14話

 しばらく歩く2人。表参道まで来ていた。健がカフェを見つける。


「ここがいい、入ろう。」


 テラス席のあるカフェだった。テラス席に2人は座る。コーヒーを飲む。


「久しぶりだね、元気だった?」

「はい。健さんは?」

「なんとかやってるよ。」


 思え返せば、加波子の誕生日の翌日のあの電話以来、健とは一切何もなかった。それを忘れさせてくれる空気を、健は加波子に与えた。気が咎めた加波子。


 話が始まる。主に加波子は聞き役。加波子はいつでもどこでも誰に対してもそうだった。たったひとりを除いて。


「仕事は順調?」

「え?あ…仕事…。特に何もないので、順調って言えるのかな。」

「加波子ちゃんはずっとOLやってるの?」


 加波子はあまり話したくなかったが答える。


「本当は、サービス業に就きたかったんです。でもどんな職種も、やってみるとつらくて長続きしなくて。そのうち、自分のやりたいことと自分にできることが、どんどん離れていって…もがいてました。」

「それはつらいことだね。」

「はい…。そうしてる間に気づいたんです。自分には、淡々とした事務仕事が向いてるんじゃないかって。でも、認めたくなかったんです。若かったからですね。」

「それで、加波子ちゃんはその後どうしたの?」


 加波子はコーヒーを飲んだ後、話を続ける。


「そのうち精神的にも経済的にもきつくなってきたので、資格も何もなかったんですけど、事務の面接を何社か受けて、今の会社にいます。入社したら案の定、事務仕事がしっくりきて。もがいていた時間が、色んな意味でもったいなかったなって思いました。」


 懐かしむ表情をした加波子は、またコーヒーを飲む。


「へぇ。加波子ちゃんにそんな時があったなんて。苦労したんだ。努力家だね。」

「…何言ってるんですか…。苦労も努力も、健さんに比べたら全然です。それに…努力が全て報われるとは限らないこともわかりました。…私の力が足りてないだけかもしれないですけど…。」


 健は何気なく聞いているようで、いつもしっかり聞いていた。


「加波子ちゃん、どうしていつも自分を卑下してばかりいるの?自分のこと好き?」


 加波子は答えに困る。


「えっ…と…、自分のこと…。よくわからないけど、自分に自信を感じたことは、ないかもしれません。…情けないですね。」


 しょんぼりする加波子はまたうつむく。


「またうつむいた。加波子ちゃんはうつむくのが癖?…そんなにつまらないなら…。」

「帰っていいよ。…嘘だよ。いてよ。…きっとあなたはそう言う。」


 健は驚いた。


「びっくりした…よく覚えてたね。そうだよ、いてよ、ずっと。」


 加波子の目線は変わらない。


「じゃあ、加波子ちゃんがうつむかない話をしよう。」


 何のことだろうと加波子は目線を健に移す。


「しがないOL、やめないか?」

「?どういう意味ですか?」

「オレは今渋谷区に住んでるんだけど、オレには居心地がよくてね。通勤はつらいけど、動きたくはない。」


 健はどんどん続ける。


「今住んでる部屋は、2人が住むには狭い。同じ区内でいい物件、一緒に探そう。それと、加波子ちゃんは昼間は家にいてもいいし仕事をしても構わない。そのへんにこだわりはない。細かい話はこれからしていこう、少しずつでいい。あとは…。」


 加波子は手を少し前に出し、慌てて話を止めようとする。


「ちょっと待ってください、何の話ですか…。」


 健は加波子の出した手を握る。


「結婚しよう。」


 確かに加波子はうつむかない。逆に加波子は健をずっと見つめる。見つめているのか、動けなかったのか。


「君はもっと自分を誇るべきだ。不器用だけど、真っ直ぐで純粋で力を出し惜しまない。無垢で魅力的な女性だ。なのに、今のままじゃそれがすっかり曇っていて見えない。それじゃだめだと思わない?加波子ちゃん自身もつらいはずだ。」


 その言葉に、さすがに目線を落とす加波子。健は加波子の手をさらに強く握る。それにドキッとした加波子は目線を上げる。健の眼差しは強い。しかし優しさも感じられた。


「オレはそんな加波子ちゃんの雲を晴らしたい。堂々と笑ってる加波子ちゃんが見たい。それがオレの気持ち。加波子ちゃんの雲を晴らして、幸せにする。してみせる。」


 痛いくらいの衝撃。突然のプロポーズ。フリーズした加波子はまだ何の言葉も出ない。健は加波子の手をそっとテーブルに置く。


「初めて会った時、覚えてる?合コンの後、コーヒー飲んで駅まで加波子ちゃんのこと送ってさ。あの時、加波子ちゃんが見えなくなるまでずっと見てたんだよ。おかしいと思わない?その時、もう加波子ちゃんのこと好きになってたもかもしれないな…。」


 やっと加波子の口が開く。


「見えなくなるまで…ずっと…?」

「そう、ずっと。もちろん加波子ちゃん気づかなかったけどね。それでも、見ていたかったんだ。」


 加波子の目の焦点が揺れる。そしてまるで呪文のように呟いた。


「見えなくなるまで…ずっと…見えなくなる…まで…ずっと…。」


 加波子は目を閉じる。雨の中、傘をささずに走って去っていく男の後ろ姿が加波子の頭の中に映し出される。ノイズのせいでよく見えない。


 次の瞬間、加波子は視界も頭の中も真っ白になった。フラッシュバックだった。


 亮だ。亮と亮とのことが一瞬で、そして一気に加波子に広がった。


 目を開けても閉じても真っ白の世界。加波子の肩は斜めに傾き、頭に手を添える。すかさず健は手を差し伸べる。


「どうしたの?大丈夫?」


 加波子はその手を避ける。


「違う…違うの…。」


 少し目眩がした加波子。


「何が違うの?加波子ちゃん?」

「違うの…。」


 加波子は自分を必死に落ち着かせる。ギュッと目を閉じ、どんな強い感情をも必死に抑えた。深呼吸をした後、閉じていた目をパッと開き、強く健を見る。


「私は…、足立区のしがないOLをやっていたいんです。そして私の気持ちは…、変わりません。」


 加波子は胸に手を当て、月と星を握る。健は加波子の強い眼差しを見たのは初めてだった。


「ごめん。急だね、こんな話。でも考えてくれないか?待つよ、返事。加波子ちゃんのこと。」

「待たないで。」


 加波子は即答する。そして。


「だから…。」


 加波子は紙袋からブーケを取り出し、テーブルに置く。そして強い眼差しのまま告げる。


「ごめんなさい。」


 その加波子の目は揺るぎないものだった。加波子は席を立ち、荷物を持って去る。そして何事もなかった顔をして歩く。そんな加波子を、健はずっと見ていた。見えなくなるまで、ずっと。


 健は女々しい男ではない。しかしその時だけは、加波子を追いかければよかったと心底思った。ブーケに向かって健は言う。


「待たせてくれよ…。」


 加波子は帰る、あのアパートへ。眼差しは強く、何事もなかった顔で。

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