第83話 体育フェスティバル9
北山一輝は走っていた。小さく暖かい手を掴んで懸命に走っていた。彼は今、手を引いている彼女が何をしでかそうとしてどうなってしまったか、等全然、全く、何にも知らなかった。ただ、彼女の元へ訪れて良からぬ雰囲気を察したからであった。
ここまでが松平潤平の計画だった。一輝は薄々感じながらも突き進むしかなかった。いくら潤平の計画がうまくいったとしてもここまで。あとは一輝自身の問題だ。
「ちょっと……どこ行くの?」
暫く走っていると後ろから心細い声が聞こえてきた。
「人が居ないところまで、と思ってたけどここでいいや」
辺りを見回すと、中庭まで来ていることが分かった。中庭は公社渡航者に挟まれた若干の空間の事を指す。明李という美少女は一人の純粋な乙女と成り果てていた。
「明李が困っていたように見えたから……その……」
「あ、ありがとう。でもっ!名前で呼ばないでっ!何回言わせるの?!」
明李は名前で呼ばれるのを拒んでいた。決していやだから、という訳ではない。ただ単に恥ずかしいだけなのだ。だから、彼女の知り合いの恋バナとかを聞いて「いつから名前よびって平気になるの?!」とツッコんだり「私はそこまでイチャイチャしないし。それ以前に彼氏いないし」と自虐ネタを挟み、砂糖を吐きだしたりしていた。知り合いが誰かは明記しない。
「名前で呼ばなかったらどうやって呼べばいいの?」
「え?名字とかあるじゃん。別に呼ばなくったっていいし」
「名字も名前だろ?」
「え?うん……。うん……そうだと思う」
「なら無理じゃない?」
「なら、名前で呼んでいいことにする」
実は一輝の前では急にポンコツになる明李であった。この現象は潤平に負けたから、というよりもいつも通りである。これがあの如月明李と同一人物?!と疑いたくなるが、事実である。
明李はようやく自分が何と言ったのかに気付き、ブンブンと首を振った。
「ち、違う。今の無し」
「明李は名前で呼んでって言いました~。取り消しは出来ません」
おどける一気に名前で呼ばれ、赤面する明李。このままではいけない、と判断したポンコツが話を変えた。
「それで?空気を呼んで連れ出してくれたみたいだけどどうするつもりなの?」
体育祭はまだ終わっていない。しかも一輝には最後のオオトリ種目「400mリレー」が残っていた。だが、一輝はそんなことすっかり忘れてしまっていたようでどうしよう……と隠すことなく動揺していた。明李はそんな一輝を見て深いため息を一つ。
「一直線過ぎ。もっと考えないと」
「って言われてもなぁ。考える前に気付いたら動いてる」
「そこがいいところでもあるけどね」
頭のまわる潤平や莉櫻よりも一輝の方が、明李個人としては可愛げがあるし、一緒に話していて楽しいと思っていた。そんな純水に褒められた一輝は恥ずかしそうに後頭部を掻いた。
いつまでもこの時間が続けばいいのに……と思っていた一輝だが、そうもいかない。潤平は名前を教えてすらいないのに特定してこのシチュエーションまでお膳立てしてくれた。決めなければ一輝のメンタル的に次がない。
「あ、あの!」
喉につっかえたものを取り出すような声を出してしまった。緊張感が漏れる。明李も機敏に感じ取ったようだ。明李としてはここでされてしまうと本当に完敗してしまう。だが、もうそんなことはどうでもいい。好きではない人となる訳ではない。好意を抱いている人となるのだ。そんな邪なことなど脳の片隅にもなくなっていた。
「はい」
「つ、付き合っている人とかい、いますか?」
「い、いません」
一輝としては死活問題だったので確認しておきたいことだったのだが、明李にとっては肩透かしを食らった気分だった。
正直に待っていた自分に恥ずかしさが込み上げ、明李は一輝を恨めしそうに睨んだ。しかし、整っている顔立ちであるために(もともと怖がらせるつもりもなかった)恐ろしさは無く、むしろ可愛さが滲み溢れていた。
「どうして睨まれてるの?」
「自分に訊いてみたらわかるんじゃない?私は知らない」
「俺が今から……告白するから怒ってる?」
「それはっ!……」
違うといいかけて飲み込んだ。一輝の言い分はあながちはずれではないとも思い出していたからだ。一番初めに告白されかけた時に、
『私に告白しに何て来ないで』
と、つき返したのだ。当時から隠れて両想いだったくせに、明李のきつい一言のせいで実らなかった。互いが凹んだ。理由は違ったが同じく荒れた。しかし、一輝は諦めなかった。(この場合だと諦めきれなかったといった方が適切かもしれない)
スーハーと浅い呼吸を整える一輝。
「良かったら俺と――――」
『400mリレーの選手は集まってください』
何と真が悪い事だろうか。アナウンスのおかげで一輝の告白は遮られ、一輝自身もリレーに召集されてしまう、魔のアナウンスだった。
「ごめん。行かないと」
「分かった。頑張って!……あと」
「うん?」
「その話……リレーで一位を獲ったらいい返事、してあげる」
ツン、と言い放つ明李だったが、やけどしそうな位熱くなった顔はある意味で悲鳴を上げていた。
リレーで一位を獲ったら、という条件は明李の案ではない。今となってはこれも潤平のせいだと推測できるが莉櫻から伝聞をうけた美玖が話したものだった。
「い、行って来る!!」
たまらず飛び出していった一輝はこけそうになりながらも全力で向かっていった。胸がちぎれそうなほど、痛いし、苦しい。もう何もしたくない。連続した内でも波は無く、いたずらに痛いだけだった。しかし、同時に甘くほっこりした安らかの中に感情があるのも感じていた。きっとこれが恋。明李はきゅっと胸元を握った。
「如月」
ハッと振り向くと大原先生が立ってこちらを見下げていた。慌てて手を後ろにやり、爆発してしまいそうな胸の鼓動を抑える。大原は何も表情を変えることなく明李に一歩近づいた。
「なんでしょうか」
「裏でこそこそとやっていたそうじゃないか。まさに“暗躍”ってやつだといえる」
明李の質問には答えず急に語り始めた。
「だが、松平はその先々を封じてしまっていたため、手が出せなかった」
大原には一つの望みがあった。その望みに動き出す2歩目として一輝を少し使ってみていたのだが、呆気なく見破られ、放棄した。潤平を駒として使うには少し自我が強すぎる。大原はその自我を壊そうとしているのだが失敗だらけであった。
「上にでもご報告するつもりですか?」
急に引き締まった表情で返す。先程までの面影は無かった。
「そんなことはしない。仕事が増えるのは面倒なだけだ」
「じゃぁなんで……」
「交渉材料として使っただけだ。そう身構えるな」
「そんなキツネみたいなことをされて警戒しない方がおかしい」
「本題は簡単だ。――――――になれ」
明李は雷撃で撃たれたかのように硬直し、再度訊き返した。
「本気でそう言ってますか?私は負けた身。そんな人間に……」
その可愛らしい顔からは似合わないほど、敵意のこもった瞳を向ける明李。大原もこれには苦笑するしかなかった。少し、知恵の回るものというのはどうしてこうも扱いづらいのだろう、とでも思っているに違いなかった。
「北山一輝を引き合いに出せば乗るか?」
「まだ無関係な人を巻き込むのはどうかと思いますが」
明李が反論すると大原は大人しく引き下がった。どうやら一輝を引き合いに出す方法は諦めたらしい。だからと言って完全に諦める先生ではないが。
「自らの希望として入ってくれることを期待している。それまでは危険と隣り合わせだと自覚して過ごせ」
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