【掌編】椋鳥の歌

紫上夏比瑚(しじょう・なつひこ)

椋鳥の歌(短編)

椋鳥むくどりになりたいなあ」

 そう云った彼の瞳は、遠い空の夕焼けの向こうに飛ぶ、渡り鳥を見つめていました。

 その日は小学校の帰り道で、お日様が釣瓶落としのように早く落ちる風の乾いた晩秋のことでした。頭の回転が遅く、口数も少なめだった私は、饒舌で頭のいい彼の聞き役に徹するよう任命され、毎日河原の草を自分の尻に喰ませる放課後を過ごしていたのでした。

 博識な彼の話はいつも楽しく、めくるめく新しい世界を私に見せてくれる、のような心地がしていました。

「宮沢賢治の『とりをとるやなぎ』という童話にさ、百舌鳥モズという鳥が出てくるのだけれど」

 彼の難しい話は、今日もなんだかとても楽しいのです。

「あれは本当は椋鳥むくどりというらしい。千疋もの鳥がさ、川べりで不気味に連なる楊の木のイッポンから、いっせいに飛び立つんだ。そうして、椋鳥は北のほうに飛んでゆく途中。――」

「どうなるの?」

 この日、私は珍しく、相槌を打つだけの会話から脱却できていました。彼の語り口のおそろしさに耐えきれなくなって、先に身を乗り出してしまったのです。彼は、私のことなどどこか見えていないような風に、仰向けになって、無防備でやわらかな喉笛を、青と橙の重なった空に晒しました。釣られて夕焼けを見上げると、胡麻粒のように群れを成す鳥たちが、翼のない私たちを、哀れむように見下ろしている気がしました。

「北に飛ぼうとした椋鳥たちは――でできた、別の楊に吸い込まれるのさ」

 すぅ、と渡り鳥の黒い斑点が雲の影に消えました。彼は、感情の昂ぶりが、どうも抑えられなかったようでした。彼の口角が、無邪気にくっと上がるのを見て、私の興奮は最高潮に達し、それと同時に、一種の寂しさのようなものを覚えました。彼の落ち窪んだ頬は、日々の感情にとらわれていて、誰もが当たり前に享受しているみたいな幸せを、心から焦がれるほど夢見ているように見えました。

は、」

 と、彼は誰もが知り得る有名な小説家のことを、まるで近所のお兄さんでも呼ぶかのように云うのでした。

「賢治さんはな、童話の中で、そのエレキの楊に吸い込まれたはずの鳥たちが、石を投げ込まれていっせいにまた飛び立つのを見たんだ。それを見てなお、賢治さんはその楊がエレキでできていて、ほんとうに鳥を吸い込んだのだ、と夢想してやまなかった」

「君は」

「俺は、賢治さんの言うとおり、あの楊は鳥を吸い込むのだと思いたい。そうして、そう希求しているからこそ」

 僕は、と、彼自身が自らを呼ぶ言葉が、揺蕩う水のように変化しました。

「あの楊に吸い込まれる、千疋もの仲間のいる椋鳥たちの中の、ほんの一匹ぽっちになりたいのさ」

 彼の瞳は、もうずっとこちらを見ていません。けれども、彼の孤独が、草の根を這って私の背骨にびしびしと伝わってくるような心地がしました。が語りに選んだ百舌鳥モズではなく、と言われた椋鳥ムクドリを選んだのも――空に浮かんでしまえば、あの渡り鳥の斑点のように、何者にもなれないごま粒の中に埋没してしまう鳥に、彼は心底なりたい、と云うのでした。

 その彼の哲学こそ、私には、なによりも欲しかったものでした。

 だからこそ。

 だからこそ、私は。

「私は、君が……」

 椋鳥でない姿に生まれた君が。

 と。

 か細く、風に乗るようにしか声を発することができない。私の方こそ、群れの中でしか生きることのできない椋鳥にちがいありませんでした。ああ、こんな時ですら……。私は、胡麻粒の鳥の群れの中から抜け出せない。群れからの脱却を焦がれる私と、群れの中に入り込み個を失いたがる彼とが、互いに眼も合わせることなく、眩しさに瞼を細めながら夕日を眺めていました。その様は、どんなにか滑稽だったことでしょう。

 その滑稽さを、彼はふと、

「ぷ」

 と、笑い飛ばしてくれました。気がつけば、彼の瞳は私の方を向いてくれていたのです。

 その笑顔を見て、ああ、やはり彼が椋鳥に生まれなくてよかったと、私は心底思ったのでした。

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【掌編】椋鳥の歌 紫上夏比瑚(しじょう・なつひこ) @alflyla

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