えは安易には見つからなかった。

 今夜、何かをしてきた訳ではなかった。

 ただ、死体を見てきただけだった。

 川原の草むらに遺棄された若い男の死体。だが彼を若い男と指し示して見せるのは、その身体で唯一無傷の顔だけだった。

「さあな。もしかしたら四、五人殺してきたのかもな」

「あのさぁ、それ全然冗談になってないんだけど。あんたってさ、一見真面目でお堅そうに見えるけど中身は真逆。その眼鏡とかさ、前々から訊こうと思ってたけど、最初っから人を騙そうとしてそんな顔してんの?」

「……」

「なぁ無視すんなよ、九条坂」

「……うるさいな、なせ俺がお前の質問にご丁寧に答えなきゃならない? そんな義務は俺にはない。それに俺のことをああだこうだ言う前に、お前こそクスリをやめろ。そうじゃなきゃ櫂に近づくな」

「俺、ドラッグなんかやってない……」

「嘘つけ」


 言葉を叩きつけると相手はようやく黙る。静かになったのはいいことだが、不都合があると黙り込むところは本当に子供ガキとしか思えない。

 久吾は隣の横顔を見る。留可とは趣が異なるが、彼も人目を惹く相貌であるのは変わらない。だが残念なことにどちらもと、注釈がつく。

 白い眼帯の下の彼の左目は見えない。自分で抉ったからだ。

 左目の視力がほとんどない自分。この妙な共通点を思うと、三才の櫂を連れて右往左往していた少年時代を否応なしに思い出すことがある。しかしそれはどこまでも中途半端な感傷でしかなく、今もこの先も不必要なものでしかなかった。

 場を読んだようにちょうどいい頃合いで鳴り響いた洗濯終了の音に立ち上がる。

 余計なことばかりに考えが散って目的は全く果たせなかった。

 これから家に戻り、寝酒でも飲んで早々に就寝する。ここでの出来事も含め、夕刻からの出来事を片時だけでも忘却の彼方に押しやることに励みたかった。


「なー、九条坂」

「なんだ」

 紙袋に衣類を押し込んでいると、呼びかけが届く。

 名前を呼び捨てにするのはやめろとかなり前に忠告したが、もう諦めている。おざなりに返事を戻すと、相手は言葉を繋げた。

「あのさ、地獄ってどこにあると思う?」

「はぁ? 地獄だ?」

「そ、地獄」

 やや神妙な言葉の後には、洗濯機の音だけが響いて残る。

 あまりにもくだらない質問と思うが、無視するのも余計に面倒な気がしていた。


「阿呆か。そんなもの俺が知る訳がない。でもお前ならいずれそこに行けるんじゃないか? その時まで楽しみにしてろよ」

「なんだよそれ。俺、真面目に訊いたのに酷いこと言うんだな。あんた大人だし公僕だろ?」

「真面目か何か知らないが、くだらないことを訊いたからだ。俺の中ではマシな方の答えだったよ」

 振り返ると、ベンチには気落ちしたようにも見える秋の姿がある。

 でもその姿に騙されはしない。霧原秋はこれまで出会った少年の中で最も警戒心と猜疑心を必要とする相手だった。

「地獄ってさ……どこにでもあると思わないか?」

「なんだ、お前まだ言ってるのか? 全く阿呆らしい。ガキの言葉遊びにはこれ以上付き合ってられない。じゃあな」


 久吾は店を出ると、夜道を歩き始めた。だが足には僅か心を留めるものが残る。

 振り返った暗い通りには、蛍光灯の明かりを煌々と放つコインランドリーがある。

 俯く少年の影が薄く見えるのは、自分の中の何かが刺激されたからか。

 地獄はどこにでもある。その言葉は自らの周囲にある様々なものを指しているようにも感じられたが、しかしそう思うこと自体が何かを認めてしまうようでしたくない。

 一匹の黒猫が道を横切って、暗がりに消えていった。

 地獄はどこにでもある。

 その言葉を久吾は微かな声で繰り返した。



〈1.男とその妹、それに双子、殺人鬼に、あと、コインランドリー 了〉

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