小心者であるので

すいま

小心者であるので

僕は、小心者である。

人など殺せるはずもない。


オフィスのデスクに向かい、PCの画面を見つめる。指は固まって動かず、キーボードに張り付いたままだ。

放心状態とはこのことで、心がなければ体も動かないのだ。

頭の中では今朝の老婆のうめき声が延々と繰り返されていた。


僕は悪くない。僕は悪くない。


あれから何時間経っただろう。

救急車のサイレンは一向に聞こえなかった。


息が苦しくなる。

僕はひとつ呼吸を止めて、大きく吸い込み目を閉じた。


それはいつもと変わらない通勤時間のはずだった。

駅からオフィスまでの抜け道は、かれこれ10年使い続けている。

通勤時間帯であるにもかかわらず閑静な住宅街を抜けてオフィスのビルが紺色の屋根の向こうに見えた頃だった。


「ううううううううううううううううううううううう」


息に音を乗せるのが精一杯、というようなうめき声が聞こえた。

どこだ、何が起こっている。


僕は周りを見回したが、視界に入る異様さはない。


「うううううううう!!」


僕の存在に気づいたのか、うめき声が一層大きくなると、その方角が明確にわかった。


この塀の向こうだ。


僕は小心者である。

チープなホラー映画でさえ、くだらないと毒を吐いて逃げてきたような男である。

そんな僕が、なぜ、よりにもよって、こんな面倒くさいことに首を突っこもうというのか。


魔が差した。


塀に空いた飾り穴から中を除く。

直線には何も見えない。

どこだ、どこだ。

声はとめどなく聞こえている。

壁にのめり込むように穴を覗き込む。


「うううううううううううううう!!!!!!」


目を見開き、胸を抑え、喉をかきむしり、髪はべっとりと顔に張り付いて口をパクパクと動かしている。

こっちを見ているようで焦点は合っていない。

明らかに、死に体の老婆が転がっていた。


僕は塀から飛び退いた。

腰が抜けるそうになるのを必死に踏ん張った。


ここから去らなくては。

関わってはいけない。

今日は大事な会議もある。

ここから去らなくては。


駆け出した僕の背中に、いつまでもうめき声が張り付いていた。



オフィスに着き、自席に座ると一息吐いた。

あれは現実だったろうか。

そう問うてみても、それを一番知っているのは自分だった。


時間が経つにつれ、冷静さを取り戻した。

そしてまた血の気が引く思いをした。


僕は、逃げ出すべきではなかった。


あの場で一番正しい行動は、すぐに救急車を呼び、家に駆け込んで応急処置をすることだったのではないか。

あの老婆はきっと病気の発作で必死に助けを求めていたに違いない。

あの形相は助けを求めていたのだ。


あれから、サイレンは鳴っていない。

老婆はどうなっただろうか。

サイレンはなっていなのだ。聞き逃しではない。

朝からずっと耳を澄ましている。

あれは死に至る病のようだった。

誰にも気づかれず、命を落としたのではないか。


僕が救急車を呼んでいれば命は助かったのではないか?

いや、そんな保証はない。

それに、なぜ僕だけがそんな責務を負わなければならないのか。

同居の家族はどうした?隣人は?あの道を使う住人たちは?

なぜ僕が自責の念を負わなければならないのか。


その日、サイレンは一度も聞こえなかった。



それが、5年前のことだった。


僕は、小心者である。

大事な会議があるときは1時間も前に家を出る。

トイレに行きたくなってはならないので、朝ごはんは食べない。

痴漢に間違われてはいけないので、必ず壁に向かい合う。


それが今日はどうしたことか。

大事な会議があるにもかかわらず、耳鳴りが酷くまともに寝れやしなかった。

うとうとし始めたときにはすでに出勤の3時間前。

次に瞬きをしたときには、すでに出勤予定時間を過ぎていた。


これはいけない。

少しでも早くオフィスにつかなくてはいけない。

10年間使っていたオフィスへの抜け道は体が覚えていた。

迷いなく足が進む。




しかし、この道はあれから5年間使っていなかったのだ。


僕はその道に足を踏み入れてから、しまったと思った。

走っていた足は止まり、紺色の屋根の向こうに見えるオフィスを仰ぎ見る。


「う」


声にならない声が耳に届いた。


それは少しずつ大きくなり、はっきりと僕へ向けて発せられている。

足は動かない。あのとき踏ん張って逃げ出したはずの足が、5年が経って動かなくなっている。

倒れそうになる体を塀に預ける。

うめき声はさらに大きく響いた。


「うううううううう!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」


僕が小心者であるかどうかなど関係がなかった。

その声は僕を逃すまいと縛り付けてくるようで、

僕は段々と塀の穴へと顔を近づけ、中を覗き込んだ。


塀より遠く、縁側で日向ぼっこをするように、車椅子に座った老婆がにこやかにこちらを見ていた。

その焦点は空を見つめ、まるで思考していない人形のようにそこに置かれていた。


そのはずなのに、目が合った。


明らかな意志を持って僕を見つめていた。


「だずげでっ!!」




僕は、小心者である。

人など殺せるはずもない。

だがあの日、僕は人を見殺しにできる人間であると知った。

僕のせいではない。

僕には何一つ責任はない。


僕は、小心者であるので、これ以上この世で生きていく勇気がなかった。

それに気づいたとき、空を踏む一歩がとても心地よかった。

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小心者であるので すいま @SuimA7

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