それはリンゴですか? いいえ、ボブです。

邸 和歌

即おっぱい


 「おっぱい」


 うーん、やはりおっぱいだろうか。うーん……


 一人の男が、はじめの言葉を考え始めてから既に小一時間経っていた。



 ■■



 いよいよこの時がやってきた――

 喜びとも緊張とも知らない感覚が日を重ねるごとに増していった。

 いつの頃からか、私は何度も何度も妄想を繰り返してきた。

 どれだけの時間、原稿と向き合ってきただろうか。

 原稿を書いて、直して、悩んで。多くの言葉を紡ぎ並べる繰り返しの中で、自分に文章力がついた実感が湧いたのはいつの頃からだっただろうか。

 それなりの文が書けた自信はある。その日が決まった後も改稿に改稿を重ねた。それに伴い、この後に控えるスピーチへの不安も少しずつ拭われていった。


 ただ一つ以外については。


 スピーチの一言目、最初の言葉。

 それはこれから始まる物語のはじまりの言葉になる。その最初の言葉をどうするか、腹を括りきれずにいる。

 無難な言葉を使い、それなりの始まりにするのがベターなのは分かっている。

 しかし、一生に一度しかないこの機会に、そんな無難な言葉で良いのか。私の性格上の問題ではあるのだが、ちょっとしたユーモアというか、悪戯心というか、そういった場にそぐわない思いが鎌首をもたげているのだ。

 厳粛な場において、そのはじめの一言は大きな看板にもなるし傷にもなる。これまで私は、周囲が期待する私へのイメージを維持する事を第一とし、保守的とも言える言動に心血を注いできたといっても過言ではない。その点においては人一倍努力出来たと誇れる。

 だからこそ、一世一代のこの場において、一度くらいは羽目を外したいという衝動が起きてしまうのも仕方がないのではないだろうか。



 おっぱい



 それは、全人類の原初であり、誰しもが憧憬を抱くものである。

 それゆえ公共の場においてはあまり軽々しく口にすることの出来ない言葉ともなっている。

 その言葉を、はじめに言うことが出来たら。

 その言葉を紡ぐ私を、多くの人に見てもらうことが出来たら。

 それはどれだけの羞恥と、快感と、懺悔と、愉悦を抱くことになるのだろうか。


 端からすれば自傷行動に見えるかもしれない。

 だが、時として人はそこに大きな魅力を見出すものなのだと、私は実感として理解した。



 ■■



 この際、無難な言葉を使う選択肢を一度無くそう。

 まずはインパクトのある、かつ多くの人に等しく伝わる言葉が「おっぱい」以外に無いのかを改めて検討するべきだ。

 すぐに思い浮かんだのは「うんち」だ。

 これも、人間すべからく知っているし、生きていく上で切っても切り離せないものだ。その点において「おっぱい」と同等だと言える。

 しかし、魅力という点においては「おっぱい」に負けるだろうという事も分かる。子どもにとっては爆笑ワードとなるが、流石に大人からすると笑えないだろう。まぁ「おっぱい」も笑える訳では無いのだが。

 とりあえず、「うんち」は次点としておこう。


 他に何か無いだろうか。前提条件としては、全員が知っており、確実に関わりのあるものでないといけないと思う。

 個人的には登山が好きなので「クレバス」とか「ピストン」といった言葉には親しみがあるが、そうでない人も多いだろう。その時点で却下となってしまう。

 ヴィオラにしたってそうだ。多くの人がヴィオラと言われて正確にそれを思い浮かべることが出来るかなんて、考えなくても分かりきっている。

 やはり人間の身体と密接に関わるものが候補となり得るだろう。



 しかし、もう私は「おっぱい」しか思い浮かばなくなってきている。



 これまで何時間何十時間と考えてきた上に、今だって連続一時間以上考え続けているのだ。頭が凝り固まって仕方がない。けっして私がおっぱい星人だからではない。けっして。それは私の妻を……これ以上はよそう。いくら思考の中とはいえやってはいけないこともある。



 あぁ、そろそろ支度をしないといけない時間になってしまった。

 正直まだ迷っているが、この迷いはどちらの選択をしようとも振り払いきれるものではないのだろう。

 ならば、一度くらいやらない後悔ではなく、やる後悔をしてみようではないか。



 ■■



「それでは、参りましょうか」


 装束を身に纏った私は付きの者にそう告げる。少しだけ予定より早い。だが、あと数分遅かったら周りから「参りましょう」と言われていただろう。これまでずっとそうだった。受け身だったのだ。だから、今から私は自発的に動く。


 皆の準備が整い、私たちは板張りの廊下を歩いていく。


 一世一代の行為。緊張で足が震えているが、装束のおかげで見えない。



(おっぱい、おっぱい、おっぱい、おっぱい)



 今この瞬間、私が緊張を解くために使っている言葉が「おっぱい」だとは全国民誰一人として思いもしないだろう。



 視界の端にテレビカメラが見える。多くの参加者の姿も見えてきた。皆がそれぞれの国の代表やそれに準ずる者たちだ。今現在、世界の中心は間違いなくここだろう。

 私はそのような場で、まさに世界の中心で、本当に「おっぱい」と言えるのだろうか。不安だ。もしかしたら言えないかもしれない。

 それでも、今この瞬間の決意だけは一生覚えておこう。そして、もし「おっぱい」と言えたのなら、周りからどんなことを言われようとも私は私を褒めてあげよう。



 ここは京都御所。


 今から私は、即位礼正殿の儀にて全国民に即位と「おっぱい」を伝えるのだ。






※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

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