三角海域

 駅がやたらと混んでいた。

 声があちこち飛び交っている。怒号やら嘆きやら。

 どうやら、電車がトラブルか何かで止まっているらしい。

 勤め先に電話をかけ、そのことを伝えると、他に手段はないのかと訊かれ、ないと答えた。

「じゃあ遅延証明書持ってきて」

 無機質な言葉だった。自動音声のアナウンスみたいですらあった。

「急いでね」

 そう言って電話が向こうから切られる。

 普段はやたらと口うるさく、すべての言葉が高圧的に聞こえるような上司だったが、電話口での声は、まるで別人のようだった。

 関心がないのか。

 そんな風に思った。私があの職場で働き始めてからそれなにりになる。だが、私は入社当時と同じように叱られ続けている。

 職場の人間が私に向ける視線やかける言葉は、見下しや嘲笑を含む。だが、それは私の無能さゆえに向けられるものだから、受け入れるしかないのだろう。

 やはり、関心がないのだ。いてもいなくても同じ人間が遅れて出社したところで、何も変わらないだろう。

 虚しさと安堵が同時にわいてくる。安堵は、遅れていっても何も言われないという安心感からくるものだろう。こういう所も、私が無能たるゆえんなのかもしれない。

 しばらく電車がくる気配はない。ごった返し、熱気と言葉が充満する駅の隅で、私は座り込む。スーツが汚れるかもしれないが、そんなことはどうでもいいと感じていた。

 電車が動くまでどこかで時間をつぶそうと言っている人がいる。

 駅員に詰め寄り、文句を言い続けている人がいる。

 若者が退屈そうにスマートフォンをいじっている。

 イレギュラーな状況に見えて、いつもとあまり変わらないように見える。無関心や怒り。いろんな感情。そんないつもの光景。

 隣の若者がスマホでニュースを見ている。ヘッドフォンを繋いでいるから音声は聞こえないが、テロップが見えたので、この状況を報道しているのがわかる。

 十数万人に影響。会社や学校に行けない人があふれている。そんな風に書かれている。

 大袈裟だな。

 そんな風に思えた。起こってしまったんだからしょうがないじゃないか。起こってしまったのだから、受け入れるしかないないじゃないか。

 こうして焦っている人たちはなんで焦っているのか。

 仕事。

 勉強。

 約束。

 いろいろあるだろう。けれど、理由があるのだ。しょうがないじゃないか。

 まあ、しょうがなくはないのか。

 だから私はダメなのだろう。

 なんだか、考えるのも疲れてきた。待つしかないのだ。なら、何も考えずにいよう。

 壁に背をあずけ、ぼーっと天井を見つめる。

 何も考えないでいるのは久しぶりだ。

 いつも、私は仕事のことや将来のことを考えて不安になる。

 不安は消えないから、そういう時はただ眠る。眠れば朝が来るから、仕事に行く。そうしてまたあれこれとため込んで帰宅して、考えて眠る。それを繰り返していた。

 なんだろう。いい気分になってきた。何も考えないというのは、こんなに楽なものなのか。

「楽しそうですね」

 唐突だったので、それが自分に向けられた言葉だというのに気づくまで間ができた。

「すいません突然声をかけて」

「いや、気になさらないでください。私、楽しそうにしていましたか?」

「はい。にこにこしてましたよ」

 気が付かなかった。

「みなさんイライラしているのに、あなただけはなんだか楽しそうで」

「気が付きませんでした。不気味ですね、ひとりでニヤニヤと」

「不気味というなら、ここ全部が不気味ですよ」

「そうですか?」

「ええ。僕たちは社会の枠の中を行きかうドールのようなもんだと思ってましたが、こうして見ていると、社会そのものがミニチュアに見えてきます。大きいようで、小さい」

「面白い見方をしてるんですね」

「いや、悪い癖ですよ。読み漁った詩なんかの影響が抜けきらないんです」

 彼は私とは逆の方向の電車に乗っており、駅に来る時間も私よりも早いようだった。このような状況にならなければ、会うことはなかっただろう。

「何も考えないでいられることが、楽だったんだと思います」

「考えない?」

「はい」

「いいですね」

「そうですか?」

「ええ。人間は思考できることが美徳とされていますが、思考「できる」ことが美しいのであって、思考「しなくてはならない」というのとは違うでしょう」

 言葉の一部を強調し、彼は言う。

「考えるという行為は同じでも、中身は同じじゃない。しなくてはならないことは、ただの作業ですよ」

「作業」

「ええ。考えるという行為には起点があります。目的地に行くための道筋を考える。それが思考です。それが仕事であろうが趣味であろうが、行きたい場所があり、そこへ至るために起点から線を引いていく作業が考えるという行為です」

 だが、そうもいかないのではないか。その矛盾を我慢する。それが社会生活というものだろう。

「でも、そうもいかない」

 私の心の声を聞いたかのように、彼は言った。

「だから、考えないのです」

「そんなことは無理でしょう」

「そうですね。でも、まあいいかと投げてしまうことはできるのではないですか?」

「そんなことは……」

 まわりに迷惑だろう。

「与えられたこと、やらなければいけないことはやっている。ならばいいではないですか。あなたを見下す人々のためにあなたが考えて苦しむのはバカらしいでしょう」

「しかし、そんなことをすれば、その、いろいろと嫌がらせのようなものをされるのではないですか?」

「それは明確な悪意でしょう。やるべきことはやっている。それなのにそんな風に悪意を向けられたのなら、それは糾弾できますよ。良くも悪くも、虐げられた人間には優しいものです。あなたが無能だと言われていようが、なんらかの嫌がらせをされれば、それとこれとは話が違うとなりますよ。みんな社会に怒りを感じてる。ぶつける場所を求めてる。それを利用すればいいのです」

 彼はにこやかに言う。

「あなたがどうしたいかですよ。したくないことをしている。それは社会では当然だとしても、知ったこっちゃないですよ。助け合い。迷惑をかけない。チームで動くのだから自分勝手は許されない。それは良いこととされる。良いことなのは間違いないでしょう。責任感や信頼関係というのは美しい。しかし、自分がされたら嬉しいでしょう? だからやりましょうなんてのは押しつけだ。感情にまで正しい正しくないを押し付けてくる」

 まくしたてるが、彼は微笑み続けている。なんだか、少し不気味に思えてきた。言葉には怒りがにじむ。それなのに、笑みだけがべったりと顔に張り付いているのだ。

「気を付けた方がいいですよ。それを当たり前だと思うようになると、気付けなくなりますから」

「何にです?」

「自分にです」

「自分?」

「はい。わからなくなります。自分が自分なのか。何をしているのか。消えてくるんですよ、自分が。嫌な気持ちすらなくなる。無になるんです。辛さも消えるから、いいことだなと最初は思う。けれど、それは決していいことなんかじゃないんです。心が無になるんですから。そのうち、肉体も無になります」

 彼は微笑みながら。

「背中を押されるんです」

 そう言って、立ち上がった。

「いいことのように思えるでしょう? でも、違うんですよ。前に進むのではないんです。落ちるんですよ。無だから気付けない。足元がすべりやすくなっていて、奈落に落ちやすくなっていることに。だから、押されれば簡単に落ちる」

 人波が改札をくぐっているのに気が付いた。

 電車が動き始めたらしい。駅に響いていた声が静かになっていく。ごちゃごちゃしていた構内から人が消えていく。その中で、私と彼だけがぽつんと置き去りにされたかのように存在している。

「あなたの人生ですよ。どんなものでもあなたの人生です。大切にしてください」

 彼の顔から作り物の笑みが消えた。

 泣きそうな顔をしている。

 無じゃない。そんな顔ができるなら、無ではない。

 そう言おうと思ったが、口が動かなかった。

「どうして私に声をかけたんですか?」

 代わりに、そんな言葉が出てきた。

「同じだなと思ったんです」

「同じ? どういうことですか?」

 彼は私の質問には答えなかった。

「では、失礼します。話せてよかった」

 そう言って、彼は改札をくぐった。

 私はしばらく動けなかった。

 数分立ち尽くし、ようやく電車に乗らなければと思い、改札をくぐる。

 悲鳴が聞こえた。

 なぜだか、私は何が起こったのかを理解していた。

 人波が再び戻ってくる。

「ふざけんな。自殺するなら一人で勝手に死ねよ。他人に迷惑かけんなよ」

 そんな声が聞こえた。

 人波にもみくちゃにされながら、私は動かずそこに立っていた。

 舌打ち。睨み。邪魔なんだろう。けれど、私は動けなかった。

 そうしているうち、人波から抜けた。

 私はなおも動くことができなかった。

 アナウンスが響く。事故でまた電車が遅れると告げている。

 怒り、無関心。リプレイのような同じ光景。

 死があった。けれど、日常は続く。

 私は隅に座り込んだ。

 会社に連絡しなければ。

 けれど、膝を抱えたまま動くことができなかった。

 涙が浮かび、流れた。

 私はこんなところで何をしているんだろう。

 涙が止まらなかった。

 ああ、私は、生きたいんだ。

 そんなことをなぜだか強く思った。

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三角海域 @sankakukaiiki

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