1.

【1】1960年代・ある会社の事務所(夕方)


   十人くらいの事務員たちが、それぞれ事務机に向かって算盤そろばんを弾いたり、帳面をつけたりしている。僕も事務員である。事務室の一番奥に課長の机があり、課長は課長で、自分の仕事を熱心にやっている。壁の時計が午後六時を指し、終業のチャイムが社屋に響く。社員たちが挨拶をして一人、また一人と帰って行く。最後に、僕と課長だけになる。僕は立ち上がって課長の所まで行く。


僕 「課長、お話があります。少しお時間を頂けますか」


   課長、何かを感じ取り、少し不安げに僕を見上げる。


【2】事務所の別室


   テーブルを挟んで、僕と課長が向かい合って座っている。課長の前には、僕が差し出した『退職届』と書かれた封筒が置いてある。課長、納得できない顔をする。


課長 「急にどうしたんだ? 何か会社に不満でもあるのかね?」


僕 「いえ、そういう訳じゃないんです」


課長 「じゃあ、なぜ?」


僕 「僕は、両親とも早くに亡くし、兄弟も居ません」


課長 「ああ。それは何時いつだったか、聞いたよ」


僕 「天涯孤独なんです。僕自身てっきりそう思い込んでいた」


課長 「うん」


僕 「ところが、そうじゃなかったんです。僕、ある大金持ちの遺産を相続しました」


課長 「ええ? つまり、君には富豪の血縁者が居たということか?」


僕 「はい。でも、とても遠い遠い血縁らしいのです。会ったこともありません。そんな親戚が居るなんて今まで知らなかった。父も母も教えてくれなかった。ひと月くらい前の日曜日、僕のアパートを訪ねてきた人物がありました」


【3】(回想)僕のアパート


   部屋でダラダラしている僕。ベルが鳴る。玄関の扉を開けると、高級そうなスーツをキッチリと着た年配の男が立っている。差し出される名刺。『○△弁護士事務所』と書かれている。


【4】(回想続き)近所の喫茶店


   向かい合って座る僕と弁護士。


弁護士 「ただし貴方あなたが、この莫大な鍵池かぎいけ伝十郎でんじゅうろう氏の遺産を相続するためには、これから言う三つの条件を飲む必要があります。第一に、仕事、地域の役職、社会奉仕活動等を全て辞し、社会との関わり一切を断つこと。第二に、友人、恋人、その他あらゆる個人的関係を清算すること。第三に、現在の住居を引き払い、鍵池かぎいけ邸に移住すること」


【5】(回想から戻って)事務所の別室


課長「君、そりゃ変だよ。変な話だ。そんな胡散うさんくさい話に乗って会社を辞め、今まで積み上げた人生を棒に振って、君は、それで本当に良いのかね?」


   僕、課長の言葉にうなづく。


僕「この世の中の暮らしに、未練は無いんです」


   僕、ニッコリ笑う。


僕「未練は、無いんです」

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