トロウビョウ
村雨廣一
番外編*
まだらのゆめ
▼とくに本編とは関係がない
▼夢の話
―――
子供の声がした。
その子供はなにもない空間でただ一人、あふれそうな涙と鼻水をこらえながら、口をへの字に曲げて座りこんでいた。それを見た瞬間に理解する。
――ああ、これは夢だ、と。
ついでに言うとあの子供は小さい頃の自分だ、ということも。
さっきまでTシャツ一枚で布団に包まっていたはずなのに、ふと視線を下げればいつものスーツとすり減ったブーツが視界に入る。重さは感じないもののしっかり仕事道具まで担いでいることに気づいて、やれやれ、夢の中でまで仕事はしたくないなとため息をついた。
「ねえ、君」
自分への呼びかけ方を少し考えたが、どうせ全部夢だ。
カツンカツンと靴を鳴らして、子供に近づく。
一歩踏みだすと、靴底が水を跳ねた。
もう一歩進むと、無機質なコンクリートの壁が二人を囲むように現れた。
さらに一歩近づくと、土と草と、鉄の臭いが眼の奥を揺らした。
「そんなところで泣いてなんになるの」
子供が身に着けている清潔な白い服からは、あまり日に焼けていない細身の四肢が伸びている。怯えたような、それでいて無関心な子供にもう一度問う。
「声も出さずに泣いて、君はなにがしたいの」
わかんない、と、しばらくの沈黙の後に子供は答えた。
問われたから仕方なくそれっぽい答えを出しました、というような声で。
「……ふうん」
斑は子供の座っている塀の下にスーツケースを底が水にすっかり浸ってしまうのも気にせずに置いて、その上にすとんと腰かけた。コンクリートの壁はどこまでも続いているように思えたし、どこかで崩れているようにも思えた。周りをよく見ようとするととたんに世界がぼやける。もたれた壁を爪でひっかくとぽろぽろと細かな砂になった。背中を預けていても温度を感じることはできないのに、目の前に広がる年月の経っていそうながれきの草原からは、鮮明な匂いを感じることができる。
望んでいるのだろうか、と斑は自分に問いかける。
(“あの場所”がこうなっていることを…? それとも畏れているのか、夢の中でも)
「ねぇ」
ふと、頭上の子供から声をかけられた。
斑が顔を上げるも、子供の顔は見えなかった。
「いきててたのしい?」
「は?」
「たのしいことはある?」
子供の顔を見ているはずなのに、視線がかち合わない。
「……、君よりは楽しんでると思うよ」
「すきなひとはいるの?」
「いるよ」
「どんなひと?」
「……よく知ってる人だよ。君のことを、世界で三番目に愛してくれる人」
いいな、とどこからともなく声が聞こえた。
あいかわらず子供の表情は見えない。目鼻口はなんとなく認識できるのに、顔として理解することができない。
「ちょうだいよ」
「わたしにはないもの、ぜんぶちょうだい」
「いいな、たのしそうでいいな」
いいな、いいなと少女は繰り返す。その声と、草木に飲まれた廃墟とで場面が慌ただしく入れ替わる。
斑は、もうすぐ自分の目が覚めるのだと察した。
腰かけていたスーツケースを踏み台にし、背よりずっと高い塀の上に飛び乗る。そして座る子供の胸倉をつかんで引き寄せて虚空のような暗闇をあざ笑う。
*
「……、斑! おーい、起きんか、こら」
乱暴なセリフとは正反対に、優しい指先の温度に目が覚める。
目を開けると、しかめっ面をした久万が片膝をついて斑の頭を撫でていた。
「……、む」
「うなされてたぞ、めずらしいな」
額にかかった細かい髪をよけてくれるその指先からは、食器用洗剤の匂いがする。んっと伸びをするついでに吸い込んだ空気には、焼け始めた魚とみそ汁の匂いも含まれている。朝飯食うだろ、なんてしかめっ面のまま微笑む久万につられて、斑もふと表情を緩める。
(―ー久万さんは誰にも渡すもんか)
/end
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