霊体になったので嫌いな女のヒミツを覗いてみた。

悠生ゆう

霊体になったので嫌いな女のヒミツを覗いてみた。

 さて、どうしたものか。

 どう考えても異常な状況だけど、パニックにならずに冷静な思考ができているのがせめてもの救いだ。

 とりあえずこんな状況になった経緯を整理してみるか。

 アタシは今日もいつも通りに会社に行って仕事をした。それで定時で会社を出て家に帰ろうとしていたんだ。ここまではいつもと変わらない。

 それで家に帰る前に駅裏の小さな居酒屋に立ち寄った。これはいつも通りというわけではないけど、週に一、二度はこの居酒屋で晩酌をしている。だから特別いつもと違うというわけでもない。

 特に趣味もないから、ときどきこうして晩酌をするのがアタシの唯一の娯楽と言っていい。小汚い上に店主の口が悪いという快適とは言い難い居酒屋だけど、料理の味と苦しい財布事情でもそれなりに楽しめる料金設定が気に入っている。

 一度の予算は二千円。今日も日替わりの『つまみセット』とビールを二杯頼んで三百円のおつりを受け取った。

 ここまでは良かった。アタシが選択を間違えたのはこの後だ。

 普段なら少し遠回りになっても大通りを通って自宅アパートまで帰っていた。だけど今日はちょっとした出来心で近道を選んでしまったのだ。

 近道になる裏通りは外灯が少なくてかなり暗い。だけど朝や日中は使っている道だからあまり気にしていなかった。

 アタシはその近道をほろ酔い気分で進んだ。そして道の真ん中にぽっかりと口を開けていたマンホールにチップインしたのだ。

 明るい時間帯だったらその穴に気付けたかもしれない。

 アタシは地面から数センチ浮いた状態で足元のマンホールを見下ろしている。

 穴に落ちたショックで超能力が覚醒したわけではない。アタシの体は半透明になっていた。

 これらの状況から推測すると、マンホールの底にはアタシの死体が転がっているのだろう。だけど底まで下りてそれを確認する気にはなれなかった。

 まあ、そんな感じでアタシは霊体になっているのだど、この穴とアタシの死体をそのままにしておくのは忍びない。

 穴をこのままにしておいたら第二、第三の被害者が出るかもしれない。それに万一発見が遅れてアタシの死体が白骨化するなんてなったら最悪だ。

 とはいえ霊体になったアタシに何ができるのかわからない。まずはそれを確認してみることにしよう。

 まずは物を掴むことができるのかだ。アタシは近くに空き缶が落ちているのを見付けてそれに手を伸ばした。すると何の感触もなくすり抜けてしまう。

 試しに壁に向かって歩いて見るとスルリとすり抜けて反対側に出てしまった。

 これはいかにも霊体っぽい。ここまでは想定内だ。

 物に触れない代わりにポルターガイスト的な力が備わっているかもしれない。

 アタシは元の場所に戻って先ほど掴み損ねた空き缶をジッと見つめて集中する。

 空き缶が宙に浮くのをイメージする。空き缶がパンと弾き飛ばされるのをイメージする。空き缶がギュッと押しつぶされるのをイメージする。

 まったく何も起こらない。

 どうやら霊体というのは不便な存在らしい。

 アタシは自分の手を見る。半透明だが確かにアタシ自身の姿を見ることできる。生きている人間にも同じように見えるのだろうか。

 かなり希望は薄いがアタシの姿が見えるのならばマンホールのことを人に伝えることができる。

 アタシは先ほどまで呑んでいた居酒屋に戻ることにした。

 ちょっとの期待を込めて空を飛ぶイメージでジャンプをしてみたが、生存時のジャンプ力以上のものはなかった。数センチ浮いているのは便宜上ということだろうか。仕組みがよくわからない。

 ともかく歩いていくしかないようだ。

 空を飛べないことに思いのほか大きな落胆を感じながらアタシはトボトボと足を進めて居酒屋の扉をすり抜けた。

 店内にいたのはアタシが呑んでいたときから居座っている三人組の常連客だけだった。アタシは三人の間に顔を突き出したり手を振ったりしてみる。

 無反応だ。

 やはり生きている人間にアタシの姿は見えないようだ。

 それなら声は届くだろうか。魂を込めた言葉ならばもしかしたら届くかもしれない。

 アタシはカウンターの中にいた店主の側に歩み寄った。そしてその耳元で叫ぶ。

「こンのオ、セクハラおやいじィ! アタシが独身だろうが一人呑みしてようがどうでもいいだろうっっっ!」

 まさに魂の叫びだった。

 だが店主はまったく気付く競馬新聞をめくっている。

 今のアタシには死体もマンホールもどうすることもできないようだ。

 あの穴に落ちる人が出ないことを祈るしかない。

 万一落ちてしまったら、せめてアタシの体をクッションにして軽症で済むよう祈ることにしよう。



 さてと、状況確認が終わったらやることが無くなってしまった。これからどうしよう。

 ところでこの霊体の状態はいつまで続くものなのだろう。

 すぐにでも死神的な存在が迎えに来るかもしれない。そう思って天を仰いだがそれらしき姿は見当たらない。

 四十九日が過ぎるまではゆっくりと霊体ライフを満喫できるのかもしれないし、ずっとこのままなのかもしれない。はたまた突然この霊体も消えてしまうのかもしれない。

 いずれにしてもいつどうなるのか予測がつかない。いつ消えるときが来てもいいように、人生のロスタイムを有効に使いたいところだけど、一体何をすればいいのだろう。

 健全な人生を送ってきた人ならば家族や愛する人、そしてお世話になった人たちに別れを告げに行くのかもしれない。

 だけどアタシにはわざわざ別れを告げたいと思うような人はいない。しいて挙げるなら生まれてすぐに親に捨てられたアタシを育ててくれた『てんま園』の園長のオヤジくらいだろうか。

 だけど高校二年で施設を出てから顔を合わせたのは仕事の保証人を頼んだときくらいだ。今更わざわざ会いに行くというのもピンとこない。

 生みの親は知らないし、結婚していないから夫も子どももいない。ついでに恋人もいないし友だちもいない。

 なんだか我ながらちょっと凹む。

 幸福な人生だなんて言えないことはわかっていたけど、まさか最期に会いたい人が一人もいないなんてさすがにひどい。

 せめて一人くらい誰かいるだろう?

 アタシは二十六年の記憶を掘り返す。

 森内セイラ。

 突然アタシの頭の中にその名前が浮かび上がった。

 最期の時間は大切な人に会うために使わなければいけないというルールがある訳じゃない。だったら嫌いな相手でもいいんじゃないだろうか。

 もちろん別れを惜しみ、感謝を伝えに行くわけじゃない。この役に立たない霊体の特徴を存分に生かして、嫌いな女のヒミツを暴いてやるのだ。

 名案過ぎる。霊体になって頭が冴えてきてるんじゃないだろうか。

 もちろんヒミツを暴いたところで何か報復ができるというわけじゃない。だけどそのヒミツを笑い飛ばしてやればちょっとは気が晴れて健やかな気持ちで成仏ってやつができるはずだ。

 『善は急げ』という。アタシは早速行動を開始することにした。まあ、善行ではないだろうがいつまで霊体でいられるかも分からないのだから時間を無駄にはできない。

 セイラが住むマンションの場所は知っていた。以前、酔いつぶれたセイラを部屋まで運んだことがある。

 この体は空を飛ぶことができないが、壁をすり抜けてショートカットすることができる。

 それでもそれなりの距離があるけど、どうやら霊体は疲労しないらしい。走り続ければそれほど時間を掛けずにマンションに辿り着くことができるだろう。


+++


 八年前、アタシとセイラはクラスメートだった。

 と言っても、アタシが中退するまでのたった半年程度のことだ。

 アタシは素行の悪い生徒だった。クラス委員をしていたセイラは、アタシの顔を見るたびに「学校に来なさいよ」だの「服装を正しなさい」だの、とにかく突っかかってきたのだ。

 面倒なヤツだった。高校を辞めて顔を合わせなくてよくなってせいせいしたものだ。

 高校を辞めたアタシは大手通販会社で働き始めた。普通ならばアタシが働けるような会社ではない。

 真面目に仕事をすると誓約書を書いて園長のオヤジに口利きしてもらったのだ。

 採用された物流部門は覚えることも多かったが、なによりも体力が必要な仕事だった。そんな体を動かす仕事は思ったより性に合っていた。

 アルバイトで二年、契約社員で二年働き、五年目に正社員になった。

 そこにセイラが現れたのだ。

 大学を卒業したセイラはキャリア採用でウチの会社に入社した。

 普通ならば将来を嘱望されるキャリア社員とアルバイト上がりのアタシに接点があるはずなどない。ところが『ジョブローテーション』なる仕組みのせいでセイラが物流部門にやってきた。しかもアタシが働いているチームに配属されたのだ。

 それでもセイラがアタシを覚えているはずがないと思っていた。

 五年も前にほんの少し接点があっただけなのだから――。

 しかしセイラの優秀な頭脳はこんなアタシのことを覚えていた。しかもそのことを管理長に知られてしまったせいで「それなら指導係は塩原さんにお願いしよう」となってしまったのだ。

 元同級生の後輩。やりにくいことこの上なかった。それでもアタシは仕事だと割り切って業務の流れを教えることにした。

 一方のセイラは全く気まずさなんて感じていない様子だった。しかも「へえ、真面目に働いてるんだね」なんていう嫌味まで言い放つ。

 一カ月間のジョブローテーション期間を終えてセイラが別の部署に去ったときアタシは諸手を挙げて喜んだ。

 だが三年後、セイラがアタシの直属の上司として再び現れたのだ。

 キャリア採用された人材だ。出世していくことは予測で来ていた。しかしアタシのいる部署の上司になるなんて思わないではないか。

 同級生だったセイラは、後輩、上司と立場を変えながらアタシの前に立ちはだかったのだ。

 ビシッとスーツを着て厳しい目つきで業務をチェックするセイラは、仕事のできるキャリアウーマン風だった。そしてその左手薬指には華奢なリングを輝かせていた。

 仕事も恋愛も順調で何の陰りも感じさせない、アタシとは全く違う人生を見せつけられて笑顔でいられるほど人間ができていない。

 そうしたうっ憤が体調にも影響したのか、ある日アタシは全身の倦怠感で起き上がることができなくなった。

 会社に体調不良を連絡して休暇申請をしなくてはいけない。わかっていたのだが、セイラに電話を掛けるのが嫌でそのまま布団に潜り込んでいた。すると始業時間直後、セイラから電話が掛かってきた。

「体調が悪いのなら、その旨を連絡してください」

 事務的なセイラの正論に頭痛がひどくなる。

「私のことが気に入りませんか? だったら仕事は学歴だけがすべてじゃないと証明してみせてください」

 そんなセイラの言葉に苛立った。アタシなりにそれまで努力してきたつもりだ。それらをすべて踏みにじられたような気がした。

 ウチの会社には毎月『業務改善提案書』を提出する決まりがある。

 普段なら「あいさつを徹底しよう」とか「トイレの電気を消そう」とか、そんな提案しかしていなかった。

 しかしその月はセイラに挑発されたこともあって真面目に作業短縮の提案を書いてみた。するとそれの提案が社長賞を受賞してしまった。

 アタシだってやればできるんだと喜んだのも束の間、受賞した提案はアタシが書いたものではなかったのである。

「これ、あんただろう」

 セイラを問い詰めると自分が手直ししたことをあっさりと白状した。悪びれる様子もない。

「上が納得するようにちょっと修正しただけですよ」

「こんなこと頼んでない。アタシは、こんな規模のデカいことは考えてなかった。これはあんたの提案だろう」

「部下の提案を自分の手柄にするつもりはありません。それに言葉を直しましたが全部塩原さんが言ったことですよ?」

 確かにセイラがアタシの後輩だったとき、ちょっと漏らしたことはあった。

「とにかくアタシが書いたものじゃない。これは受け取らない」

 社長賞の副賞の金一封をセイラに差し出す。たかが三万円、されど三万円。それでもアタシにも意地がある。

「これはあなたのアイデアです。堂々と受け取ってください」

「受け取らない」

 突っぱねるアタシにセイラは笑顔で言った。

「じゃあ今夜、このお金で夕食をおごってよ」

 同級生だった頃のように言葉を崩して言うセイラの妥協案に、アタシは渋々頷いた。

 連れて行かれたのはアタシが普段近寄ることすらないような高級なレストランだった。

 料理の味なんて分からない。しかもセイラは社長賞の三万円をすべて使い切る勢いで酒を呑んだ。

 酒の勢いで左手の指輪を指摘すると「これはただの男避け。いちいち断るのも面倒だから」とモテ自慢までされた。

 上機嫌で呑み続けたセイラはついには酔いつぶれてしまい、アタシは部屋まで送り届けるはめになったのだ。


+++


 酔いつぶれたセイラを部屋まで送り届けるのは面倒でしかなかったが、そのおかげでアタシはセイラの部屋を知っている。

 電車を使うと遠く感じた距離もほぼ直線で走れば思ったほど遠くはなかった。

 アタシはセイラの部屋のドアをすり抜ける。

 室内は暗い。暗闇でもある程度の視野を確保できるのは霊体の特性なのかもしれない。

 玄関を上がると短い廊下の左右にトイレと浴室があった。廊下の奥がダイニングキッチンだ。

 ダイニングはすっきりと片付けられている。仕事はキッチリしているのに部屋は汚部屋だとか、オタクグッズで埋め尽くされているとか、怪しげな祭壇が飾られているとかだったなら笑ってやれたのに。ごく一般的な部屋でアタシはちょっとがっかりする。

 ダイニングの奥の部屋から微かに声が漏れ聞こえた。そこがベッドルームなのだろう。アタシはそっと歩み寄る。

 ドアをすり抜けようとしたところでふと考えた。

 部屋を暗くしてベッドルームから声が漏れる。それはつまり、そういうことなのではないだろうか。

 モテることを自慢していたではないか。特定の相手がいないとしても、夜を共にする相手がいないとは言っていない。

 だがそうではないかもしれない。テレビを見ているだけかもしれないし、一人で落語の練習をしているのかもしれない。

 そもそもヒミツを暴きに来たのだ。もしも笑える性癖を持っていたらかなりいいネタになりそうだ。遠慮をする必要なんてない。

 アタシはひとつ頷きベッドルームのドアをすり抜けた。

 ドアに隔たれてはっきりと聞こえていなかった声がアタシの耳に届く。

「ア、ンん……」

 押し殺すような甘い声。

 すでに動きを止めたはずのアタシの心臓がドクンと跳ねたような気がした。

 アタシはさらに一歩足を進めて相手の姿を確認しようと目を凝らす。だが相手の姿を確認できない。

 ベッドには一人分の影しかなかった。

「一人エッチをしていらっしゃる!」

 アタシは思わず叫んでしまい反射的に口を押える。そして慌ててベッドに背を向けた。

 一人エッチはいいのだ。年頃だしそんな気分の夜もあるだろう。

 だが恋人との営みを覗き見るより、一人エッチを覗き見る方が罪深いような気がするのはどうしてだろう。

 どういった構造をしているのか、アタシの心臓がドクドクと早鐘を打つ。

 ヒミツを暴露して笑って成仏しようと思っていたのに、これでは罪悪感で成仏できなくなってしまいそうだ。

 誘いさえすれば相手をしてくれる男が一ダースは見つかるだろう。それなのに男避けの指輪までして一人エッチで解消するというのは笑い話にしてもいいのだろうか。

「ナナ」

 突然名前を呼ばれてアタシは縮み上がった。

 姿が見えているのかとも思ったが振り返って確認する勇気はない。

 だがそれがアタシの姿を見て呼んだ声でないことはすぐにわかった。

「ハア、ナナ。そこ、もっと……。ナナ、好き、大好き……」

 その声に耳を疑った。

 これは笑える話ではないか。

 アタシの嫌いな女がアタシに欲情しているのだ。

 しばらくすると少し荒い息遣いだけを残してセイラの動きが止まる気配を感じた。

 振り返りベッドの脇に立つと艶やかな肢体を無防備に横たえるセイラがはっきりと見えた。

「馬鹿じゃないの」

 ベッドサイドには写真が飾ってあった。高校時代、セイラが無理やり撮影した写真だ。笑顔のセイラの横にはふてくされた顔でそっぽを向くアタシがいる。

「本当に馬鹿。どうしてアタシなんかを……」

 セイラはアタシなんかとは違う世界で生きているのに。


+++


 アタシとセイラは同級生だった。

 アタシは劣等生でセイラは優等生。

 たまたま同じクラスに在籍していた、それだけのことだ。

 他のクラスメートはアタシと目を合わせず、アタシの存在自体を否定した。

 顔を見るたびに寄ってきて話し掛けてくるのはセイラだけだった。

 本当はそれがうれしかった。

 中退を告げた日、セイラは「一緒に卒業したかった」と泣いてくれた。だからアタシは連絡先を教えなかった。

 アタシはセイラの足を引っ張るだけだと思ったから。


 後輩としてアタシの前に現れたとき、セイラはひと目でアタシに気付いてくれた。「ナナ」と呼ばれてアタシの胸は高鳴った。

 物流でヒールはやめた方がいいと伝えると、翌日からスニーカーとジーンズで出勤してきた。「似合う?」そう言って笑うセイラが愛おしかった。

 後輩のセイラに何気なく漏らしたひと言を、上司になっても覚えていてくれたことに胸が震えた。


 上司になったセイラは病欠したアタシの部屋まで見舞いに来た。

「迷惑だ」と言って追い返したのは一度甘えてしまったら歯止めが効かなくなると思ったからだ。

 左手の指輪がイミテーションだと知り心から安堵した。

 酒に酔いアタシに身を任せるセイラを抱きしめたかった。


 セイラの隣にアタシは似合わない。

 だからアタシはアタシの気持ちを否定し続けた。

 セイラに惹かれるすべてを嫌いな理由にすり替えた。

 それでも、この世で最期に会いたい人は、セイラしかいなかった。


 こんな未練が残ってしまうのなら会いに来なければよかった。

 あなたが同級生だったとき、

 あなたが後輩だったとき、

 あなたが上司となったとき、

 この想いを伝えていたら、アタシたちは一緒にいられたのだろうか。

 こんな最期を迎えることになったとしても後悔せずにいられただろうか。


 霊体は不便だ。泣きたいと思っても涙が出ない。

 アタシは体を屈めて横たわるセイラの唇に自分の唇を寄せた。

 感触も、ぬくもりもない、最初で最後のキス。

 その瞬間、アタシの体をすり抜けてセイラがガバっと起き上がった。

 そしてキョロキョロとあたりを見渡す。顔には不安の色が浮かんでいた。

 セイラはスマートフォンを手に取ると、慌てた様子で誰かにコールする。相手は電話に出ることなく留守電に変わったようだ。電話を切りもう一度コールする。何度電話を掛けても相手が出る様子はなく、しつこいほどにコールを繰り返す。

 セイラは電話を掛けながら服を着て外出の用意をはじめた。

 急に仕事のトラブルでも思い出したのだろうか。

 最期の時間をしんみりと過ごしたかったが、もうそれも許されないらしい。

 せっかくだから出掛ける先を突き止めてやろうと、玄関を出るセイラを追うとアタシの体に異変が表れた。

 透けていた手がさらに透明になり今にも消えそうになっている。

 アタシは霊体になってもこんな間抜けな終わり方しかできないのか。

 部屋を出ていくセイラの背中を見送りながら、アタシは完全に姿を消した。


+++


 目を開けるとそこは光に溢れたまぶしい世界だった。

 すぐ間近にキレイな女性の顔がある。

 これが天国なのかな? と思っていると女性がアタシに話し掛けた。

「ナナ、ナナ、わかる?」

 キレイだと感じたのも当然だ。その女性はセイラだったのだから。

 どうやらアタシは死んでいなかったようだ。全身が死ぬほど痛いけれど。

 セイラは涙を流してアタシの生還を喜んでいる。

「ナナ、本当に心配したんだから」

 死んでいなかったのならばアタシはセイラに伝えなければいけないことがある。隣に立つ自信はまだないけれどもう後悔はしたくない。

 アタシは痛みを堪えて手を伸ばしセイラの頬を伝う涙をぬぐう。

「ありがとう。セイラ、あいしてる」

 そこで再び意識が途切れた。



 落ち着いてから聞いたところによると、あの夜、セイラが必死で電話を掛け続けていた先はアタシだったらしい。

 何か嫌な予感がしたセイラはアタシの無事を確認しようと電話を掛け続けた。

 そのコール音のおかげでマンホールの中にいたアタシが発見されたのだという。さらに電話を受けた救急隊員から事情を聞き、すぐに病院に駆けつけてくれたそうだ。

「あと十分遅かったら助からなかったよ」

 と担当医が笑って言っていた。大げさな表現かもしれないが、かなりひどい怪我を負っていたので完全な嘘でもないのだろう。

 さらにセイラは『てんま園』の園長に連絡した上で、入院手続きやらなにやらすべてを引き受けてくれたようだ。なんだか難しい問題もあったようだが、会社の上司であることとアタシに血縁者がいないことなどを理由にかなり力業で処理をしたらしい。さらにマンホールの蓋が開いていたことに対する責任の所在を云々という小難しいことも引き受けてくれている。

 そして毎日仕事を終えると病院に顔を出してアタシの世話を焼く今に至る。

「毎日こなくてもいいよ。この病院完全看護だし」

 と言えば、

「上司だから、これは当然のことです」

 と返す。

 本当に部下全員にこんな対応をしていたら体がいくつあっても足りないと思うのだが。

「セイラ、いろいろとありがとう」

 アタシが言うとセイラはうれしそうに微笑んだ。そして少し口ごもりながら「ちょっと聞いてもいい?」と言う。

「最初に目が覚めたとき、「ありがとう」の後に何か言ったよね?」

 そういえばあの時以来あの言葉を伝えていなかった。とにかく必至に伝えることができたからすっかり達成感にひたっていた。

 セイラにしてみれば重体の人間がうわごとを言っているようにしか聞こえなかっただろう。

「えっと、どうだったかな」

 アタシはごまかしながら身をよじる。

「セイラ、ちょっと体を起こしたい。背中にまくら当ててくれる?」

「あぁ、うん」

 セイラは片手でアタシの体を抱えて起こし、もう片方の手で枕を動かして背に当てる。そして「大丈夫?」と言いながら、ゆっくりとアタシの体を枕にもたれ掛けさせた。

 セイラが体を離す瞬間、アタシはセイラの背中に腕を伸ばして引き寄せた。そしてその耳元で「愛してる」と囁いて頬に口づける。

 セイラは耳まで真っ赤になっていた。

 その姿にアタシは胸の奥がくすぐったくなるような気持ちになる。

 セイラの隣にアタシは似合わない。

 それは今でも感じている。

 だけどもう、それを言い訳にはしない。

 今は似合わなくても、いつかセイラに似合うアタシになれるように努力をしよう。

 手を広げるとセイラは戸惑うことなくアタシをギュッと抱きしめた。

 かなり痛いがここは我慢しよう。



 そういえば、アタシが霊体になっているときセイラの一人エッチを覗き見したというネタがあった。

 でもそれを伝えるのはもう少し体が動くようになってかにしよう。その方が色々と楽しめそうだ。



   了

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