食す。

馬汁

味噌カツ

 腹が減った。


 その一言が頭の中に浮かんできた頃には、外食する為の身支度を始めていた。



 最近になって一人暮らしを始めた私は、アパートの一室に居を構えている。

 生活環境はまだ整っておらず、冷蔵庫の中身は何もない。


 そう、腹を満たすにも、満足出来る飯を自分で作る事が叶わないのだ。

 だから私は、こうして慣れない住処の玄関に立っている。


 引っ越してきたばかりで、この辺りの地理には明るくないが、アプリを使えば近所の飯屋がすぐに分かるだろう。


 私はドアノブを回し、扉を押し開いた。



 何も調べず、偶然通りかかった店に入ってみる。と言う流れが王道だと言い張る者も、まあこの世のどこかにはいるかも知れない。


 そんな主張を張る彼らが多数派か否かは置いておき、私はこの地で迷子になるつもりはない。

 携帯の画面に映る赤い印の1つに目星をつけると、私はアパートの階段を下り、地上のアスファルトを踏んだ。


 その赤い印、所謂ピンと呼ばれるマークの横には、カツ丼という文字が目立っていた。



 ・

 ・

 ・



 地図アプリを見返すまでもなく、単純な道順を辿って行き、見えてきたのはカツ丼と大きく書かれた店。

 駐車場の7割は既に埋まっていて、態々遠方からも来る人もいると言うのがわかる。


 私はわずかな緊張を抱きつつ、入り口の扉に取り付けられた鈴を鳴らした。


 この店は別に個人経営というわけでも無いだろう。

 個人経営の店に駐車場なんて用意されていないだろうし、整った外装と、多くの店員をみれば、立派なチェーン店だとすぐに分かる。



 席に着くと、店員が水を持ってきてくれた。

 恐らくアルバイトであろう店員だが……、笑顔が眩しい。

 暗めの性格である私には、彼らの事が、異常な電力をかけられた電球の様に見える。


 ……別に悪口のつもりはない。


 メニューを取り出すと、この店の名が示す通り、確かにカツばかりが並んでいる。実際に丼にしたものと、別皿にした物もある。所謂定食だ。


 さて、どうしようか。


 ここはベーシックに、メニュー中央で「我こそが代表だ」と言わんばかりに陣取っているコレ、普通のカツを頼むのもいいだろう。


 しかし折角のカツ専門店だ。どうせなら、何かこだわった物が食べたい。



 決めた。

 味噌カツだ。


 味噌をソースのように使った料理は総じて味が濃く、そして強烈な風味をもたらしてくれる。

 私はこういうのが好みだ。店員を呼ぶと、味噌カツの定食を頼んだ。


 おや、メニューをよくみると、肉の部位、背か肩を選ぶことができるらしい。店員は何も言わずに、私の選択を待っている。


 …………今日は背の部位をいただこう。


 それを伝えると、店員はそれを復唱してからカウンターの向こう側に戻っていった。



 しばらくすると、自分の席に向かってくる店員が見える。

 彼の両手には、正に定食と言えるメニューが積載されたお盆が乗っていた。


 店員が去り、目の前に置かれたお盆に、思わず私は「おお」、と……口に出しこそはしなかったが、兎に角感激した。



 まず私の注目を浴びたのは、無論のこと味噌カツである。


 中央の皿に鎮座している味噌カツは、米の代わりに野菜の上に踏ん反り返っている。

 そしてそのカツは、俺の目を奪いかねない様な黒い威光が放たれていた。

 そう、ダークマターを連想させる程に黒い味噌が、カツの半分を包んでいる。


 それ以外にも左奥に味噌汁がある。普段見る味噌汁とは比較的暗めの色だ。

 右奥にはマッシュドポテト、そして手前にはたくあんだ。


 私はこの定食を前にして、口の中に唾液が溜まってゆくのを自覚した。



 手始めに私は、箸を手にとってカツを……ではなく、サラダを掴み上げた。


 身の上話になるが、幼い頃から苦手な物を最初から食べる癖が染み付いているのだ。

 味気ないキャベツやニンジン等に食らいつくなんて……。とまでは行かないが、だからって好みでもない。どうせ食べるなら美味いものが良いと思っているが。


 まあ、これにはドレッシングが掛かってるから、多分美味しく頂けるだろう。私は齧り付く。


 ……む、苦い。


 味気ないという評価を下回りかねない味だ。外れを引いた気分である。程々に噛んで、飲み込んだ。


 前菜と言うには少し食べづらい。これは最初に全て食べてしまうのではなく、平行して食うとしよう。



 さて、肝心のカツに齧り付く時間だ。

 予めカットされたカツを持ち上げてみるが、乗っかっている味噌は流れる事なく、カツの衣の上に張り付いている。

 中々粘度の高いソースのようだ。衣に染み付いている様子が無い。食感の特徴を奪ってしまうことは無さそうだ。


 私が味噌を感心する様に見つめると、黒い味噌が照明の光を受けて鈍く輝いた。


 その輝きを睨みつけながら、私は遂にかぶりついた。



 実の所、味噌カツと言うのは食べた事がない。

 他の味噌料理なら前に口にした経験があるが、これだけは未体験であった。


 そんな未体験が、私の記憶に刻まれる時が来たのだ。

 衣が歯によって砕かれ、肉が裂かれ、そして味噌と共に口の中で踊り出す。


 この一瞬で、舌は「旨い」という評価を下した。

 当然の評価だった。



 うま、うま。さく、さく。

 私がそのまま咀嚼を繰り返し、味を堪能していると、ふと口の中で違和感を感じる。


 ……苦い?


 その感覚を与えたのは私の舌に味噌が触れた時だった。

 いや、きっとなにかの間違いだろう。


 私は日本人の永遠の親友、白米を箸で掴んで、食した。


 やはり旨い。

 肉と米は決して相反する事のない組み合わせだ。これは今後千年変わることの無い事実だろう。



 またカツを掴み上げる。今度は味噌を怪しいものを見る目で睨んでから食した。


 しばらく噛むと、やはり苦味が舌に伝わる。

 これは一体どういうことだろうか。私の知る味噌と言うのは、この様な苦味を含まないと思うのだが……。


 私の知識が足りないのか、あるいはこの味噌が特殊なのか。


 そこまで考えて、この苦味だけが味噌の全てでは無いと考え直す。

 濃厚な旨味が口全体に広がったまま、タイミングを見計らって米を口に運び入れた。


 さく、さく。

 原型が残ったままの衣が割れる。


 うま、うま。

 噛むごとに風味が口の中に広がっていく。


 ……そして気がつく。この苦味は、「要る」。


 呑み込んだ後も味覚に神経を集中させると、苦味がじわじわと香りに変わっていく。

 おかしい。カツを噛み砕き、米と共に咀嚼しそして呑み込んだ筈なのに……———、



 味覚という器官が、今も旨いと叫び続けている……!


 口の中の何処かに味噌が張り付いていたって、こんな味の残り方はしない。

 なるほど、途中で苦味が現れるのは、このような風味を残すためだったのか!


 私はまたカツを噛み、この説を確かめるように味わった。

 ……やはり私は間違っていなかった。



 これがただの勘違いだという可能性はない物とし、味噌カツの味の工夫を読み解いた事に満足する。

 その勢いのまま、今度はサラダを食した。

 味噌の苦味を受け入れたお陰か、サラダの苦味にも寛容になったようだ。私は不味いとも思わず、サラダを噛み、細かく砕いた後に喉へ通した。


 さて、主役の皿だけに注目するのもこれぐらいにしよう。

 私はおぼんの端に目を向けた。



 主役の次は、マッシュドポテトを頂こう。

 口に運ぶと、味噌やサラダとはまるで違う、ふわふわとした食感とさり気ない甘みが得られる。


 まるで、どっしりと威圧感を発する味噌カツに対し、さり気ない優しさを添えられたようだ。

 ああ、これが無ければきっと、舌はずっと乱暴に晒されてばかりだったろう。



 よし、次にたくあんを食べるとしよう。

 小皿に乗った一枚を掴み、米の上に乗せる。

 そしてたくあんと米を持ち上げ……、食す。


 シャキ、シャキ。


 ああ、旨い。漬物の染み込んだ旨味と、この感触。それらが米の味を引き立ててくれる。

 この味わいは漬物単品では成し得ない。やはり米と一緒に食してこそだ。


 それにしても、このたくあん。

 私の妄想でなければ、恐らくコレも味噌カツとのバランスを取る為に調整されたのだろう。

 そうすると、マッシュドポテトとの二皿……いや、米を加えると、この三皿で味噌カツとの均衡を保っているという事になる。


 言わば、怪獣カツ対連合軍である。


 ……少し大げさな表現かも知れないが、此方としては納得できる表現なので良しとしよう。



 よし、連合軍の力で舌の感覚を整えた所で、次は味噌汁を味わってみよう。


 これはお行儀が悪いと、誰かが言っていた記憶が微かにあるが、構わずに箸で味噌汁をかき回す。

 沈んでいた味噌が渦を描いて浮かび上がり、全体に広がる。


 それを少しだけ眺めてから、ゆっくりとお椀に口を付けた。



 ズルズル。

 ……むはぁ。


 味噌の風味が口の中で流れ、味覚と言う名の軌跡を残しつつ、喉の中へ消えていく。

 普段飲む様な味噌汁とは違う色だったのだが、口に運ぶと香りまで違うことに気がつく。


 なんと言えば良いのだろう。

 元の繊細な印象の香りから、力強い味噌の味になった、とでも言うべきか。


 よく考えると、カツに掛かった味噌も黒いし、この味噌汁も暗い色だし、これらは同じ味噌を使っているのではなかろうか。

 なるほど、普段より力強い味なのも頷ける。



 水を飲み、味覚を一度落ち着かせる。

 舌に残った味が流れて行くのが少しばかり惜しいが、それはそうと水が美味しい。


 コップを置き、また箸を手に取る。


 箸は一直線にサラダの方に向かって、それを鷲掴みにする。

 苦味に寛容になったとは言え、やはり苦味は苦味。

 我慢するまでも無いが、気が進むわけでも無い。


 と思っていたのだが、気付けばサラダはミニトマトと少しの痕跡だけを残して、食い尽くされてしまった。

 味噌カツとサラダが共に盛られていた皿は、味噌カツとミニトマトだけになってしまった。


 ……いや、よく見たら、レモンがサラダの陰に隠れていた。

 レモンには申し訳ないが、味噌カツにレモンをかける気にはなれない。代わりにそっとミニトマトを食べた。


 ……あ、ちょっとだけ酸っぱくて美味しい。



 その後、再び私は味噌カツの味を堪能した。

 味噌の濃い旨味と、ふとした拍子に見えてくる苦味。

 白米と共に呑み込んだ後に来る、苦味があってこその後味。


 これらを繰り返し味わい、たまにマッシュドポテトやたくあんで、強烈な味覚に晒された舌を癒す。


 ……気がつくと、マッシュドポテトがあった小鉢は空になり、味噌カツは後一枚だけを残し……、


 白米が底を尽きていた。



 どうも私には、おかずと共に白米を食す際、白米を一口に多く含むきらいがある様なのだ。

 現に、味噌カツよりも先に白米が尽きてしまった。


 昔からの事だから今更直す気にはなれないが、それはそれで、出来る楽しみ方というものがあるのだ。


 最後のたくあんを口に運び、コリコリと単品だけで味わう。


 やはり米抜きでは味と匂いが強すぎるかな、と思いつつ、時間をかけて呑み込む。



 さて、このおぼんも、すっかり寂しくなったものだ。


 まともに中身が残っているものと言えば、味噌汁だけだろう。

 私は少しだけ名残惜しそうにお盆を眺めてから、味噌カツをゆっくりと持ち上げた。


 ……いや、前言撤回だ。

 これはもう、カツとは呼べない。



 残っていたカツは右端の一つ。味噌の一滴も掛からないぐらいの末端に位置したソレは、綺麗な衣と肉をそのままに残っていた。


 普通のソースさえも掛かっていない、純粋無垢なカツ。


 そこで私は思った。


 味噌もソースも掛かっていないコレは、一体どの様な味がするのだろう、と。



 私は興味本位のままに、サク、という音を鳴らしてカツに噛み付いた。


 先ほどまで口の中で暴れていた味噌の味は、もう無い。

 あるのは、言わば素材の味と呼ばれるもの。


 衣のほんのりとした香りと、肉のがっしりとした食感。


 ……暴れん坊だった味噌カツも、あの暗黒面を体現したかの様な黒い味噌から解放され、ようやく優しい面を見せてくれた。


 新しく見つけた味噌カツの……いや、カツの新しい一面を、私は愛おしそうに味わった。



 ……あ。


 しかしと言うもの、別れとは唐突に来てしまった。


 カツの末端にあったその一欠片は、どうしてもそれ相応の大きさになってしまう。


 そのせいだろう、咀嚼し続け、それを味わっていると、すっかり細かく砕けたカツを、無意識の内に呑み込んでしまった。



 思ったよりも早く訪れた別れに、私は無感情に器を見つめた。


 今まで旨そうに食べといてなんだが、私はカツの一切れぐらいで悲しむ様な性格をしていない。

 一口食べる度に一喜一憂を繰り返していると、いつかは疲れ果ててしまう。


 私は味噌汁を飲み干し、おぼんの上に乗った全ての品目を完食した。




 ……でも、そうは言ったものの、美味いものは美味いのだ。


 つまり、味噌カツも、白米も、マッシュドポテトも、たくあんも、味噌汁も、あと……あー、素のカツも、それとサラダも一応……、


 全部、美味しかったという事だ。


「ご馳走さま」

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食す。 馬汁 @bashil

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