216 観覧席と一旦休憩、控え室の改装
元々の観覧席は簡素な階段型だった。そのため、興奮した人が前に座る席の人の頭や背中を足蹴にすることもあったとか。
作業の手間を考えると今回も同じで良かったはずだ。幅を広げただけでも観客からすれば楽になったろうと、一瞬思いもした。でもすぐにクリスは頭を振った。やはり妥協なんてできない。
その場で観客席に手を入れる。まず、背もたれの上部に取り付け穴を開け、そこにヘッドレストのような背もたれを作って差し込む。軽魔鋼なので興奮して頭や背をぶつけると痛いかもしれない。急遽、砂鼠の皮をエイフの収納袋から取り出し、縫い合わせてカバーを作った。
砂鼠の皮は本来なら靴底になるような素材だ。ナファル近辺は乾燥地帯で砂鼠が多く出る。素材としては安く、気軽に手に入るものだ。カバーは簡易なので補修も簡単にできるだろう。
この作業も、やっているうちに時間が短縮され、最終的には縫い合わせようと手に持った時点で出来上がっていた。
席の取り付けが終わると、通路を上と下から鉄で補強する。軽魔鋼は加工しやすいが点に弱く、短槍などで強く突いたらへこんでしまう。そのための補強だ。また滑らないようにギザギザのラインも入れた。
手すりも要所要所に取り付ける。特に入り口から観覧席に上がるための階段や通路は広く取って、動線に沿った手すりを設けた。慌てて走って来る人のための対処だ。
お客さん用のトイレも改修した。出入り口から入ってすぐのところなのに狭くて汚かったのだ。広めに取るため、観覧席の下の死角も利用した。天井が低いので、手を洗う場所や荷物置き場、また子供用のトイレにする。
壁側には高い位置に窓を設けて明かりを取り入れた。
観戦するのは圧倒的に男性が多い。とはいえ女性だって来る。デートで一緒に観戦する人もいれば、戦士に憧れる女性だっているのだ。彼女たちのためのトイレと化粧室も作った。数は少なくていい。男女の比率的を考えれば十分である。
ここで、クリスのスキルが一度途切れた。
魔力が限界を超えたというより、お腹が空きすぎたのが原因だった。ガクッと崩れ落ちかけたクリスを支えたのはもちろんエイフだ。
「ごめ、ありがと……」
「このために俺がいるんだ。気にするな。このまま休憩に入れ」
「うん。今、何時?」
「昼を、三時間ぐらいか、過ぎたところだ」
「じゃあ、おやつの時間だぁ」
朝からぶっ通しで、これが限界のようだった。魔力や体力的にはまだ行けそうだが、お腹が耐えられない。
エイフやカロリンも分かっていたのだろう。会場の方に昼食が用意されていた。
抱っこで運ばれたクリスを見て、カッシーがサッと動く。シートの上には分厚い毛布とクッションだ。クリス用の席らしい。エイフがそうっと座らせてくれる。するとカロリンが甲斐甲斐しく世話を焼き始めた。
「あーん」
「いや、自分で食べられるよ?」
「ダメ。あなたは今のうちに休憩するの。動いていいのは可愛いお口だけよ」
「カロリン、言い方」
「うるさいわね、カッシー。さ、クリス? あーん」
「……あーん」
美女に給餌されるという図に思うところがないわけではない。けれども逆らう気力はなく、クリスは雛鳥よろしく口を開けては美味しい食事を機械的に飲み込んだ。
クリスが遅い時間に昼食を摂ったのもあり「ここで終わってもいいのでは」という空気は感じた。
でも、クリスはそんな空気を吹き飛ばすように、希釈した生命の泉の水を飲んだ。アンプルは常に胸のポケットに入れてある。
「よし、魔力満タン!」
満タンになったかどうかは不明だけれど、元気にはなった。食後に横になったのも良かった。気力は十分だ。
早速、続きの住居部分に取りかかった。
住居とは言っているが、出入り口横にある事務所と奥のオーナーの部屋、更に裏口から入る戦士や奴隷用の部屋を指している。家と言うには簡素だ。それも仕方ない。四角い建物の中に闘技場が丸く作られている。その余った部分を使っているのだ。裏の通路もギリギリ人がすれ違えるぐらいの細さである。
その通路は闘技場の非常用出口としても使うため、途中までは共用スペースになる。
広く取れるであろう四隅のうちの一つは出入り口やトイレとして使った。残りも事務所やら通路、招いた戦士の控え室になるため、必然的に奴隷の部屋は狭いままだ。
そもそも事務所とオーナーの部屋自体も狭かった。事務所は倉庫も兼ねており、闘技場で使われる備品の多くが詰め込まれている。オーナーの部屋もひどい有り様だった。荷物が乱雑に積み上げられ、ソファだけが唯一の寝転べる場所になっていた。
これらの荷物は全て外に放り出され、部屋の掃除も済んでいる。奴隷たちが頑張ってくれたおかげだ。だからクリスは簡単に配置を変え、棚を作るだけで改装を終えられた。
全体の位置関係だが、四角い建物を上空から見たとして、左下が会場の出入り口とする。その上が事務所とオーナーの部屋だ。出入り口から右側中央までがトイレになる。
そして右下の空間が、招いた選手の控え室だ。ここに入るには試合会場を突っ切るか、観客席を歩いて行くしかない。
この控え室も観覧席下を利用する。荷物置き場やベッドを置くなどして、できるだけ死角をなくすのだ。
簡易ではあるがシャワー室も設けた。試合後に軽く汗を流したい人もいるだろう。都市だから湯屋はもちろんある。ただ、あえて行くのも面倒だと、水拭きだけの人も多いらしい。衛生的には汗を流してほしいとオーナーも話していたから、クリスとしても全面的に支持した。
他に、筋肉を解すためのストレッチコーナーを作った。その代わり個室はない。取っ払ってしまった。試合に集中したいという繊細な人にはロッカータイプの狭い部屋を用意している。観覧席下にソファを置き「座って」もらうのだ。明かりも付けられるが、暗い方が集中できるのではないだろうか。防音処理も施した。
チッタや冒険者たちに聞くと「控え室に個室はいらねぇ」との意見で一致している。むしろストレッチコーナーの方が嬉しいと言ってくれた。
ストレッチに役立つ幾つかの器具も作り付けにした。床の基礎をやり直した上で、懸垂ができるだけの高さにまで伸ばした鉄棒を設置し、背筋を鍛えられる重石を使った器具など。腹筋用のベンチは、普段は壁に立て掛けておける。どれも簡単だけれど体を鍛えるのに役立つ。でも、実は一番の目玉は大型の鏡だ。
貴族用に売られているものは手に入れるのに時間とお金がかかるため、クリスはカナブンの魔物から剥ぎ取った素材で「なんちゃって鏡」を自作した。
カナブンの魔物はシエーロで手に入れたものだ。キラキラ光る外側を特殊溶液に浸けると、鏡やガラスの代替品として使えるようになる。
特殊溶液は手に入らなかったけれど、プルピに裏技として「灰汁取り石」を使う方法を伝授された。といっても簡単だ。水と素材を一緒に浸けて灰汁取り石を一晩放り込むだけ。
出来上がったのがペラペラの透明な布だ。布というよりはラップフィルムに近いかもしれない。ともあれ、それを黒い板の上に貼る。すると鏡モドキの出来上がり、というわけだ。壁一面に貼られた大型の鏡は、戦士が自分の体を確認するのにも、また部屋を広く見せるのにも役立ってくれた。
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