第52話 献帝追放・ある男の怒り

許昌にある宮中では献帝が曹丕から詰問されていた。


「陛下、わが父である先王が亡くなったにもかかわらず劉備の勝利を喜んだと聞いておりますが。どういう事でしょうか?」


「…。」


「黙っていては分かりません。まあ妹(曹皇后)から逐一報告を受けているので全て把握しておりますが。」


曹丕は献帝を見下すようにして一方的に話を進めていた。献帝は皇后だった伏皇后を強引に廃されて曹操の娘を皇后に迎えさせられた。ただ前世と違い伏皇后は殺されず側室扱いとされていた。


「これ以上我々に迷惑を掛けられては困るので陛下に決断して頂きましょう。」


「何の決断なのだ?」


「見れば分かります。程昱!」


曹丕に呼び込まれて程昱が宮中に入って来たが帯剣したまま兵士を伴っていた。


「帯剣のまま宮中に入るとは無礼だぞ!」


「役立たずがほざくな!貴様が今まで帝の地位に居れたのは大王のお陰。それを理解出来ない貴様には退位して貰う。」


程昱は献帝を一喝すると、急に笑みを浮かべて献帝にとって死と同等の言葉を投げつけた。


「何だと?」


「役に立たない漢王朝は今日、今を以って。この場で終わりという事だ。」


程昱は剣を抜いて献帝に刃を向けた。


「玉璽を出して貰おう。」


献帝が無言で抵抗しようとしたところ、数名の兵士が後宮から伏皇后を引き摺り出してきて刃を顔に突き付けた。


「この女がどうなっても良いのか?」


「陛下、賢明なご決断を要求致します。」


程昱は脅しつつ、曹丕は上辺だけ謙りながら決断を促した。


「分かった。玉璽を渡す。」


献帝は自分だけならまだしも伏皇后にも害が及ぼうとしたので止む無く玉璽を差し出す事を決めた。


*****


数日後、曹丕の指示で程昱が築いていた禅譲台において玉璽が曹丕に渡されて漢王朝は滅亡した。献帝は劉協として長安付近で領地を宛がわれ余生を過ごすよう命じられた。劉協は張郃率いる一隊に護衛されて許昌から長安へ向かう事になった。


その張郃が出発の前日、曹丕に挨拶を終えた後で程昱に呼び止められて丞相執務室に連れて行かれた。程昱は曹丕が魏皇帝に即位後、丞相に任じられていた。


「張郃将軍、劉協を長安に連れて行く最中に始末してくれ。」


「丞相、正気ですか?」


程昱が暴挙ともいえる事を命じたので張郃は程昱に詰め寄った。


「劉協は魏に害を成す存在だ。将軍もそんな事ぐらい分かっている筈だ。」


「そんな事言われなくても分かっている。益州に逃げられたら劉備が大義名分を得る事になるだろうが。」


張郃も程昱の言っている事は魏にとって危険であると理解している。しかし先帝を殺害するなど以ての外だという思いを持っていた。


「それを分かっているなら猶更だ。頼んだぞ!」


「…。」


「これは将軍と私だけの秘密にしておく。陛下には賊に襲われて殺されたとでも報告しておけば良い。」


「…。」


「頼んだぞ。」


無言を貫く張郃をその場に残して程昱は周囲の目を気にするようにして離れた。


「丞相は気でも狂ったのか?幾ら退位したとはいえ先帝を殺すなど出来ると思っているのか?」


張郃は程昱の後姿を睨みつけながら剣に手を伸ばそうとしたが何とか思い留まった。


*****


張郃は長安へ向かう道中、ずっと思い悩んでいた。張郃は袁紹の配下だったが官渡の戦いで曹操に囚われた後、帰順して曹操配下になった。帰順する理由となったのは曹操が献帝を擁していたからである。矛盾するところはあったが曹操の命令を献帝の命令として張郃は受けていた。曹操は帝に対して尊大な態度を取る事はあっても命や地位を脅かすような事は一切しなかった(皇后を挿げ替えたのは例外である)。


曹操の死後、曹丕はあっさりと献帝から玉璽を奪い帝位に就いた。献帝に刃を突き付けた程昱は丞相となり自分に対して殺害命令を下すなど傍若無人な態度を取っている。こんな事が許されては魏にとって汚点になり、後々禍根を残す事に繋がる。張郃は賭けに出る事を決めた。


「お前たちは陛下一行を連れて上庸に向かえ。ここから南に下れば漢水だ。これだけあれば渡り賃と口止め料には十分だ。」


張郃は信用出来る兵士を呼んで計画を打ち明けた。兵士は袁紹配下の時代からの古参兵であり互いに気心が知れた仲である。


「将軍はどうされるのですか?」


「この山中で山賊に襲われ兵士十数名を殺され、献帝一家が奪われたと嘘の報告をする。追っ手を差し向けたが漢水に逃げられたと言い訳をしておく。」


「それでは将軍の身が。」


古参兵は張郃が許昌に帰れば間違いなく厳罰が下されると思って心配した。


「心配するな。或る理由があって丞相は私を罰せないのだ。」


張郃は笑いながら古参兵の心配を一蹴した。程昱からの命令を暴露すれば流石の曹丕も程昱を処罰しなければならなくなるので程昱は張郃を庇うしか手立てが無いと断言出来た。


「分かりました。それでは準備致します。」


「これを上庸の太守に渡してくれ。あの男なら直ぐに匿ってくれる筈だ。」


張郃は古参兵に『上庸太守・魏延将軍宛』と書かれた書き付けを預けた。その日の夜遅くに張郃率いる部隊が山中の開けた場所で野宿をしている最中、山賊に襲われ献帝一族が攫われた上に兵士十数名が死ぬという被害に遭った。

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