11.奈津川
今日もうまくいかなかった。
でも彼自身、何をどうすればうまくいかないことで、何がどうなればうまくいったことなのかよく分からなかった。感覚として正解不正解とするものは霧の向こうにぼんやり見ることはできるが、それは自分がしてしまったことのように絶対的決定感を持っていなかった。
「どうしたらいいんだろう……?」
返答の見つからないそれにはいつもの呟きが漏れ、つい背後の気配に話しかけてしまいそうになる。
だがそこにもう『彼』はいない。そのことを思い出せば己の愚かさも蘇ることになるが、今夜幾度目かになる溜息を繰り返すだけだった。
フローリングの床には変色しかけた血が広がっている。
死に至らしめてしまった『彼』を草むらに放置したことには心が痛むが、ずっとここに置いておく訳にもいかない。自分が連れてきておいて尚かつ相手の自由を奪っておいて言う言い草でもないが、ここで『彼』に腐乱されることは、自分自身ちょっと耐えられなかった。
「こんなの本当に勝手だよね。だからこんな僕は、この世から消えてしまえばいいのに……」
自らを嫌悪するが、やり残したことを放棄できず、この世に未だその未練があることを思えば、命を絶つこともどうにもし難い。
絵に描いたような身勝手さは身に刻むように自覚し、筋を通せない自分を思う度に嫌悪は増す。でもその辺りの思いはいつもぐるぐると巡って、最終的には毛布にくるまって叫ぶことで、いつの間にか解消されてしまっている。しかしそんな自分を再確認するに至ると、益々嫌悪は増す。
「うん、でもとにかくまず掃除をしないと」
奈津川は立ち上がると納戸から掃除道具を取り出し、血を拭き取る作業に没頭することにした。だがそう思ってもいつの間にか嫌悪と後悔が蘇って、頭の中を占めることになる。
「僕なんか……僕なんか……」
いつの間にか呟きながら血を拭っていることに気づき、一旦手を止める。
このままでは集中もできず、作業は捗らない。
けれどもこの進捗を妨げるものを解消するには、他に代えられないいい方法があった。
奈津川は汚れた手を石鹸とブラシで丁寧に洗うと、寝室に向かった。通販で購入したばかりの踏み台を使ってクローゼットから小さな箱を取り出し、静かに床の上に置く。
箱の蓋を開けると、そこには幾枚ものポラロイド写真が入れられている。
それは部屋に
「うん、君達はここにいる」
それらを順に手に取り、眺めていると徐々に気が晴れてくる。幾度も繰り返し堪能し終えると、奈津川は立ち上がって壁の鏡に向かって話しかけた。
「ねぇ、僕は、いつか捕まっちゃうよね」
罪の意識はある。
だがそれが存在する場所と、自分の心の在り処は些か剥離している。どこか遠い国の話のような、この鏡の向こう側の話のような、奈津川にはそんな感触がある。
「ねぇ、君のいる鏡の中はどう? 毎日は上々? おんなじだけど、全く違う世界がそっちには広がっているんだよね? 君は毎日どうしてる? 僕みたいにいつも悩んでる? もしそうだとしても二人で悩めば、この問題はいつか解決するのかな……?」
鏡を見ながら髪を梳くと、そこに白いものがつく。
慎重につまんで見確かめたそれは蛆だった。
改めて見れば丁寧に洗ったはずの掌には、大量の蛆が蠢いている。
それを見て、うふふ、と笑みを零せば、その分楽しくなった気もする。
けれどまばたき一つの間に、それらは姿を消していた。
見下ろした場所には、石鹸の香りが漂う清潔な掌しかない。
今見たものが幻だと判断できる正気はまだここにある。でもそれを認識すれば、残されるのは落胆と孤独だけだった。
「完全にそちら側に行けたら、きっと楽なんだろうな……」
鏡の中には、先週二十才になったばかりの若い男の姿がある。
清潔な髪に清潔な服。自分が自分だと認識する姿はそこに見ることができるが、ここにいる自分は本当に現実世界の自分なのだろうか……。
「分からないな……だけど分からないことが、僕には少し救いなんだ」
鏡の中にいる男は無表情でいるが、その口元が微か笑ったように見えた。
何かの始まりにも見えるその光景に、奈津川は弛まない笑みを浮かべた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます