夢視る星が堕ちる頃

糸紡弥生

第1話

アーロンとリズは大時計台の屋根の上に立っていた。街の第二のシンボルと言ってもいいこの時計台は、そのスケールや存在感、芸術的観点など、この大陸全土の各地を取ってみても、世界有数であった。分針が動く度に、ガコンという鈍く大きな音が響き、毎日正午と午後七時に、大きな鐘の音が街全体に鳴り響くようになっている。全長数十メートルに渡るその大時計台は、その規模相応の機構があしらえており、無数の歯車などが内部で入り組んでいて、それらが噛み合いながら回転している音が、ここからでも間近に聞こえてきた。風が空を裂く音がする。街の北から吹いてくる冷たい風は、ほんのりと潮の香りがした。


「アーロン、いつまで待ってるつもり?毎日毎日、こうやって時計台の上で、街を俯瞰するのも飽きてきちゃった。」


リズが退屈そうに言う。リズはまだ十代の少女だ。何かと忙しない性格の為、こうしてじっと何かを待つということに対して、あまり耐性を持たない。リズは高い位置で結んだ金髪のツインテールの先を、片手でくるくるとなじりながら、体育座りのまま、アーロンを見上げていた。童話に出てくるようなスカートの丈にレースがついた赤く可愛らしいドレスは、年相応ながら、彼女によく似合っていた。一方のアーロンは、漆黒のローブにフードを被り、黙ったままで、このだだっ広い整然とした街並みを眺望し続けていた。時計台からは、街の端から端まで綺麗に見える。外周を壁で覆われたこの都市は、良くも悪くも、外界から隔絶されている。彼にとって、ここは哀れに思える程、安寧と言う恵みに満ち満ちて見えた。


"極光都市シャナラ"


それがこの場所の名前だった。極光というのはつまり、この街が一身に受けているという加護、そしてその加護を寄与してくれている、いわば主神のような存在で、シャナラに伝わる伝説では、この主神、"シャナルリオラ"は、この街で数十年に渡り続いていた飢餓の災厄に、一筋の光を照らし、人々に恵みの光を与えたとされている。それを人々は極光と称し、以来、この街はシャナルリオラによって寵愛されし光の街として、繁栄を続けて来たのである。

その信仰は非常に厚く、街の至る所に、シャナルリオラを模したとされる彫刻や刻印があるし、国旗までもが、シャナルリオラの姿を示したデザインになっている。この街でいかに、シャナルリオラという存在が、偉大で、恭敬されているかは、これらの事から一目瞭然だった。


「ねえアーロン。聞いてる?だからさ、きっとここには居ないんだよ。一ヶ月も待ったんだし、もう諦めてもいいと思うよ。人生諦めも肝心って、良く言うじゃない。」


我儘をこねる子供のように、いや、実際そうなのだが、リズは声を荒らげて言った。アーロンはそれでも、身動き一つせず、ただひたすらに、街を眺め続けていた。やがて、リズは騒ぐことをやめ、大人しくなった。


アーロンはぼんやりと考えていた。それはこの街についてだ。ここで暮らす人々は、皆が活気付いており、生気に満ち溢れている。自分達の幸せが、永遠に続くものだと信じて疑っていないようで、いつどのタイミングで、その安寧が崩壊するのかも分からないのに、どうしてこんなにも呑気に暮らしていられるのか、アーロンには分からなかった。

そして、アーロンは唇を噛んだ。

そう、この世界は最初から、いつだって針の上に爪先立ちしているような、ひどく脆弱なものなのだ。それに気付いているのは、この世界で数少ない。誰も気付かない、知りたくもない。自分の寿命を全うする間だけ、平和であればそれで良い。人間なんてみんなそんなものだ。

でもそれでは、人は前に進めない。

アーロンは眉間に皺を寄せる。

前進すること、それがアーロンにとっての、唯一の生の動機だった。ひたすらに、真っ直ぐに、成すべきを為し、止まらずに進んでいく。

その為には、まずは奴を見つけなくてはならなかった。リズはここには居ないのではないかと言ったが、そんなことは無いはずだ。ここに奴がいるという事は、アーロンらがここへ来る前にいた街の、腕利きの情報屋から引き出した飛びっきりの情報から明らかになっている。それを手に入れる為に飲んだ交換条件は、決して楽なものではなかったし、それに命まで賭したのだ。安易に引き返す訳にはいかない。


時計台の分針がまた動き、屋根の上まで振動が伝わる。時は容赦なく、あらゆる物質に等しく終わりをもたらしてくる。

時間が惜しかった。

ここでこうしている間にも、刻一刻と、時は経っている。


風の音と歯車の軋む音だけが、二人を包み込み、冷たい潮風が、流石に肌に痛くなってきた。潮風というのは、つまりこの近辺には海があるという事だ。街の壁の向こう、北側に広がる、ブルームーンと呼ばれる湾。なんでも、この辺の大地に含まれる地中の成分が溶け出して、湾の中だけ、通常の海よりも遥かに美しい、まるでパレットにターコイズブルーの絵の具を水で溶かしたみたいに、綺麗で濁りのない青なのである。そして、その湾の形が、上から見た時、綺麗な円形であることから、ブルームーンという名が付いたらしい。この時計台の上からでさえ、ブルームーンの全体像を上手く捉える事は出来なかったが、確かに円形であることはぼんやりと把握出来た。


「ねえアーロン。」


リズが沈黙に耐えかねて、また声をかける。アーロンは今度こそ、視線を下に落とし、リズの方へと振り返る。しかし、深く被ったフードのせいで、アーロンの顔はほとんど見えなかった。


「なんだ。」


アーロンが聞き返すと、リズは視線を海の方に向け、虚ろな目で遠くを見つめた。その瞳は蒼く、まるで映し鏡のように、青い海を投影したような美しさだった。アーロンとリズは、出会ってから今まで、長い時間を共に過ごしてきた。血縁関係こそ無いものの、アーロンにとって彼女は妹であり、逆も然りであった。リズの蒼い瞳は、たくさんのものを映してきた。彼女はまだ少女で、普通の子であれば、まだ親の愛情を一身に受け、多くの知らない物事に好奇心旺盛で、無邪気な年頃なのだろうが、リズは不幸にも、見なくても良い物事を余りにも見すぎて来てしまった。彼女に両親などおらず、愛情など知らない。それでも、彼女の瞳は透き通る水晶のように、輝きを灯していた。


「どうして海は青いと思う?」


リズは視線を海に向けたまま、囁くようにして尋ねた。アーロンはそんな素朴過ぎる疑問に困惑したが、少し思案した後に、やがて答えた。


「それは、神様の気まぐれだよ。神様は、世界中の何もかもに、適当に色を付けたんだ。」


海がどうして青いのかなんて、アーロンにも分からなかった。きちんとした理屈はあるのだろうが、別に知る必要もない。子供をあやすような感覚で、アーロンはその場しのぎの事を言った。


「神様なんていないんじゃなかったの?アーロン、自分で前に言ってたじゃない。」


「昔はいたんだよ。でも、この世界があんまりに酷いものだから、神様はどこかへ行ってしまったんだ。」


そう、神様など、この世界にはいない。

誰もその事に気付いてすらいない。

この世界にいるのは、人間達が生み出した、偶像という名の偽りの神様だけ。この世界の何もかもは、その偽りのベールに包まれている。

そんなベールなど、剥がしてしまうべきだ。

アーロンの答えに、ふーんと返事をしたリズの目は、以前としてどこか遠くへ置き去りにされていたようだった。

しかしその瞬間、リズはおもむろに立ち上がり、眉をひそめてどこかを注視する素振りを見せた。


「アーロン、あれ。」


リズが指を指す。貴族街の方だ、国際商業市場の大通りを、何人かの鎧の者達が、馬に乗って列を成している。どこかへ向かっているようだった。アーロンは何かを察したようにして、リズに向き直った。


「リズ、お手柄だ。あれは極光騎士団だ。"洛陽の翼"の人間も一人いるな。奴が出てくるってことはつまり…」


アーロンが言いかけると、リズはにっこりと笑顔で振り向き、右手でピースサインを作り、アーロンの目の前に突き出した。褒められて嬉しかったのだろう。無邪気に揺れるツインテールは、普通の女の子そのものだ。アーロンもまた、その彼女の表情を見て、微笑を浮かべた。


「まだ確定ではないが、十中八九そうと見て間違いないだろう。奴らの向かった方向は…」


アーロンは、洛陽の翼と呼ばれる彼らの進行方向をなぞり、行き先を推理してみせた。洛陽の翼とは、この極光都市シャナラを守護する、極光騎士団と呼ばれる組織の中の精鋭部隊であり、貴族街の中心にそびえ立つ城、"見えざる城"に駐在している連中だ。余程の事がない限り、王の直属である奴ら城を出ることをしない。だが、現にこうして出てきている。そして彼らの行き先は…


「大聖堂ね、どうする、先回りして様子を見てこようか?」


アーロンが口にする前に、リズが先にその場所を口にした。早く動きたくてうずうずしているようだ。


「いや、奴らの後を追う形でいい。そこで少し様子を見よう。」


「はいはーい。」


リズは陽気に返事をすると、軽い足取りで、時計台から飛び降りた。アーロンは洛陽の翼の姿を目で追いながら、彼らの行き先であろう大聖堂へと視線を移した。やがて、アーロンも、リズに続いて時計台から飛び降りると、丁度時刻は正午を迎え、青銅の鐘の、重鈍とした音が鳴り響いた。


---


鐘の音が聞こえる。正午になったのだろうな。とシリは思った。

シャナラの貴族街の中心に建つ大時計台を、シリはあまり好きではなかった。無駄に衣装がこしらえてあるし、金の無駄遣いだと思えてならなかった。外壁側の貧民街には、沢山の貧しい人達で溢れていて、飯にもろくにありつけない人間ばかりだと言うのに、この貴族街の連中と来たら、有り余る贅沢を貪るようにしているし、ちっとも悪びれる様子なんてない。最も、彼女には関係の無い事だが、そういう弱肉強食のような、適者生存的な社会の在り方は、どうしても好きになれなかったのだ。


真昼だと言うのに、大聖堂は薄暗かった。

色とりどりのステンドグラスから、僅かに射し込む日光が、プリズムのように光柱となって室内を照らし、信仰熱心な連中は皆揃って、奥にあるシャナルリオラの巨像に祈りを捧げていた。老人や派手な衣装を着た貴族、子連れの女や若人、老若男女問わず、あらゆる人間が席について、各々何かを想っているようだった。

シリは大聖堂の祈り場の端に、壁に寄りかかるようにして、そんな連中の様子をぼんやりと見つめていた。別に用があったわけではない、ただ、シャナルリオラがどれだけ信仰されている神なのかとか、姿形はどんなものなのかとか、そういう確認作業しに来たに過ぎない。シャナルリオラの巨像は、シリが想像していた姿とは少し違ったものだった。大方、聖母のような慈愛に満ちた女性だと思っていたのだが、その真逆、威厳に満ちた、半裸の筋肉質な男性。顎髭から頬髭までぼうぼうに生えていて、いかにもな風貌だった。シリはそれを見て、少し可笑しくなって、口元を歪めた。


パイプオルガンの崇高な音色が大聖堂内に響き渡る。見ると、白い聖堂服を着た若い女性が、床から天井にまで伸びたパイプオルガンの前に座り、鍵盤を叩いていた。余りに大きなパイプオルガンが故に、奏者がちっぽけな小人のように見える。すると、懺悔室から一人の男性が出てきた。何を告白し、懺悔したのやら知らないが、とてもほっとしたような顔付きだった。そして男は長椅子に座ると、何やら独り言を呟きながら、両手をグーに合わせ、祈り始めた。


シリはその姿を見て、ひどく滑稽に思った。神とは、つまり人の弱さが生み出した物に過ぎない。それにすがりながらでないと生きていけない、そんな弱い人間を、シリは心の底から嫌悪していたのだった。シリは壁にもたれかかっていた背中を上げると、ゆっくりと聖堂の中心に移動する。赤く長いマットが敷かれた中央の通路だ。見上げるようにして、シャナルリオラの巨像を見つめる。


しばらくそうしていると、後方から忙しない足音が聞こえてくるのに気付いた。パタパタとか、そういう軽快な音ではない、それは重い足取りで、そう、鎧のような音。

次の瞬間、大聖堂の扉が勢いよく開かれた。


「全員動くな。」


聖堂内の人々は、一斉に何事かと振り向いたが、シリは振り向くことなく、ただ目の前の巨像を見上げていた。扉を開いたのは、予想通り、鎧を着た人間だった。無骨で煌びやかな鉄の鎧は、この薄暗い聖堂内でも、一際眩しく見えた。胸には何やら紋章が付けられている。街中のあちこちで見る、シャナルリオラの紋章だ。


「極光騎士団の者である。この中に堕人がいるとの情報があった。調べさせてもらうぞ。」


鎧の男がそう言うと、突然の事に拍子抜けしていた信徒達が突如、ざわめき始めた。


堕人。それは人間にとって、忌むべき存在であり、迫害の対象。人間と呼ぶには、余りに忌まわしく、脅威となる存在。それがどんなに醜い存在なのか、シリは誰よりも深く知っている。


「その場から動くんじゃないぞ。少しでも動けば、反逆罪として捕らえる事になりかねん。一人ずつ調べるから、全員その場で…」


「その必要は無いよ。」


声を荒らげて人々を恐喝する極光騎士団の男の発言を、遮るようにして言ったのはシリだった。彼女は依然として、巨像を見つめ、男に背を向けている。人々の視線が、一瞬にして彼女に集まる。シリは口元を歪め、振り返りながら、続けて口を開く。


「私が堕人だもの。」


彼女の発言から少しの間を置いて、周囲の人間が悲鳴をあげて彼女から離れていく。阿鼻叫喚の喧騒にまみれた大聖堂に、もはや安寧など無くなった。堕人である、彼女の発言によって。


「貴様、よくも堂々と…!」


極光騎士団の男は、歯をぎりぎり言わせながら、拳を強く握った。男の風貌を見る限り、さほど階級は高くないようだった。シリにしてみれば、有象無象に変わりない、虫けらのような存在だろう。


「何だよ、わざわざ探す手間を省いてやったって言うのに、礼のひとつもないなんて、極光騎士団の末端は、人としての作法ですら出来ない恩知らずなのか。大層なご身分だ。」


鋭い目付きで相手を睨みながら、不敵な微笑を浮かべてシリは言う。いつの間にか、聖堂内にいた人間は、一人残らず逃げていた。鎧の男は後ろに引き連れた部下らしき有象無象に手で合図するようにして、右手を前方へと掲げた。


「お前には殺害の許可も出ている。潔く投降するのであれば、命までは取らないつもりだったが、気が変わった。今ここで抹殺してやろう。」


大きく出たものだな。とシリは思った。一体どこからそんな自信が出てくるのか、シリはまったく理解に苦しんだ。負け犬の遠吠えとは、まさにこの事だろう。神に祈る信徒や、くだらない大仕掛けの時計台も相当滑稽だが、この手の人間が一番見ていて滑稽だ。無駄に吠える五月蝿い犬を黙らせるにはどうするか、そんな事、分かり切っている。


そう、力で分からせるしかないわけだ。


男の合図で、後列にいた騎士団の兵隊が銃を構える。騎士団と銘打っておきながら、銃を使うのも変な話だが、戦闘時における合理性を考えれば妥当な選択だろう。何でも、古代文明の産物をベースに造られた兵器らしいが、そんなもの、所詮鉛玉が目にも止まらぬスピードで飛んでくるだけの玩具に過ぎない。


「撃て。」


男は憎悪のこもった掛け声をかけ、それと同時に、銃声が鳴った。単発式のセミオートライフルが、マズルフラッシュを焚いて鉛の玉を吐き出す。そこに大聖堂にあったはずの静寂はなく、この場所はこの瞬間から、戦場へと変貌した。


銃声が鳴ると同時に、シリを囲むようにして配置してあった長椅子達が、宙に浮き、それらが郡を成して、シリの前方へと立ち塞がった。銃弾はそれらにめり込み、木屑を弾けさせながら、乾いた破裂音を立てて爆裂していく。異様な光景だった。独りでに動く長椅子達は、全弾を受け止めると、そのまま極光騎士団の方へと、まるで殺意のある物体のようにして、物凄い速さで突進を仕掛けた。

先頭にいた鎧の男は、間一髪、腰に据えた直剣を抜刀し、長椅子を斬り伏せたが、後列にいた者達は、その殺意ある長椅子達にあっさりと呑み込まれ、圧殺された。数メートルほど吹き飛ばされた兵隊達は、長椅子によってあっけないほど壁に突き飛ばされ、そのまま挟み込まれる形で椅子に押し潰された。血飛沫が壁に飛び散り、その木材が、どれだけの速度で彼らを蹂躙したのかは、容易に想像出来た。瓦礫と化した兵隊と長椅子の下から、真紅の鮮血がじわじわと流れてくる。

先頭にいた兵隊は、それを見て恐れをなしたか、直剣を両手で持ち直し、やや震えた手つきで、それをシリに向けて構えた。


「化け物め…!」


男はそう吐き捨てる。負け犬もここまで来ると萎縮する。無意識に後ずさりをしていることに、彼自身気付いていないようだった。シリは高らかに笑う。


「化け物ときたか、そいつは良い。私は人間ではなく、人間の形をした化け物ってわけだ。」


余裕の表情で笑うシリを目の当たりにして、とうとう男の恐怖は絶頂に達し、理性が瓦解した。男は狂声をあげながら、直剣を突き立てて飛びかかった。


「お前さ、さっきは威勢よく、抹殺してやるだとかほざいてたけど。あれ、失言だったぜ。悪いけど、私もあの一言で気が変わっちまった。」


そう言って、シリは腰から短剣を取り出すと、それをくるりと手のひらで回し、逆手に持った。


「知ってるか?俺たち堕人には、人の境界から外れた代償として、大いなる力が宿るんだ。それは物質としての生命体、この世界の万物をも超越した、神の御業と呼ばれるものだ。例えば…」


シリは逆手に持ったナイフを、自分の胸へと突き立て、口角を釣りあげて目を見開く。


「こんな風にな…!」


突き立てられたナイフは、彼女の手によって、彼女自身の胸へと突き刺された。その瞬間、彼女の背中から眩い閃光が放たれ、その光は、螺旋状に渦を巻き、やがて色を変え、炎へと転化した。徐々に大きくなっていく炎は、たちまち流動して形を変えていき、聖堂内を埋め尽くすほど燃え上がった。しかし、炎だと言うのに、それは物質に引火することはなかった。


それが起こるのはほんの一瞬の事だった。直剣を突き立てて、突進を仕掛けてくる男には、何が起こっているのか、把握する間も与えられるず、男は静止出来ず、そのまま飛び込んでいく。まるで、炎に飛び込む羽虫みたいに、その勝負の決着は、誰が見ても、明らかなものであった。

シリの周りを蠢くようにして流動する炎は、獲物を補足し、飲み込むようにして男の体を包み込んだ。火の粉らしきものが周囲の布や、木材に飛び火するが、それもまた、引火することはなかった。飲み込まれた男は、人の声とは思えないほどの悲鳴をあげ、炎の中へと消えていく。そして火炎車のように炎は回転し、男の悲鳴が無くなる頃、その赤い熱は青へと転じ、やがて息絶えるようにして、消失した。

男だった物は、既に人とは呼べないほど真っ黒な炭へと化していて、それは膝から崩れ落ち、ゆっくりと、大理石の冷たい床へと倒れ込んだ。男の体は燃え尽きたというのに、鎧にはなんの見た目の変化もなく、熱で溶けた跡もなければ、変色した様子もなかった。肉の焦げた不快な匂いが、この広い聖堂内に立ち込めて、酷い悪臭にまみれた。いつの間にか、シリは胸から短剣を抜き取り、平然とした顔で、その元人間の死体を見つめていた。


「随分な妙技だな。物資を燃やすことはないが、人体だけは燃やすことの出来る炎。さしずめ魔炎と言った所かな。」


背後からの突然の声に、シリは振り向く。先程まで誰もいなかったこの聖堂内に、その男はいた。巨像の横に座り込み、こちらをじっと見つめるのは、先程の連中と同様、鎧の姿の金髪の男だった。その赤い瞳は、燃える炎のようにぎらついていて、見るものを畏怖させるような、恐ろしさがあった。シリは彼を睨み返し、無言のまま、短剣を低く構えた。シリは本能的に、彼がただものでは無い強者であることを悟った。実力や能力、そういう類の話ではなく、単純に、何かが他の連中とは違うのだという、まさに第六感という名の超感覚が、シリをそうさせた。


「お前、こいつらの上官か。」


シリは、今は血にまみれ、消し炭となった、人間だったものを背に、そう呟く。


「上官?笑わせるなよ。確かにそいつらの管理は一任されていたが、クソほどの役にも立たない連中だ。捨て駒だよ、捨て駒。堕人であるお前の能力を測るための、人柱みたいなもんだ。だから、そいつらは俺の部下でもなんでもない、物なんだよ。」


無機質に、無表情に、無感情に、赤い目の男は吐き捨てる。人の死を何とも思っていないような、無慈悲なことを言いながら、彼は目の前に転がる物達を、ぼんやりと見つめていた。


「だからさ、そういう面では、俺とお前は似てるんだよ。人の死に無関心なんだ。心底どうでもよくて、立ち塞がる者は屠るだけ。逆らう奴には容赦はしない。残念だ、そんな俺とお前となら、別の形で出会っていれば、きっと仲良くなれただろうに。」


男は口角を歪める。そんな協調的な言葉でさえも、彼の口調には一切の感情がなかった。


「戯れるなよ狂人。俺が言うのも何だけどさ、お前、相当狂ってるよ。知ってるぜ、お前、洛陽の翼のティリオンだろ。イカれた奴だとは聞いていたが、まさかここまでとはな。悪いけど、俺はお前と仲良くするつもりなんて毛頭ないぜ。いいか、死ってのはな、人間なら誰もが平等に持つ終末概念なんだよ。それをお前は、自衛のためにこいつらを使い、先に死なせた。他でもない、自分自身の命が惜しいがためにな。だから、お前は私とは違うよ。お前は自分の命が大切だと無意識に思ってる。でも私は、自分の命でさえ無関心なんだ。その時点で、それはもう、私とお前との決定的な差異にほかならないだろ。だから、私はお前を否定する。遠慮はないぜ、立ち塞がる者は屠る。そうだろ?」


シリは言った。片手に構えた鋭利なナイフを煌めかせながら、彼女の眼光は既に、ティリオンの首筋を見据えていた。


シリは、死というものに、欠片の恐怖心ですら持たなかった。故に、彼女は死の重みが理解出来なかった。誰かを殺す痛みも、自身が死ぬ恐怖も、まるでその心理が、すっぽり心から欠落してしまったように、或いは、あたかも最初から、そこになかったかのように、彼女にはそれが無かった。彼女に有るのは、ただ己が内に燃ゆる冷たい魔炎だけだった。シリの反論を聞き、ティリオンは不気味に笑いながらその腰を上げる。鎧の重々しい音が鳴り、胸の翼を模した印章が煌めく。これは極光騎士団の上位層、洛陽の翼と呼ばれる少人数の部隊だけが与えられる、特別な称号だ。


「なるほど、そう来たか。確かにお前の言う通りかもしれないな、堕人。だが、命を軽率に捉えているというのは本当だぜ。なあ堕人。命を何とも思っていない殺人者が二人、その場で邂逅した時、一体何が起こるか知っているか?それはな、血なまぐさい狂乱の殺戮だよ。お互いどちらが狩る側なのか、それを楽しむんだ。それはつまり…」


ティリオンは腰に据えた直剣を抜刀する。先程の連中とは違い、その剣の柄の部分には、青い宝石のようなものがはめられており、扱うには少し重そうな見た目だった。それを軽々と片手で持つと、ティリオンは途切れさせた台詞を再開する。


「存分に殺し合えるって事だ。」


地面を蹴るようにして、歩幅数メートルの大きな跳躍。と同時に、ティリオンの構えた剣は、眩く光を放ち始めた。いや、光が放たれたのではなく、周囲の光が、その鋭く分厚い鋼の刃に、収束しているように見えた。それはやがて閃光となり、彼の剣を、光そのものに変質させる。それは、瞬き一回程度の刹那であった。シリは反射的に、再び胸に短剣を突き刺した、しかし、先とは違い、彼女の背中から炎が出力されることは無く、今度は突き刺した胸の部分から炎が噴き出した。抜き取られた短剣は、その炎を纏い、しなる鞭のようにして、それは剣を模した形に変貌した。そして、二人の持つ異質な剣が激突し、甲高い金属音が聖堂内に響く。衝撃波が立ち、二人が競り合った場所の床が地割れを起こす、その硬質さが強みの大理石でさえ、衝撃波だけで簡単に割れてしまい、そのふたつのストレングスが、どれほどの威力なのかは、誰が見ても一目瞭然であった。競り合いも束の間、ぶつかり合う力の拮抗を、シリは右上方に受け流し、勢いそのまま、炎剣を振り下ろす。ティリオンは素早くそれを後方に飛び回避する。シリが振り下ろした炎剣は、前方へと扇状に炎を放ち、ティリオンの回避先に追撃を放った。しかしそれを意図も容易く、彼は剣を払うだけで、その炎を退けてみせた。


シリは違和感を感じた。ティリオンと競り合った時、微かに、剣に纏った炎が揺らぎ、消えかけたように見えた。彼女はそれを感じ取り、すぐさま競り合いを止め、反撃に打って出たのだが。


そう思考している内に、ティリオンは体勢を変えて、またも大きく歩幅を取り、間合いを詰めてくる。彼の持つ剣は更に光を収束させ、まさに極光の域に達していた。そして先ほどと同様にして、シリはその剣を受けようとする。しかし---


シリは確かに、迫り来る極光の斬撃を受け止めた筈だった。しかし、彼女が気付いた時には、彼女は側腹部に鈍い痛みを感じていた。視界が揺らぐ、合わない焦点、聖堂の荒廃とした景色が、反転するようにして、目まぐるしく動く。その時間は決して長いものではなかった、むしろコンマ単位のものであっただろう。次に感じたのは、背中の激痛。何かに叩きつけられたような感覚と、慣性が働き、後頭部を強くぶつける。今度こそ視界は暗転し、一瞬意識が消えた。


---何が起こった…!?


シリは虚ろな意識の中、状況を整理しようと、理性を、その暗然とした虚の中から引っ張り出し、思考した。視界が良好になってくると、目の前に、いや、少し遠くに、光が見えた。それは迫ってくる。とてつもない速度で、こちらに、真っ直ぐに---



シリが完全に意識を取り戻し、その光を回避するのに、所要した時間は二秒ほどだった。背中と側腹部の痛みなどその時はどうでもよかった。壁にめり込んだ体を強く起こすと、骨が軋む音がしたが、迫り来る閃光を目の前にして、その程度の痛みで悶絶している訳にはいかない。横っ飛びをし、それを辛うじて回避すると、壁に着弾した閃光が爆裂し、衝撃波がシリを飲み込んだ、そのまま宙へと吹っ飛んだが、シリは空中で体勢を立て直し、どうにか立ち直った。自分がどの方角に飛ばされ、ティリオンがどの方向にいるのか、それを瞬時に判断し、短剣を構え直す。シリは攻撃を受けてる最中も、無意識に、短剣だけは手放してはいけないと、それを強く握っていた。幸い、それはまだ片手にあった。耳鳴りが止み、視界を取り戻すと、少し遠くに、およそ三十メートルほど先、シャナルリオラの巨像を背にし、中央の砂埃と瓦礫にまみれた赤いロングマットの上を、悠々とした面持ちで、こちらに向かって歩いてくるティリオンの姿があった。その目は赤く揺らいでいる。


そこでようやく、シリは今の出来事を整理することに成功した。確かに、ティリオンの斬撃は、自分の炎剣により再び競り合いになった。しかし、その直後だった、シリは確かに見た。炎剣の炎が、まるでロウソクに息を吹きかけたみたいにして、一瞬のうちに消え去った瞬間を。炎剣が消失し、それがあった場所からすり抜けてきたティリオンの斬撃を、間一髪シリは避けたが、甘かった。すかさずティリオンは回し蹴りを一発、シリの側腹部に打ち込み、そのままシリは壁際に吹っ飛ばされたのだ。


ようやく冷静になり、事態を把握する。

炎剣が消えるなど、有り得ない現象だった。あの炎は、風や水で消えるような、そういう類のものではなく、極めて魔的な、世界に現存する全ての物質が持つ法則から逸脱したものなのだ。それが突然消失することなど、使用者の命が潰えない限り、有り得ない。


「鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしてるな。そりゃそうか、なんてったって、お前自慢の魔炎が、独りでに消失しちまったんだからな。」


ティリオンは煽るようにして、こちらへ歩み寄りながら言う。シリは歯をぎりと音を立てて噛み締めた。独りでに。ティリオンはそう言ったが、恐らくは違う。タネはきっと、彼の持つ剣、或いはそれが纏う光か、 どちらにせよ、剣戟を交えることはもう叶わない。かなり不利な状況だろう。いよいよ、敗北の時が迫ってきていた。


「お前、一体何をやりやがった。」


シリは睨みながら言う、答えてなどくれないと分かっていたが、そう尋ねずにはいられなかった。しかしティリオンの返事は以外にもさっぱりしたものだった。


「別に俺は何もしちゃいないさ。この剣はちと特殊でな。堕人を殺すためだけに特化された特別仕様なんだが、なんでも古代ソラなんたらとかいう文明の異物を復元したものらしい。まあ、詳しいことはよく分からんが、要するに、これはお前を殺す為の切り札ってわけだ。堕人の使う魔法は全て、この剣が打ち消しちまう。さっきのからくりはそういうこと。最も、これを知ったところで、お前の勝算が上がるわけでもないがな。」


シリは舌打ちをした。ティリオン、いや、問題はあの対堕人用だと言う剣だろう。予想以上に厄介な相手だ。剣戟での戦闘を仕掛けられない以上、遠隔魔法による攻撃が比較的安全ではあるが、それも全て、あの剣の前では意味をなさない。加えて、この隻眼の男、ティリオンは、その速度が常軌を逸している、距離を開けたとしても、直ぐに詰められるのがオチなのは明白だった。シリがそう考えているうちに、ティリオンは間合いを詰めてくる、シリは、それを避けることしか出来なかった。攻撃の手段がなければ、隙も生まれない、この勝負の決着は、既に………


「ッッッッ……!!!」


ティリオンの斬撃をかろうじて避けたものの追撃がそれを許さない。ティリオンの放った極光がシリを呑み込んだ。太く巨大な光柱が、縦一直線に放たれ、大聖堂の内部を蹂躙する。シャナルリオラの巨像もろとも、その光は何もかもをなぎ倒していき、大きな爆発と共に、大聖堂の奥で止まった。地面が一直線にえぐれており、かつて神聖な場であったはずのこの場所は、既に阿鼻地獄の様相を呈していた。


「おいおい、冗談だろ。ゴキブリよりタフな女だな、お前は。完全に消し飛んだと思ったぜ。まさかまだ生きてるとはな。」


シリはまだ生きていた。常人なら確実に、塵埃も残さず消えていたであろう粒子の波動。堕人が元来より持ちうる、魔法への耐性が、功を奏した。最も、対堕人用の剣から放たれたその光の威力は凄まじく、シリは手足が痺れ、その場からぴくりとも動けずにいた。


終わり。


何をすることも無く、こうも簡単に、自分の生は終えるのか。そうシリは思った。別に死ぬのは怖くはないが、少しつまらない気持ちになった。どうせなら、もう少しだけ、この世界を歩き回ってみたかったが、それももう、この男の手によって、終焉を迎える。


---今思うと、本当につまらない人生だった。


私はどこで生まれて、どこで育ったのか、あまり良く覚えていない。でもどうせ、ろくな環境で育っちゃいないだろう。でなければ、こんな歪んだ女が生まれるはずない。私は幼い頃から、その力を、紛れもない力として認識し、それを武力として行使して、人々を妨碍してきた。気分のいいものではなかったが、人間は皆、私を化け物扱いして、迫害した。それが気に食わなくて、色々と酷い事もした。結果的に、私はこの異能を使って、暗殺稼業やら何やら、専ら汚れ仕事ばかりをやるようになって、そういう力を必要としてる各勢力、または個人から依頼を受けて、それを成してきた。まさに、堕人と呼ぶに相応しいナリだ。とある依頼で、こうしてシャナラに訪れたわけだが、どうやらハメられたらしい。アールシアにいたあの情報屋が、恐らくは発信源だろう。あの男しか俺の行き先を知らないし、その情報を、高値で極光騎士団に売るかなにかをしたわけだ。全く、人間は信用ならない。金になるならなんでも喋る。ああ、これが私の、やってきたことの結末か。


---


光が差してきた。天井が崩れ、太陽が顔を出して、シリを照らしていた。仄かに暖かい日差しが、何となく、彼女をやさしい気持ちにさせた。依然として、手足は動かず、彼女はただ、項垂れた人形のようにして、ひび割れた壁に寄りかかっていた。ティリオンが近付いてくるのが見えた。その顔は笑っていた。狩るものの顔だ。私も人を殺す時、こんな顔をしていたのだろうか。シリはそう思い、なんだか虚しくなった。同時に、こんな奴に殺されるのかと思うと、ひどく腹が立った。


「チェックメイトだな。まあ、少しは気晴らしになったぜ。感謝するよ、魔炎の堕人さんよ。」


ティリオンはゆっくりとシリに歩み寄り、剣を彼女に突き立てた。


「最後にひとつ訊いてもいいか。」


先程まで、殺戮を楽しみ、狂喜していたティリオンが、口調を落ち着けて言った。シリは薄れゆく意識の中で、ようやくの思いで顔を上げ、彼を見つめる。


「堕人。俺にはお前らの事がよく分からない。その存在の意味、理由、出生、そしてその異能。何もかもが規格外だ。聞かせろよ、お前はなんの為にこの世に生まれてきたんだ。」


沈黙が耳に痛かった。そんな事を訊かれても、シリには分からなかった。シリはその愚問に、鼻で笑うと、答える。


「それを聞いて、一体何の意味があるって言うんだ。」


弱々しい掠れた声で、それがティリオンに聞こえたのかどうかも、正直のところ怪しかった。左目の視界が赤かった。どうやら頭部の裂傷から出た血液が、滴って目に入ったらしい。赤い世界ってのも、実に物々しくて気味が悪いな。そうシリは思った。


「それもそうだな。聞いた俺が馬鹿だったよ。」


ティリオンは静かに剣を上にあげ、それを振り下ろそうと構えた。


「じゃあな。地獄でまた会おうぜ。」


彼の持つ剣が、勢いよく振り下ろされる瞬間だった。


「はいは〜い!失礼しま〜っす!!」


突如として頭上から聞こえたふざけた声に、ティリオンは剣を間際に止めて、上を見上げた。


空間が歪むのを、ティリオンは見逃さなかった。空を鋭く裂く音が耳をつんざく。そして"それ"は、紛れもなくティリオンに向けて放たれた"何か"であった。完全に棒立ち状態だったティリオンは、体重移動が間に合わないと判断し、その何かを剣ではじき返す。火花が散り、その透明な何かは、その時点で消失したようだった。しかし、間髪入れずして、その透明な何かは、連撃のようにして、再び頭上から、雨のようにティリオンの元へと降り注いだ。堪らず、ティリオンはそれをいくつかはじき返すと、後方へと回避行動を取った。


「こっちだよ。」


後ろに気配があると感じ取った時には、既に遅かった。振り返る間もなく、何かに背中を殴打され、宙に浮いた。目の端で捉えたのは、少女だった。赤いドレスのような服で、ゴスロリと言うべきだろうか、とにかく個性的な様子だった。殴られた鎧が凹み、宙に浮いたティリオンの腹部に、続けざまに何かの攻撃が加わり、ティリオンはVの字になって地面に叩きつけられた。シリはその様子を、虚ろな目で見ていた。何が起こったのか、彼女にも分からなかった。チャンスだと思い、動かない手足を動かそうと、必死に力を入れようとしたが、少ししか動くことは無かった。その時、目の前に人影が現れた。


「立てるか。」


手を差し伸べてきたのは、フードを深く被った男だった。声から推察するに、シリと大して年齢は変わらないかもしれない、とにかく、青年の声だ。


「あんた、誰だ。」


さっきよりかは、はっきりとした口調で喋ることが出来た。口の中の血の味が、妙に気持ちが悪くて、シリは唾を飲んだ。


「君を助けに来た。他でもない、俺達を助けて欲しいからだ。」


簡潔に、青年はそう言った。逆光のせいで、顔がよく見えなかったが、その声は透き通るようで、されど程よく低音で、胸に心地よい音色を響かせてくれるようなものであった。


「生憎、手足が動かないんだ。」


「そうか、なら肩を貸そう。リズが時間を稼いでいるうちに、ここから離脱する。」


リズ。あの赤いドレスの少女の名だろうか。というより、奇妙な光景だった。赤い少女の目の前で、ティリオンは、何も無い空間で、まるで弄ばれるようにして、空中を右往左往しているのだ。しかしそれは、何かに殴られ続けているようにも見えた。その様子を、赤い少女、リズは、ただ立って見つめ続けているだけだ。


「何だよ、あれ。」


シリはその様子をぼんやりと見つめながら言った。


「君も知っての通り、あの男と君との相性は最悪だが、リズとあいつの相性は最良だ。ただそれだけの事だ。」


青年はシリを肩で担ごうとしたが、余りにシリの脱力加減が酷いものであったので、彼は仕方なく、シリを背負った。シリが青年から聞きたかったのはそういう答えではなかったのだが、シリは適当に相槌を打った。


「お前、自分が誰に手を貸してるのか分かっているのか。」


「ああ、分かっているとも。」


青年はしっかりとシリの太ももを支え、背負い直した。シリは落ちないように、その力が上手く入らない腕で強く、青年の肩に手を回した。続けて、シリは言う。


「極光騎士団の連中は、きっと私を全力で潰しにかかってくるぜ。洛陽の翼まで出て来てるんだ。街の至る所に包囲網が敷かれてるはず。逃げ場なんてどこにもない。」


「問題ない。その辺の手筈は整っている。」


青年はさらっと言ってみせた。シリが堕人で、そしてシャナラ都市内に潜伏している事実が判明している以上、極光騎士団は恐らく、彼女を袋叩きにするために、街を要塞化しているのは明白だった。街の外へと逃げる事は、シリには不可能に思えたが、この青年は、こうなることを予期して、前準備を整えていたというのだろうか。シリは疑心暗鬼になりつつも、今はこの男に身を委ねるしかないことを悟り、青年を信じ、何も言わずにいた。


一方、ティリオンと相対したリズは、攻勢を保っていた。余裕の表情でその辺の瓦礫を足でなじって遊んでいるリズの前に、ティリオンはひざまずく形で息を切らしていた。


「冗談キツイぜ。俺は魔眼の素質なんて欠片もないんだ、''視えない物''は見えないんだ。」


よろめきながら立ち上がり、ティリオンは言った。口からは血が滴っていて、綺麗な金髪も、土埃でひどく汚れていた。


「何が目的だ、てめぇ。堕人を助けるなんて、お前ら自分が何をやってるのか分かっているんだろうな。」


「どうだっていい。」


「は?」


「だから、どうだっていいのよ。私にとって、堕人とか、極光騎士団とか、今後の人生とか、この世界とか、正直どうでもいいの。私は、彼が望む未来を望む。私の願いは彼の願い。それだけが、私の唯一の意思。本当はね、ここであなたを殺してもいいのよ。でも、彼はそれを許してくれないのよ。人殺しにだけはなっちゃいけないってね。」


リズは相変わらず、足で砂いじりをしながら怠そうに答える。彼女の背後には、何かがあった。そこには何も無いのだが、空間、空気というものが、僅かに歪曲していて、その歪みは、大きな人型のようにも見えた。ティリオンはその背後の何かを見つめながら、口元の血を拭った。


「お嬢さん、悪いが、俺は立場のある人間だ。ここで敗北の苦汁を舐めるようなことは、決してあっちゃいけない。まあ、この時点でほぼ負けたも同然なんだが、せめてお嬢さん、君の首でも持って帰るとするよ。」


ティリオンは髪を片手でかきあげ、ニヤリと笑う。完全に、ティリオンの意識は、リズを殺すということだけに向けられた。その異常なまでの殺気に、リズも思わず顔をしかめて軽く構える。


「無理よ。あなたは私には勝てない。魔眼を持たない一介の人間が、私の不可視の人形を打ち倒すことなんて、出来っこないわ。」


リズの不可視の人形は、その名の通り、目に見えない存在だ。その人形は、彼女の意思と思考とにリンクしており、半自立的に行動をし、防衛、攻撃を行う。不可視ではあるが、物質としてはそこに存在しているため、それに触れることは誰であろうと可能である。しかし、それを視認するには、きわめて魔法的な体質が備わっている人間であるか、俗に言う、見ることの出来ない物を見る、魔眼の所有者であるかに限られてくる。ティリオンは魔眼こそ持たないが、少なからず体質が魔法に適応しているため、うっすらとであるが、人形を視認することが出来た。それでも、細かい挙動などを見極めることが出来ないため、彼の形勢不利は圧倒的なものであったが、それでも、見えないよりかはマシだと、彼はそれだけを、勝機の根拠にしていた、



「いいや、可能性はゼロじゃない。俺は戦闘において、一つ信念として貫いているポリシーがあるんだ。それは、敵が弱者であろうと強者であろうと、立ち塞がればねじ伏せる。そこに容赦なんてねえ。どちらかの息が止まるまで、徹底的に骨肉切断の争いを続けるってことだ。だから、お前は俺を殺さないと言ったが、俺はお前を殺す気で行くぞ。」


ティリオンの剣に、再び光が収束する。この光は、堕人に特化した、シャナルリオラの加護を元に生成する、いわば威光のようなものだ。堕人ではないリズに対して、いかほどの効果があるのか、彼には分からなかったが、それでも、彼は今のこの状況を、どうにか打破せねばならなかった。


「そう、ならせめて、死なない程度に。そうね、九割九分九里くらいの割合で殺してあげる。」


リズが言い放つと、ティリオンは笑う。


「そう来なくっちゃなぁ…!」


ティリオンの剣に宿った光が解放され、それは覇気となって、旋風を辺りに巻き起こした。その旋風は、彼の金の髪を、鎧のマントを、聖堂内の切れた垂れ幕を、ひらひらとたなびかせていく。先に仕掛けたのはリズだった。不可視の人形が振り下ろした右腕は、空を切り、びゅんと重い音をたてながら、それはティリオンの頭上へと落ちていく。着弾と同時に、地面が弾け飛び、大きなクレーターが出来る。ティリオンは大きく上に跳躍をして、後方に飛ぶ。前方へと飛ぶつもりだったが、回避をする間際、彼は横目で見たのだ。恐らくは腕であろうものが、二本ではなく、六本あったところを。てっきり、リズの使う人形は人の形をしているものだとばかり思っていたが、どうやらティリオンの予想以上に、厄介な人形だったらしい。接近すれば、恐らくは今度こそ、その六本の腕で蹂躙されることは間違いない。そう感じ取り、ティリオンは後ろに飛んだのだった。


「確実に一本ずつ潰していくしかないか…」


冷静にティリオンは呟く。この場合、遠隔で攻撃を仕掛ける手もあるが、それはきっと無意味だ。そもそも存在そのものが魔法の産物である不可視の人形に、この堕人特攻の極光剣が放つ魔法が効くとは到底思えなかった。故に、彼は一つずつ、人形の腕を潰していかなければならなかった。

そう思考していると、突如、右肩に痛みが走った。何かに切り裂かれたような感覚。


「私の前で地面から足を離さない事ね。蜂の巣にされるわよ。」


迂闊だった。最初に奇襲を仕掛けられた段階で、リズにも遠隔での攻撃手段があることを、しっかり記憶しておくべきだったのだ。リズは人形から、見えざる鋭利な統合物が、いくつか放たれる。それは槍か、剣か、ナイフか。ティリオンには分からなかった。ティリオンはそれを、一本も見逃すことなく、全てたたき落とし、着地を果たす。いつの間にか、シリとあの青年は消えていた。とてもではないが、ティリオンにはあの二人に構っていられる余裕があるはずもなかった。予想外の事態ではあったが、彼は今、とてつもなく高揚していた。目の前にいる少女は強い。自分より強いというわけではない、単に、自分に対しては強いということだけなのは分かっていた。例えるなら、彼女は天敵だろう。生物には天敵が必ず存在する。これは自然の摂理だ、誰しもが、その天敵を目の前にすれば畏怖し、回避しようとするだろう。だがティリオンは違った。目の前の敵が恐ろしければ恐ろしい程、彼は闘いに愉悦を見出し、悦喜する。彼はいつでも闘争を求める。そのために彼は、極光騎士団に入り、洛陽の翼の一員となったのだ。彼は息を切らしながらも、ニヤリと笑う。


---これだ、これこそが闘争。死の恐怖、痛み、溢れ出る脳汁。これが俺の求めているものそのものだ……!!!


「いいぞ、いいぞお前…!!最悪だ、俺にとって最悪の驚異だよお前は……!」


ティリオンの血走った眼球は、既に正気ではなく、それはリズへと向けられた。リズはその目に、ただならぬ狂気を感じ、嫌悪感を覚えた。


「被虐願望なら他所でやって。」


明らかに嫌悪している表情をしながら、リズは害虫でも駆除するような感覚で、人形を使役する。

彼女のあらゆる方角からの攻撃を、的確に見切って回避するティリオンの脳には、もう既に、本来の目的であった、堕人の捕縛及び抹殺という任務は、忘却の彼方であった。






















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夢視る星が堕ちる頃 糸紡弥生 @zeromait

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